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異世界生活三年目  作者: 千幸
本編・番外編
2/10

中編

 約束をしようと、男は言った。


 藁をつかむ思いでその約束に縋った少女の胸の内、それは今も確かに根付いている。



「失礼します。郵便です」


「……」


 ぬかってしまった、とフィーナが気づいたのは師と別れた後になってからだ。

 どうせ魔術研究部門にも届けに行くことになるのだから、郵便をノクトに託せば良かったのだと気づいたときには後の祭り、やっちまった! と再び日本語で頭を抱えたのは先ほどのことだ。

 仕方あるまい、師にそんなことを頼むのも失礼といえば失礼だし、と自分を納得させ、とぼとぼと魔術研究部門に足を運んだ。更に運が悪いことに魔術研究部門はほかの部署とは少し離れた位置にある。つまり、一番遠いのだ。

 がらがらと台車を押してようやくたどり着いた目的の部屋で、フィーナの気分はどんよりと地を這ってしまった。


「ええと、郵便です」


「……」


(返事くらいしろよ)


 ぽつりと心の中で毒づいて、ノックをしても入室の挨拶をしても訪室理由を述べてもこちらに一瞥をくれるだけでうんともすんとも返事をしない相手に笑顔をひきつらせる。しかし諦めるわけにはいかない。郵便を届けたら、きちんと届きましたよ、という証明に一筆サインしてもらわなければならないのだ。残念ながら今この部屋には彼一人しかいない。ほかの連中どこ行った、と内心でため息を吐きながら手紙を持って彼のもとへ歩み寄る。相変わらず書き物を続けていた指先がようやく止まった。視線はいまだ落としたままだが。


「リカルド、郵便です」


 名指しで言ってやった。ほら、逃げ場はないぞ。


「置いていけば」


「でも、確認印をもらわないといけないのですが」


「……」


 はああ、とため息が聞こえた。ちょ、ため息吐きたいのこっちですけど。


 貸して、と同時に差し出された右手に手紙とサイン帳を渡す。数枚のそれに目を通した後、さらさらとサインを施し、部署の印鑑を押してくれた。そして役目は終わった、と言わんばかりにサイン帳をずいっと返される。


(なんてかわいくない……)


 相変わらずの冷たい対応に半眼でサイン帳を受け取る。

 リカルドはノクトの弟子の魔術師で、フィーナにとっても三年の交流がある人物だ。しかしこのつれない態度は何年経っても変わらない。最初から今までずっと、リカルドは生意気で生意気で……もひとつおまけに生意気だ。彼を見ていると「ツンデレ」という言葉をふと思い出すが、フィーナはこの三年でリカルドのデレを見たことがない。そして、正直そんな機会は生きている内には訪れないのではないかと思っている。この年下の少年のツンは、なかなかに鉄壁だ。


「ええと、久しぶりですね」


「……」


「あ、そういえばさっき、先生にお会いしましたよ」


「……」


「リカルドが寂しがっているって言ってました、あはは」


「……」


「おいこらツンデレ」(日本語)


「なんだって?」


 ぼそりと最後に呟いた言葉にリカルドがすかさず反応を返した。眉間の皺が深い。思わずびくりと肩が跳ねて内心焦る。絶対分からない日本語で吐いたのに、なんでそこだけ反応するんだ。


「腹が立つようなことを言われた、ってことは解る」


 それはまたずいぶんと優秀な第六感だな、と心の中で呟く。当たっている分、反論も出来ないが。

 ふと、ようやくこちらを向いたリカルドと視線が交わる。中性的な容姿は記憶の中の彼とさほど変わらないが、少し骨格がしっかりしてきたような気がする。以前に比べ、頬のまろみよりも鋭さが目立つようになった。

 その事実に瞠目する。久しぶりだとは思ったけれどまさかこれ程とは。おまけに、彼は椅子に座っているはずなのに妙に目線が近いような気がする。ここしばらくで、だいぶ背も伸びたのだろう。何だか感慨深い。恐るべし成長期。


「……なに」


「あ、いえ、その。おっきくなりましたね、リカルド」


 無言でデコぴんが飛んできたのは言うまでもない。


□□□


「じゃあ、そろそろ行きますね」


 いまだじんじんと痛む額を押さえながら告げると、リカルドはちらりと横目でこちらを見た。その視線から「早く行け、早く」という念を感じるのはおそらく気のせいではないだろう。一応、誉め言葉のつもりだったのだとフォローしてみたところで痛恨の二発目が飛んでくるのは想像に易い。本当扱いづらいな思春期って。

 とりあえず退散しようと台車を押して踵を返そうとしたとき、ぼそりと呟くような声が背中に掛かった。


「ねえ」


「は?」


 まさか引き止められるとは思わず、上げた声が上擦ってしまった。机に座ったまま目線だけをこちらに向けたリカルドがしばし逡巡する。言うか言うまいか、そんな表情にも見えた。

 どうしたのだろう、と純粋な疑問が浮かぶ。発言はいつでも直球ストレート、ところどころ死球もあるよ、を地で行くリカルドが言いよどんでいるという事実がフィーナにはひどく珍しく思えた。

 そんなに重要な話があるのか、それともここ一番の嫌みを焦らした後に放ってくれるつもりなのか。どちらにせよ警戒心が募る。やがて、躊躇いがちに彼の口が開いた。


「君さ、そうやってるとまるで本物の侍女みたいに見える」


 後者だった。


 ぴく、と口の端をひきつらせた後、ええ、ええそうでしょうね。なんてったって一年やっていますからね、侍女。黒ワンピに白エプロンのお仕着せだって、そろそろ着られている感もなくなってきていると思いますよ、ええ。なにせ一年やっていますからね。一年。というようなことを懇切丁寧に教えて差し上げた。

 今まで少なくとも数回は侍女の姿で会っているはずで、その度きちんと仕事もやってきたつもりなのだが、あれか。ままごとにしか見えなかったとか、そういう類の嫌みか。

 出来ることなら「喧嘩売ってんのかこの野郎」と言い放ってやりたいところだが、あいにくフィーナは「この野郎」を知らない。それどころか、乱暴な言い回しや下品な単語の類を殆ど知らないのだ。これは、彼女にこちらの言葉を教えたのがノクトだから、ということにある。丁寧語が標準装備の師によって、フィーナの言葉もしばしばそういった評価を受けることが多い。しかし、ここ一年いろいろな類の人間と知り合うようになってからはその限りではなくなってきているが。


 嫌みに皮肉で返してやろうと息巻いたフィーナだったが、当のリカルドはいたって真剣に言葉を継いだ。だからこそ、一瞬反応が遅れた。


「師匠は、約束を覚えているよ」


「え?」


「ちゃんと、守るつもりでいる」


 不意を突かれた、と言っていい。意図せず交わった視線がひどく真剣で、真っ直ぐ向けられるそれに続ける言葉を見失った。


「君は、どうするの?」


 年下の少年の強い視線に曝されながら、嫌みの方

がいくらかマシだな、と、そう思った。


□□□


「失礼します」


「はーい、あら。お疲れさま、疲れたでしょう?」


 空にした台車を押しながら鑑定部門に戻ると、魔術師の女性がお茶を入れてくれた。普段ならこんなことはないのだけれど、今回は量が量だっただけに労いの気持ちを込めて、らしい。初めはこちらも仕事だからと断ったフィーナだったが、ほんの気持ちだからと申し訳なさそうに頭を下げられれば無碍に断ることも出来ず、結局ごちそうになることにした。この後の仕事まで少しだけ時間があったのも理由の一つだ。

 女性が出してくれたお茶はトト茶という、この世界では最もポピュラーな種類のものだった。少し濃いめに煮出したトト茶に焼き菓子を添えてくれたそれは、もう立派なティータイムだ。


 カップに口を付けると、淡い琥珀色の水面に映る少女の顔がゆらゆらと歪んだ。さざ波が立ったように落ち着かないそれは、まるで今の自分の心のようだーーそんなことを考えてしまうくらいには、いまのフィーナは疲れていた。


(……逃げて来ちゃった)


 逃げた。やはり、そうなるのだろう。あれは。

 リカルドに向けられた真摯な視線も言葉も、受け止めるには少し痛くて、まだ仕事があるのを理由に逃げるように研究室を後にした。妙に聡いところのある少年だ。怪訝に思われたかもしれない。


 水面に静寂が戻る。思い詰めた顔をした少女が、じっとこちらを見つめていた。

 ーー何故か、無性にノクトに会いたくなった。


□□□


 一日の仕事を終えるのは、いつもだいたい夕暮れだ。箒や雑巾などの掃除道具を持って廊下を歩いていると、窓から入ってくる夕焼けが眩しい。目を細めて少し慌ただしくなった外の景色を眺めた。城の高層階からは町の様子がよく見える。夜が近いからか、帰宅時間に重なるからか、人の波が少しだけ忙しない。皆、我が家に帰るのだろう。夕焼け色に染まった家々からは、ふわふわと柔らかい煙が立ち上っている。きゃっきゃと楽しそうに走る子どもたちも、それぞれがあのあたたかな家に帰っていくのだろう。


「……」


 吐息で窓硝子が白く曇った。いつの間にそんなに近づいていたのだろうと苦笑した。

 自分にもあんな家があったなあ、とふと思う。そして、その先の思考に愕然とした。


 ーーああ、ほんとうに、わたしは。


 笑みは更に苦さを増して、確かな己の変化にちいさく頭を振る。

 三年、だ。決して短くはないその期間は、フィーナにあまたの変化を与えた。


 数学や英語が出来なくなった代わりに、市場での値切りの技術を身につけ、聞いたこともない言語の読み書きが出来るようになった。自分の部屋しか掃除をしたことがなかった十五の娘が、トイレ掃除や生ゴミの処理まで顔を顰めずこなせるようになった。

 トト茶の入れ方なら師よりも上手だと言ってもらえる。縫い物の腕は、リカルドよりも遙かに上手い。


 どれも皆、こちらに来てから身につけた、かけがえのない財産で、今のフィーナを形作っているもののすべてだ。


(どうしよう、わたし)


 リカルドは、的確にフィーナの迷いを突いたのだ。約束を守れるのかと。その覚悟があるのかと。


 ノクトに保護され、彼の家で過ごしたのはたったの二年だ。あちらでの十五年に比べたらずっと少ないはずのその期間は、思えばひどく濃密なものだった。暴力的なまでに性急に頭の中に入ってくる新しい情報たち。それをひたすらかみ砕いて飲み込んで、あまりに膨大すぎるその量に窒息しそうになる度に幾度となく投げ出したくなった。泣いて喚いて暴れて、もう嫌だと叫ぶ異世界の少女を、同じ数だけ宥めて導いていったのは、他でもないノクトなのだ。

 思い詰めてノクトの家を飛び出したのだって一度や二度ではない。しかしどこにも行くあてのないフィーナが戻る場所などただ一つで、頭を冷やして気まずい心地で帰ってくる度、ノクトはただ穏やかに迎えてくれた。


 責めもせず、怒りもせず、お腹が空いたでしょう? と、美味しい夕食の匂いと共に、笑って。


 フィーナが愕然としたのは、そんなノクトの笑みが何よりも先に脳裏を過ぎったからだ。あたたかい家を思ったときに、遠い故郷にいる、十五年間を共に過ごした家族よりも、ノクトのおかえりなさいの声が何よりも先によみがえった。一年前、侍女になるために出たきり帰っていないその家を、まず何よりも恋しいと思った。


 それは、つまり。



「フィーナ?」


 唐突に鼓膜を揺らしたその声に、びくりと身体中が跳ねた。ひどい偶然だと、己の運命を呪った。迷いを如実に自覚した今、彼にどんな顔をして会えばいいのかわからない。

 恐る恐る向けた視線の先で、師が不思議そうに首を傾げる。


 柔和な顔に常に浮かんだ笑み。それを胡散臭くて信用ならないと評価する人も少なからずいるという。あの男は笑いながら人殺しが出来るのだと以前聞かされたことがあるが、見知らぬ誰かの弁と目の前の師と、どちらを信じるのかを躊躇するほど、フィーナは恩知らずではなかった。

 師は、優しい人だ。少なくとも、フィーナにとってはそうであった。


「先生」


 ぽつりと漏らした言葉にノクトは目を細めて答える。師をそう呼ぶようになったのは、彼自身にその単語を習ってからだ。それまでノクトをどう呼んだらよいのか解らず、名前で呼ぶのも何となく気が引けて、そもそも発音が上手く出来なくて、身振りや「あの」という言葉でしか彼を表すものを知らなかったフィーナが、初めて使った言葉であった。

 師、先生という意味のあるその単語ーーそれが偶然にも日本語の同じ意味の言葉の響きと似ていて、思わぬ共通点に嬉しくなった。

 それ以来、フィーナはノクトだけを「先生」と呼ぶ。それは、フィーナにとっての固有名詞であった。


「先生は」


 その問いかけをするのは初めてではない。過去に幾度となく同じことを聞いて、同じ答えが返ってきた。また、同じだろうか。知りたいと思うのは、いけないことだろうか。

 そしてフィーナは、その先を紡ぐ。


「先生は、どうしてわたしを拾ってくれたんですか」


 榛色(はしばみいろ)の双眸が瞬く。そして、徐々に探るように細められる。

 今まではこの質問に、判を押したように困っている人を助けるのは道理、と返してきたノクトだが、それだけが本心ではないのだろうということはフィーナにも解っていた。嘘はついていないのだろうが、きっとそれだけが真実ではない。そんな気がした。そして、それはおそらく正しい。


 しばし視線が絡んだ。張りつめた糸のような緊張感に一瞬呼吸すら忘れる。

 先に目を逸らしたのはノクトだった。


「気まぐれです」


「きっ」


「初めはね」


 諦めたように伏せた視線が再び上がる。

 フィーナの様子を感じ取ったのか、師の微笑は常のものよりも苦い。


「今まで奪うことしかしてこなかった自分に、どこまでやれるか試してみようと思ったのです」


 正反対のことを、とノクトは続ける。

 赤子のようだーーそれが第一印象だった。ぶつけられた理不尽に泣きわめく子ども。迷子になって途方に暮れている子ども。思い通りにならなくて癇癪を起こす子ども。見知らぬ地で、唯一差し伸べられた手に縋る子ども。


 育ててみようと思ったと、彼は言った。花一輪、まともに育てたことのない男にどこまでやれるか、純粋に興味があったと。


「この三年で、あなたは本当に成長しました。わたしの名前はそんなんじゃないと頑なに口を閉ざしていた少女だったのに」


 迷子のように頼りない目をしていた異世界の娘は、徐々に、少しずつ、ゆっくりと変わっていった。言葉を覚え、道理を知り、知識をたくわえて。

 頑なに咲くのを拒んでいた蕾がようやくほころぶ(さま)に、動じなくなった心がわずかに震えた。それは時を経るごとに徐々に大きくなる。


「一番初めに交わした約束を覚えていますか、フィーナ」


 はい、とちいさく呟く。

 約束ーーそれは、三年前のフィーナにとっては確かな希望だった。毎日毎日、家に帰せと泣きわめき、食事もとらず、泣き疲れて眠るまで泣き続けた異世界の娘に、魔術師の男が告げた約束。痩せて一回りちいさくなった稚い少女の肩を引き寄せ、交わした約束。


 ーー私が、あなたを家に帰します。必ず。だから、あなたもその日がくるまで死んではならない。絶対に。そしてーー……。


「必ず帰る、その思いを決して捨てずに持っていなさい。強い祈りは、あなたの力になる」


 あのときと一語一句違えることなく同じ言葉を紡ぐノクトにフィーナは胸を押さえる。リカルドの言ったとおりだ。ノクトは変わらない。気持ちのひとつひとつまで、あのときのままなのだろう。研究専門の魔術師である彼が、ここ最近はひとつの研究に掛かり切りなのをフィーナは知っている。一年前、フィーナがノクトの家を出てからは特にその兆候が顕著になった。それもこれもきっと、三年前の約束を守るために。


 ーーでは、わたしは?


 自問に答えなど出るはずもなく、ノクトもフィーナの胸の内など気づかない。


「もう少しです、フィーナ。もう少しで、あなたの望みを叶えてあげられる。私はあなたに、幸せになってもらいたい」


 まるで愛しい娘に言うように、ノクトが心底嬉しそうに、噛みしめるように話すものだから、それに嘘がないことが解れば解るほど、フィーナは思いを懸命に飲み下し、覆い隠して、深く沈める。これは罪だと、頭の奥で誰かが叫んでいる気がした。




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