前編
朝の始まりは夜明けと共にやってくる。東の空が白んでくるのと同時に狭いベッドから抜け出し、まだ夢の中にいる同僚たちを起こさぬように慎重に着替えを済ませる。冷たい水で顔を洗って三年の間にすっかり伸びた髪を後頭部でひとつに纏めれば、身に馴染んだお仕事スタイルが完成する。
朝一番の仕事は夜の間に洗い上がった洗濯物を干すことだ。城中から集められる汚れ物はたった一日でものすごい量になる。様々な部署から様々な種類の汚れをたくわえ集められた汚れ物たちは、夜の内に巨大洗濯機……もとい、特殊な魔術が施された大きな箱の中でごうんごうんと洗濯される。「特殊な魔術」とやらの効果で油汚れも皮脂汚れも血液ですらきれいに分解、真っ白に洗い上げるそのシステムは侍女として働いて一年が過ぎた今でも素直にすごいと思える。
色柄ものも一緒でOK、縮みや型くずれも心配なし、タオルもふわふわ、洗濯表示マーク? それ何語? を地で行くチート仕様。一家に一台魔術洗濯機!! ただしお値段もチート仕様のお金持ち向け贅沢品なのであしからず。
「今日も早いねー、フィーナ」
シミも臭いもきれいにとれた厨房の料理番専用の前掛けを干していると、後ろから声が掛かる。振り返った先に立つ同僚ーーシュイはあちこちが跳ねた癖毛のショートヘアを手の平で撫でつけながら苦笑していた。
「おはようございます、シュイ」
「おはよ。もう、私も起こしてって言ってるのに」
いっつも先に行っちゃうんだから、と口を尖らせるシュイもまた同じように隣で洗濯物を干し始める。
朝一番の洗濯物干しは新人の侍女の仕事だ。今のところ最若手であるフィーナがそれを担うのは必然なのだが、シュイに言わせればそんな悪習はぶっ壊してしかるべき、らしい。
「だいたい一人でやらせるから時間が掛かって仕方がないのよ。こんなの、皆でやればすぐに終わるのに。楽したいセンパイたちの怠慢じゃない、怠慢。だから太るのよ」
「あっはは」
笑い事じゃねえっつーのよ、と小突かれてしまった。地味に痛くて頭をさする。
シュイは宮廷侍女の先輩ーーたかだか半年早い入職で先輩ヅラなんかしていられない、というのはシュイ本人の弁だが、それでも先輩は先輩である。たとえ彼女がフィーナより二歳年下なのだとしても、だ。
宮廷侍女として働き始めてようやく一年。右も左もわからないフィーナに侍女のイロハをたたき込んでくれたシュイを、フィーナは面倒見の良い姉のように思っていた。
(まあ、わたしの方が年上だけど)
ふと、視線を手元に落とす。毎日の水仕事の弊害でかさかさと白い粉を吹いたちいさな手。指の関節に赤く線を引いたように出来たあかぎれは、三年前にはなかったものだ。三年前、暇さえあれば塗っていた、海外ブランドの甘い香りのするハンドクリームはここにはない。ワセリンのような無臭の味気ない保湿剤を塗っても、頻繁に水に触れるからすぐに落ちてしまう。その上、けっこう値段も張る。侍女の薄給で無駄遣いは出来ないと見切りをつけて乾燥対策を取っていなかった両手は、十八歳の女性のものとは思えないほど潤いを失っていた。
ーー三年。
口の中で噛みしめるように転がしてみると、改めて思う。長いな、と。
実りの季節の終わりを知らせる冷たい風が頬を撫でる。耳の横の、束ね損ねた黒髪が顔をくすぐって、思わず触れた肌はずいぶんと乾いていた。これも、この世界に落とされてから失ったものの一つだろう。
「……」
「うん? フィーナ? どうしたの」
苦くて長いため息を聞きつけたシュイが不思議そうに顔を覗き込んでくる。フィーナはそれに首を振り、なんでもないと笑顔で返した。
手入れの行き届いた手も肌も、三年前のあの日に置いてきた。期待と不安に満ちた高校生活は始まる前に遠ざかり、友人も家族も、無限に広がっていた未来も、可能性も、名前ですらーー……。
ふと、顔を上げた。いつの間にか太陽はすっかり昇っていて、抜けるような青空が痛いくらいだ。
「シュイ」
「うん?」
「空が、青いですね」
「え、うん」
「それに、とても高い。この時期の空は特に高く見えます」
「……フィーナ?」
訝しげなシュイの声に知らない振りを決め込んで残りの洗濯物を干す。視線は努めて下げておく。こういう空は好きではない。
あの日の、最後に見た空とそっくりなそれは、目にも心にも優しくはない。思い知らされるのだ。あの日の空とそっくりなこの空は、どこまで行っても懐かしいあの景色には繋がっていないのだと。
□□□
瀬田文那が現代日本から切り離されてこちらにやってきたのは、高校受験を間近に控えた十五歳の晩秋のことだ。
肌寒い朝だった。家のドアを開けた途端に飛び込んできた冷たい空気に、薄手のコートを羽織った身体を縮こませながら、そろそろ厚い上着を出さなくちゃいけないな、とぼんやり考えていた。その時、後ろから母親の声が聞こえた。夕方から雨が降りそうだから傘を持って行った方がいい、そんな内容だったはずだ。
ふと、空を見上げた。抜けるような青空だった。眩しくて思わず目を細めて、本当に雨なんか降るのかな、と、そう思ったのが最後の記憶。思考はそこで唐突に途切れて、青い空は一気に暗転した。そこから、こちらの大地に足をつけるまでの記憶は、ひどく曖昧だ。殆ど無いと言って良い。
気がつけば見知らぬ土地にいて、大混乱の末に大泣きしてしまったのは仕方がない。若干十五歳の小娘が飲み込むには、ひどく大きすぎる事象であったのだから。
周りは彫りの深い外国人風の顔だらけ、平面顔なんてどこにもなくて、ぐるりと見渡すばかりの3D。顔にそんなに凹凸あってどうするんだ。更に言えば髪の色や目の色も十人十色。金髪銀髪はまだ良い。緑に赤にピンクにむらさきオレンジ……目がチカチカして、思わず両目を手で覆ったのは懐かしい思い出だ。
更に、当然のように言葉は通じなかった。3Dからこぼれる不可解な音が、英語でもフランス語でもドイツ語でも、最早地球で使われているどんな言語とも違うものなのだと気付いたのはもう少し後のことだが。
不幸中の幸いというか、突然知らない世界に放り出された小娘が今の今までそれなりにまともな生活を送ることができた理由は、良い人に保護してもらえたから、だ。ただただこれに尽きる。
「シュイ、ありがとうございました。おかげで早く終わりました」
「全然。じゃあ、食堂行こっか。朝ごはん食べるでしょ」
笑みと共に言われた提案に頷いて、空になった洗濯かごを台車に乗せる。洗濯物の量が量なだけに、最早かごというよりちょっとした浴槽サイズのそれは、洗濯物を入れると台車に乗せて運ばないといけない重さになってしまうのだ。
片付けてくるから先に行っていてほしいと話してシュイと別れる。早朝を過ぎ、少しずつ人の姿が見え始めた廊下を歩きながらふと先ほどまでいた場所に目をやれば、透明な窓の外、風にたなびく洗濯物たちがひらひらと波打って、太陽の光を浴びていた。
ーー今日も良い天気になりそうだ。
食堂はお城で働いている人の共用スペースだ。侍女はもちろん、騎士に兵士に魔術師に、庭師に厨房の小間使いまで、利用者は多岐に渡る。おまけに朝の一番忙しい時間帯。混まないわけがない。
がやがやと賑やかな食堂に入ってきょろきょろと周りを見渡す。シュイが先に待っていてくれるはずだが、この混みようではまともに席が取れたのかも怪しい。
「おーい、おーい! フィーナ」
一瞬の杞憂は、喧騒に満ちた空間でもよく通る少女の声によってすぐに霧散した。
手を振って答えてくれたシュイに同じく手を振って返し、先に食事のトレーを受け取りに行く。食堂はセルフサービスに近い。今朝のメニューはパンに野菜のスープ、主菜のみ三種類から選べる仕様で、フィーナは魚の皿を手に取った。この国で最もポピュラーに食べられているリャモという白身魚はバターで焼くととても美味しいのだ。
付け合わせにサラダを乗せてカップにお茶を注いでからシュイの側まで行く。彼女は今朝はオムレツにしたらしい。
「ありがとうございます、シュイ」
「全然。けっこう混んできたね」
シュイの言葉に頷いて周囲を見渡す。心なしか、また増えたようだ。
早く食べちゃおう、という声に促され、シュイの向かいの席に腰を下ろす。確かに、あまりゆっくり食べてもいられない。侍女はそれなりに忙しいのだ。
侍女、と一言でいっても仕事内容は多岐に渡る。各部門の長官や王族なんかの世話をしているような人も侍女と呼ぶし、掃除や洗濯、おつかいなどの雑用を主に担っている人も侍女だ。呼び名は同じだが前者の方が高給取りなのは言うまでもない。ちなみにフィーナは後者である。
「フィーナ、午前は?」
「あ、今日は郵便です」
「へーいいなあ」
郵便というのはそのまま、城に届いた郵便物を各部門に配る仕事だ。届いた郵便物は、一度鑑定部門に回されて危険がないか確認されてから各部門に配られる。本当に、城の端から端まで歩き回らなければならないので大変なのだが、シュイに言わせればいろんな部署を覗くことが出来て楽しいらしい。フィーナもまたそんな郵便の仕事が嫌いではなかった。城内の地理を覚えるまでは大変だったが、慣れてしまえば良い気分転換になるのだ。
□□□
「はい、これで全部」
どすん、と台車の上に乗せられた手紙の束や積まれた小包を見てフィーナは瞬いた。
「けっこう、多いですね……」
「そうねえ、ほら、休み明けで一気に届いちゃったから」
「ああ、なるほど……」
鑑定部門の魔術師の女性が苦笑する。あまり意識はしていなかったが、昨日までの三日間、祝日が重なって連休だったのだ。休みの内にたまったものが一気に来たらしい。
鑑定する方も大変だったわよ、とうんざりしたように彼女は言う。危険な魔法がかけられた郵便物がないかチェックをするのは、透視や察知の能力を持った魔術師の役目だ。あまり人数は多くないので早朝からてんてこまいだったようだ。お疲れさまです、とフィーナは心から労った。
がらがらと台車を押しながら各部門を回る。厨房、医務室、騎士の詰め所などを早足で駆け回っていると、急ぐあまり周囲を気にしていなかったのが悪かったのか、廊下の曲がり角で人にぶつかりそうになってしまった。慌てて停止したのと相手がひらりと身をかわしてくれたおかげで、辛くも正面衝突は免れたが、急ブレーキの影響で台車に乗せていた郵便物が崩れてしまった。
ずざざ、と雪崩ていく手紙の束にぎぁ! と悲鳴を上げる。咄嗟に手を伸ばすも既に遅く、手紙の束の殆どが床に落下してしまっていた。
マジっすか! 思わず日本語で叫んで頭を抱える。小包もいくつか倒れちゃったけど割れ物があったらどうしよう、というかどれだけ前方不注意なんだわたし! 等々、ぐるぐると頭の中を駆けめぐる。その合間に先に立ち直ったらしいぶつかりかけた相手が床に落下した手紙を拾ってくれていた。それを目の当たりにして更に慌てる。
「あ、あああの、すみません、あ、いや、ありがとうございます? 違う、あの、あっ、わ、わたしがひらりま、ひ? ひら、ひら、り?」
「拾います、ですよ。フィーナ」
ふ、とちいさく笑って訂正する仕草はひどく懐かしいものののようにフィーナには思えた。以前、まだこちらの言葉を覚えかけの頃に単語を間違える度、こうして優しく訂正してくれた、人。
あ、と微かな声を上げて相手をよくよく確認すれば、それは非常によく見知った顔で。
ああ、と安堵の息を吐いたフィーナに、その人物は白皙に浮かべた笑みを深くした。
「先生」
「はい、おはようごさいます、フィーナ。さて、早く拾ってしまいましょうか」
「あ、はい。ひ、ひろいます」
男の言葉にフィーナも崩れた手紙の束を拾い始める。幸いなことに小包の中身が壊れるようなことはなかったようで、手紙も部署ごとにまとめて分けてあったので別の部署のものが混ざることもなかったようだ。ほっと胸をなで下ろす。
「ありがとうございました、先生。とても助かりました」
「どういたしまして」
幾分高い位置にある男ーー魔術研究部門長官ノクト=イヴァニアの顔を見上げながらフィーナは言った。
ノクトはこの世界に落とされたフィーナを保護した人物だ。何の前触れもなく唐突に故郷から切り離され、泣いて周りを拒絶する少女に手を伸ばし、衣食住を保証し、言葉と知識を与え、生きる術を教えた相手だ。
変わり者と称される研究畑の魔術師がなんの気まぐれだと囁く言葉を笑みでかわして、しかし寄る辺ない十五の娘の手を決して離しはしなかった。家に帰してくれと詰め寄られても、魔法なんか知らない、こんな国も言葉も知らないと泣かれても、根気強く宥めながら相手をしてきた。そんなノクトに、フィーナもまた雛鳥が親に縋るように懐いていった。
「忙しそうですね、フィーナ」
「あ、はい。忙しいです。でも、楽しいです」
そうですか、とノクトが目を細める。その顔が少しだけ寂しそうに見えるのは、フィーナの希望なのかもしれない。
意を決して師のもとを離れて一年。この判断が間違いだったとは決して思わない。
「先生は、どうですか」
「ああ、はい。まずまずといったところでしょうか」
もう少しだけ、待っていてくださいね。笑みを浮かべたままそう続けるノクトにフィーナも曖昧に笑う。この師はいつもこんな風に穏やかに笑っている。今は専ら研究専門の魔術師で、日がな一日研究室にこもっていることが多いが、昔は戦場に出ていたこともあるらしい。今のノクトからは想像も出来ないが、ひとたび戦場に出れば半径十数メートルを消し炭に変えていたそうだから、人というものは本当に見た目で判断できない。見た目は優男風なのに、昔の通り名は「葬送の微笑」なんていうらしい。中学二年生もびっくりだ。
「では、私はこれで。たまには研究室にも顔を出してくださいね。リカルドも寂しがっています」
「そ、うでしょうか……」
絶対そんなこと無いと思いますけどね! と心の中で続けながらリカルドーーノクトの弟子である魔術師の少年を思い浮かべる。しかしどれだけ記憶を辿っても、可愛らしい唇から紡がれる生意気で辛辣な台詞しか思い出せず、あえなく思考を中断した。
とりあえずまだ配り物があるからと、師とはそこで一旦別れ、先を急ぐことにした。