後編
子どもの頃、瀬田文那は自分の名前が好きではなかった。
ふみな、という響きがどうも古めかしく聞こえて、周囲の友人たちのきらきらした名前が羨ましかった。祖母の名前と一字違いというのも気に入らない理由の一つであった。
また、二つ違いの妹が「那菜」という名前だったのも文那のコンプレックスに更に拍車をかけた。当時流行っていたマンガの主人公と同じ響きの妹の名は、文那にとっては羨望の対象でしかない。可愛い妹のはずなのに、それが原因で喧嘩をしてしまったこともある。最終的に、自分の子どもには絶対に可愛い名前を付けようと決意して小学生の文那はなんとか溜飲を下げたのだが。
友人の名前を指して、こういう名前が良かったと両親を困らせたことも一度や二度ではない。同じ「文」なら、読み方を「あや」にして「あやな」にしてくれたら良かったのに、その方が可愛かったのに、と恨み言を言ったこともあった。
成長してからはさすがに表だってそれを訴えることはなくなったが、名前に対してのコンプレックスは文那の胸の内に長いこと巣くっていた。
「フィーナ」
ーー違う!!
名前を呼ばれない、ということがこんなに恐ろしいことなのだと知ったのは見知らぬ世界に飛ばされてからだ。ただでさえろくに周囲がなにを言っているのか解らないのに、自分を表す名前すら聞き慣れぬ言葉に変換されてしまう。違う、そうじゃないと否定しても、彼らが文那の名前を正しく発音することは一度もなかった。
ただただ恐ろしかった。見知らぬ世界で、見知らぬ人々の中で、無理矢理に変えられていく自分が。言葉を奪い、生活を奪い、未来を奪い、そして名前まで奪うのか。何故そんなことが許される。
日本語で叫ぶ罵声など誰にも通じない。皆が不愉快げに眉を寄せる中、ただ一人だけが手を伸ばしてくれた。ただ一人だけが、抱きしめてくれたのだ。
「フィーナ」
彼が紡ぐそれだけは、 ささくれだった心の内を傷つけることなく柔く滲んで、消えた。
□□□
「フィーナ、フィーナ?」
「……う?」
名を呼ぶ声と身体を揺すられる感覚にうっすらと目を開ける。滲んだ視界の先で心配げに眉を寄せるシュイは寝起きのせいか常よりも髪の毛のハネが顕著だ。滲んだ視界を何とかしようと目を擦る。同時に瞳にたまった涙が粒となって流れていった。
ああ、泣いていたのか。自分は。
「大丈夫? 嫌な夢でも見た?」
「わ、すれちゃいました……」
ず、と鼻をすする。こしこしと目を擦る間、シュイが何も言わずに頭を撫でてくれていた。彼女の手の平の感触が柔らかくて優しくて、また涙がこぼれた。
侍女にも休日というものがある。過ごし方は人それぞれで、部屋でゆっくり過ごす者もいれば、外に出かける者や趣味に没頭する者、中には恋人に会いに行く者など、思い思いの時を過ごしている。フィーナはそんな貴重な休日に一人、城の廊下を歩いていた。
理由は特にすることがないから、だ。これに尽きる。特に予定がなくて、しかしせっかくの休日に部屋にこもっているのも味気ない。だからといって予定もないのにわざわざ外出するのも……と悩んだ末に彼女の出した結論が城内散歩だった。
以前は退屈なときはノクトの研究室に顔を出したりもしていたのだが、この間のことがあってからフィーナは何となく師と今まで以上に距離を取るようになっていた。
(先生は、どうせいいとこ娘、くらいにしか思ってないんだろうしなあ)
これ以上近づかないようにと離れる道を選んだはずなのに、一年経ってこの様だ。根付いた思いは枯れるどころか、予想外に大きく育ってしまっている。
ため息が出た。このままで良いはずがないのに。
「フィーナ!!」
突然叫ぶように呼ばれた自分の名に目を瞠って振り返る。人もまばらな廊下の先から走ってくる見知った姿。しかしいつになく取り乱した様子のリカルドにフィーナは何事かと眉を寄せた。
はあ、はあと息を乱した少年はフィーナの側までくると強い力で少女の肩を掴んだ。次いでせっぱ詰まった視線を向けて息を乱したまま口を開いた。
師匠を知らないか、と。そう訊いてきたリカルドにフィーナは戸惑いながら首を横に振った。少年の肩が目に見えて下がる。
「ど、どうしたんですか。先生に、なにかあったの」
「……騎士が来たんだ。師匠は、禁術使用の罪で追われてる」
ーーきんじゅつ。聞き慣れない言葉にフィーナが首を傾げる。その後の、禁術に関する説明を含んだリカルドの言葉は、フィーナに衝撃を与えるに十分なものであった。
この世界には、一般に使用を禁止されている魔術がある。蘇生魔術、人に害を与える呪術、そして時空間魔術である。
「異なる空間から生物や無機物を呼び寄せるのが時空間魔術。でもこれは、安全性に問題があるとして認可されていないんだ」
呼び出すものが特定できない、対象が空間と空間の狭間に落ちてしまう可能性がある、無理に空間をねじ曲げてしまうと二つの世界にどんな影響があるか解らない、といった理由があるとリカルドは続けた。フィーナはそれをただ呆然としたまま聞いている。
国に目を付けられていたのは前々からだったと思い詰めたように少年は言った。幾度となく忠告を受け、しかしノクトは研究を止めようとはしなかった。そして、ついに国が動いたのだと。
「前兆は、少し前からあったんだ。でも研究は最終段階に入っていて……だから君に意思確認をした。君にその気がなければこの研究に意味はないからね」
君は答えなかったけれど、とリカルドは息を吐いた。
ノクトはなんと言っていた? 彼はこの三年、何の研究をしていた?
ーー約束は、必ず守ると。
「フィーナ!!」
弾かれたように小柄な少女が掛けだした。後ろでリカルドが叫んだが、それを気にかける余裕など今のフィーナにはなかった。
□□□
闇雲に城内を走りまわってみても望んだ相手はいっこうに見つからない。フィーナはすっかり上がった息を整えながら小さく悪態をついた。
(せん、せい)
禁術使用の罪で追われているーーそれはつまり、フィーナがノクトを犯罪者にしてしまったということだ。ノクトがこの三年を捧げてきた研究は、すべてフィーナのためなのだから。
フィーナは動きの鈍くなった頭で考える。禁術使用の罪、というのは、どれくらい重いのだろう。牢屋に入れられたり、まさか、命を取られてしまったりするのだろうかーーそんな自分の思考にぶるりと身震いをした時だった。
「ひぁ!」
突然、強い力で腕を引かれた。加えられる力のままにバランスを崩した身体がたくましい腕に支えられる。思わず固く閉じた瞼の外側、懐かしい匂いにハッと息を飲んだ。
先生。ちいさく呟いた言葉は相手の耳に届いたようで、吐息のような声で返事が返ってきた。その声が思ったよりも至近距離で、ぴくりと身体が固まる。
「フィーナ……良かった、見つかって」
「せっ、せん、せ」
「フィーナ」
ノクトの腕に力が入って、半ば抱きしめられているような姿勢なのに益々密着度が増す。顔に熱が上るのを感じながら見上げた先、見慣れたはずの師の笑みは、見たことがないほど切羽詰まっているように見えた。
じわじわと立ち上る不安に耐えきれず発しようとしたフィーナの声はしかし、被さるように上がったノクトの声に遮られた。
「お待たせしました。だいぶ、遅くなってしまった」
待って、待ってお願いと声を続けたいのに、何故か喉は張り付いたように動かない。ざわりと漂う予感は確信となってフィーナの胸を突いた。
「家に帰れますよ、フィーナ」
師は、今までで一番、晴れやかな顔で笑っていた。
ノクトに手を引かれて連れてこられた先は彼の研究室だった。どうやら、他に人はいないようだ。人目を気にするような師の様子に、国に追われているというのは嘘ではないのだと確信を持つ。
心臓が痛いくらいに鳴っていて、たまらずフィーナは胸を押さえる。それに構わず、ノクトはフィーナの手を引いたまま研究室の奥の部屋の扉に手を掛けた。
かちゃりと、小さな音を立てて扉が開かれる。暗幕で遮られているのか、室内は真っ暗だった。
ーー否。
(ま、魔法陣……?)
ほう、と青白い光を放ちながら床に描かれた円状のそれを表す言葉をフィーナは一つしか知らなかった。淡く発光する線で描かれた魔法陣が、部屋一面の床に広がっている。一種異様な光景にフィーナが思わず息を飲む。しかしノクトはそのままフィーナの手を引きながら魔法陣の中央へ歩いていった。
「先生……」
「大丈夫、怖くありません」
宥めるようにノクトが囁く。
常ならばフィーナを安心させてくれる師の言葉にも、今は不安しか感じない。やはりノクトは完成させてしまったのだ。禁術と呼ばれる、その魔術を。
その事実が戸惑うフィーナにのし掛かる。三年前なら心から喜んでいたであろうその事実は、三年を経て大きく色を変えたフィーナの心にはどうやっても重ならない。日本に帰りたい気持ちが消えたわけでは、もちろん無い。ただ、それ以上に成長してしまった気持ちが彼女の内に確かにあるのだ。
「せ、先生」
「……ようやく、ようやく、ここまで来た」
噛みしめるように長く長く息を吐き出しながらノクトが続ける。
「ようやく、あなたの願いを叶える準備が出来ました」
ノクトの両手がフィーナの両手を包む。師に比べて一回り以上ちいさなそれは、簡単に師の手の中に収まってしまった。重ねられた二人の両手にノクトが徐に額を当てる。
師の両手に力がこもる。息が止まりそうな静寂の中で、ノクトのそれは祈りにも懇願にも見えた。
どれくらいの時間が経ったのか、フィーナには解らなかった。祈るように頭を垂れたノクトがわずかに身じろぐ。
「フミナ」
一瞬、息が止まった。おそらくは心臓も。フィーナにとっては、それくらいの衝撃だった。
その名は、三年前のあの日に置いてきたはずだった。事実、この世界でその名を呼ばれたことなど一度もなかったのだ。
師が顔を上げる。榛色の双眸に映るのは、苦笑。
「フミナーーやはり、上手く発音できませんね」
そう言って自嘲するように首を振るノクトを呆然と見つめる。確かに発音は非常に頼りないものだったが、間違いなく「フミナ」と聞こえた。
「先生」
「この世界は、私たちはあなたから多くのものを奪いました。それを、今からすべて返します」
まず初めに名前を、と思ったのですが、と続けたノクトはもう一度片言で異世界の娘の名を口にして、やはり難しいと笑った。
それを目の当たりにして今、ひどく胸が熱い。この世界の人間が文那という名前をなめらかに発音できないことをフィーナは知っている。それが仕方がないことなのだということも、既に理解している。現に、今まで一人としてまともに発音出来なかったのだから。 失望は諦めになり、やがて初めから何も望まないことに変わった。期待するから落とされるのだ。それならば、初めから望まなければいい。そしてそれは「文那」という名を捨てることを意味していた。
仕方のないことだったのだ。それが、この世界で生きると言うことだった。
そのはずなのに。
フミナ、ともう一度声が聞こえた。それに答えることが出来なかったのは、涙を堪えることが出来なかったからだ。
ーーノクトは約束を守る。それは、彼が誰よりも優しい人だからだ。
「泣かないで、フミナ」
師の声が上から響く。フィーナはそれに答えず、ただ首を振って泣き続けた。
不意に、両手を包んでいた感触が消える。ぬくもりが消えた冷たさを感じるより先に全身を包んだのは、手など比べものにならないくらいの熱だった。
抱きしめられている。そう気づいたときには驚きで涙もぱたりと引っ込んだ。身動きできないくらいに強く抱き込まれた身体は痛いくらいのはずなのに、何故かたまらなく心地よい。
「ありがとう。ありがとう、フミナ」
ノクトは言った。
今こうして、人のぬくもりが暖かいと思えるのはきみのおかげだ。他人のために力を尽くそうと思えるのも、誰かの幸せを心の底から願えるのも、ただ一人に、この心を捧ぐことを教えてくれたのも。そして。
「別れに伴う胸の痛みもーーでもこれは、想像よりもずっと痛いな」
仕方ないか、と彼は笑った。同時に、二人を囲んでいた魔法陣がより一層、強い光を放った。巻き起こる風は強い魔力の奔流の証だ。準備はすべて整った。ノクトが告げる。時が満ちたと。
ゆっくりとフィーナの身体を離したノクトの、すべてを吹っ切ったように晴れ晴れとした榛色が如実に物語っていた。ついに来たのだ。その時が。
「ま、待って。待ってください、先生」
強い風に翻弄されながらフィーナが言う。ぴしりぴしりと肌を苛む魔力の渦は、魔力をもたないフィーナですら痛みを感じるほどに強いものだった。
歪む視界の中、必死にノクトを呼ぶ。待って、嫌だと胸の内で誰かが叫んでいる。
誰でも良い、誰か、止めて、お願い、どうか、どうか。
「フィーナ、大丈夫です。大丈夫だから、あなたはただ、祈っていて」
ーー祈るって、なにを。
「故郷を。思い出を。あなたが一番行きたいと思う場所を。あなたが一番生きたいと望む時を。それが、最後の鍵。強い祈りはあなたの力になる」
ーー待って、お願い、先生。
「もう少し……もう少しで、開く。さあ、フィーナ」
ーーせん……
光が集まる。視界は既に何も見えない。最大まで膨れ上がった魔力の渦に、五感すべてが飲み込まれる。
少女は祈る。祈りはわずかな雫となって魔力の渦に吸い込まれていった。