番外編:同病相憐れむ
ノクト=イヴァニアが初めて戦場に立ったのは十二の時だ。ちょうど隣国との関係が怪しくなってきた頃で、国境では頻繁に小競り合いが起こっていた。
進んで戦場に出たのかと問われれば答えは否だが、身寄りのない少年にとっては町で細々と働いて日銭を稼ぐより余程実入りの良い「仕事」であった。彼の身の内に宿る常人離れした魔力もそれに大いに貢献した。
それからの十年間は、ノクトにとっては戦いの歴史である。大地を血で染め、数多の屍を乗り越えて、戦いの中で名を上げたノクトに国から正式に仕官要請が来るまで、さほど時間は掛からなかった。
こうして、後に華々しい戦果で語られる「葬送の微笑」は、少年期から青年期の十年余りを戦場に身を置くこととなる。
「よう」
掛けられた声に思わず回れ右をしてしまったノクトは、しかし直ぐにどたどたと後を追いかけてきた巨漢によって退路を塞がれてしまった。暑苦しいーーノクトには到底理解できないが、女性にとっては精悍で男らしい印象に映るらしいその顔を必要以上に近づけてくる筋肉だるまーーもとい、ダグラス=ニルバ魔術師団長は含みのある笑みを浮かべて言った。
「いきなり逃げ出すたぁいい度胸じゃねえか。上司に向かって」
「正しくは元上司です」
んなこたどうだっていいんだよ、と自分勝手に宣うダグラスにノクトは内心で舌打ちした。辛うじて表に出さずに済んだのは、元上司に対する小指の先ほどの敬意によるものだ。見た目は熊か巨人かと言わんばかりの逞しい体躯を持ったダグラスは、しかしその魔術の腕を買われ魔術師団長として活躍している。嘘つけお前どう考えても前衛職だろ、というのは魔術師団全員の総意だが、それを本人に言える強者は残念ながらまだ一人も出ていない。
ノクトが元上司の迷惑な絡みからどう逃げ出そうか画策する中、ダグラスは人を食ったような笑みを深くして続けた。
「聞いたぞ、お前、子どもを引き取ったんだって? どういう風の吹き回しだ、ああ?」
好奇の視線を隠そうともしないダグラスにノクトは本気で頭を抱えたくなった。
ーー誰だ。この熊に余計なことを吹き込んだのは。
ノクトがその子どもを拾ったのは数日前のことだ。町の往来で大泣きしていたのを見つけて、拾った。理由はノクトにもよく解らない。無理矢理理由を付けるとしたらーー気まぐれだ。
子どもは少女だった。少女は言葉を解しなかった。ただひたすら泣いていた。
少女は異世界の人間だった。この世界では時々そういったことが起こる。珍しくはあるが、皆無ではない。自宅に置いてきた子どもはまた今日も泣いているのだろう。家に鍵を掛けているわけではないが、少女が外に出た様子は一度もなかった。同時に、用意した食事にも手を付けない。水や野菜のスープなどは僅かに口をつけるようだが、固形の食べ物は得体のしれないものを見たように顔を顰めただけだった。ため息が出る。今まで何度か呼びかけてみたが、相手はノクトを拒絶するように顔を背けたままだ。女性や子どもには警戒されにくい顔の造作をしていると自負していただけに、この事態にはさしもの天才魔術師もお手上げと言って良かった。
ただ、食事をとらないのだけはさすがにまずい。このままではいくらももたないだろう。
厄介ごとに頭を悩ませているときに畳みかけるように新たな厄介ごとだ。今日は厄日か、頭が痛い。
「本当、なんだってんだ。話聞いたときはおったまげて思わずジェフの野郎殴っちまった」
「なるほど、犯人はあいつですか」
ダグラスに余計なことを吹き込んだらしいお調子者の同僚に内心で恨み言を吐きながら、ノクトは自宅で膝を抱えて泣いているであろう少女を思う。
ーーどうして、なんて、こちらが聞きたいくらいだ。
胸中で苦いものを感じながら、ノクトはまたお決まりの台詞を口にする。ダグラスは苦虫を噛み潰したような顔をするだろうが、他に言い訳も思いつかないのだから仕方がない。
「困っている人を助けるのは、道理でしょう」
□□□
自宅の扉を開ける。灯りをつけていない室内は薄暗く、満ちる静寂からは人の気配は感じない。「ただいま戻りました」と告げる声は無音の中にやけに響いた。
ノクトは少女の名を知らない。否、知らないわけではない。何度か彼女がそれらしい言葉を口にしたことはあるが、どうしても発音が上手くいかず、更に大声で泣かれてしまった。それ以来、ノクトはその名を口に出せずにいる。
扱いづらい、と思う。正直、面倒だ、とも。それならば何故、自分はあの娘を突き放すことが出来ないのだろう。
「……?」
ふと、妙だと思った。あまりにも静かすぎる。気配を、息遣いを、わずかな空気の揺らぎすら感じない。
ーーまさか。
弾かれたように走り出す。家の奥、彼女に与えた部屋の扉を乱暴に開けて中に入った。そこもまた、他の部屋と同じように薄暗い。簡素な一人用の寝台に人影はないーー否。
ちいさな、ちいさな寝息が聞こえた。ノクトの乱れた吐息にかき消されてしまいそうなそれは、間違いなくあの子どものもので。
思わず長く息を吐いた。少女は眠っていた。寝台の下で、くたりともたれ掛かるように。頬に浮かぶ涙の軌跡。短めの黒髪が湿っていた。泣き疲れて眠ってしまったのだろう。しかし息をしていた。生きていた。それにひどく安堵する。
眠る少女の傍らに膝をつき、涙の跡を指でなぞる。それでも彼女は起きなかった。眠りは深いのだろう。
痩せたな、と思う。やつれた、と言った方が正しいか。ふっくらとしていた頬は、少しだけ鋭角的になった。くたりと床に落ちた手首をそっと掴むと、ひどく細い。
失われる、と思った。そしてそれは、たまらなく恐ろしいことのように思えた。
(ああ……そうか)
右も左も解らぬ世界。空気の違いに困惑し、得体のしれない恐怖に戦き、戸惑う瞳におくられる不躾な視線。けれど生きていかねばならなくて、しかしそれを素直に受け入れられるほど大人でもない。そう、それはーー。
(似ているのか。十二の私に)
戦場に立ったばかりの頃の自分に。
ノクトは孤児だ。村は野盗に襲われた。野盗は戦に敗れた戦士のなれの果てであった。ノクトは父や母の身を貫いた剣も槍も大嫌いだし、村を焼いた炎の中に身を置くなど想像も出来なかった。
しかし、結果としてノクトは戦場に立ち、剣戟と怒号の中を生きてきた。初陣の日、年若い十二の少年の目に映った戦場は決して生易しいものではなかった。
見知らぬ大人に囲まれて、困惑と恐怖に支配され、それでもノクトが生きてこられたのはダグラスたちがいたからだ。手を伸ばしてくれた仲間がいたから、彼は戦場を駆けてこられた。
ーーけれど、彼女は。
似ている、といっても状況が違いすぎる。しかし、年若い娘があのとき見せた困惑した瞳に、戦慄く唇に、震える身体にあの日の自分を見たのだ。そう思ったとき、気づいたら手を伸ばしていた。あの時ダグラスが自分にしたように、彼女に。
容易に手が回ってしまう細い手首を握って、祈る。死ぬなと、どうか、死んでくれるなと。
既に日は沈んでいて、窓からそそぐ月明かりが柔らかく二人を照らしていた。これは、ノクトが少女と一つの約束を交わす、その前の晩の話である。