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死に化粧屋  作者: 海来
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7話

 化粧品売場のカウンターの前に立つ実月は、彼女の目の前で接客している他メーカーの美容部員よりも華があり、美しく、若々しい。彼女が本当は68才だとは、決して誰も思うはずがない。

 なぜ実月があれほどの若さを保っていられるのか、その答えは竜神の声の筆にあるとみて間違いないだろう。人外の力が関わっていない限り、68才が30代には見えない。その反対に、陽月の祖母葉月は全身を病に蝕まれ老いさらばえてしまった。この二人の違いは、何だろう。それを知っているのは、竜神か、もしくは実月自身しかいない。竜神は、答える気は今のところなさそうだった。

 陽月は、腰のウエストポーチのメイクブラシの中にケースに入れて差し込んである祖母の紅筆をきゅっと握った。柔らかな素材が手に心地いいこのケースは、さっき休憩に入ったときに買ったもので、ふわふわした素材にピンクのハートがプリントされている。あまり好きではなかったが、サイズの合う細長いポーチはこれしかなかったのだ。間違ってもお客にこの紅筆を使うわけにはいかない。そのためにわざわざ購入したのだ。

 触り心地だけで満足しようと、全く関係ないことを考えていると、実月が口を開いた。

「こんにちは、陽月。ここがあなたの職場なのね」

 実月の声に、接客していた美容部員が顔を上げた。

「あら、お客様。速水さんとお知り合いなんですか」

 笑顔の中で、競争心がちらりと浮かんだ瞳が陽月に向けられた。他メーカー同士なら、客の奪い合いはあって当然だ。ただ、あからさまな争いは決してしない。お客様第一を貫き通せなければ、プロフェッショナルとは言えないのだから。

「いえ、知り合いと言うほどではありません」

 陽月はこれっぽっちも笑顔を見せるつもりはないが、どこで誰が見ているかも分からない、3分咲きの笑顔を顔に貼り付けた。

「もう、陽月ったら。よく知ってるじゃないの。後でそちらに行くわ。お話もしたいし」

「ええ、私もお伺いしたいことはありますよ。どうやったら、そんなに若さを保っていられるかについて」

 実月は微笑んだ。まるでその質問がくると分かっていたかのように、平然と微笑んでいる。

「教えて上げるわよ。あなたが私の欲しいものをくれるならね」

 美容部員が実月の買った商品を袋に入れて手に持ち、カウンターから出てきて手渡した。

「このお口紅は、きっとお客様によくお似合いと思います。ぜひ、すぐにでもお使いになってくださいませ。ありがとうございます。またお越しくださいね」

 満面の笑みを浮かべ、お辞儀をした美容部員を、実月は舐めるように上から見ている。今にもぺろりと食べてしまいそうな感じがする。陽月は背中がぞわっと寒くなるのを感じた。

「ありがとう。それじゃあ」

 感情のない声で言うと、実月は陽月の方へと歩いてきた。

「いつも持ち歩いているの。愚かなこと。それの価値も分かっていないくせに。使い方も分からないでしょうに。教えて上げましょうか。私なら、葉月よりもずっとあなたの為になることを教えて上げられる」

 ケースに入れてあるにもかかわらず、実月は祖母の紅筆を見つめている。気持ちが悪い。

「私のためになること。それって、あんたのように、邪悪な化け物みたいになる方法ってことなの。いつまでも年をとらない恐ろしい妖怪みたいな……」

 実月の目に、邪悪さが現れたと思った瞬間には、黒目の部分が赤くなった。

『恐ろしい妖怪みたいとは、竜神の巫女は何も知らずに愚か者のままなのか』

 実月の口は全く動いていない。声も実月のものとは違い、静かに流れるせせらぎを思わせる清々しさと、深みを持った穏やかな声だ。

「だれ……」

 陽月の手の中で、ケースに入った紅筆が熱を持つ。それを感じ取った陽月には、答えが分かった。

「竜神の声の筆、よね」

 実月の胸のあたりから、犬の顔を持った生き物が顔を出す。姿かたちは竜神でトカゲとそっくりだが、全体に透けている。透けている身体を半分だけ出して、鳥のような鉤爪を広げた。瞳は黒々としていて真中だけが血のように紅い。

『ほおー、頭は悪くないらしい。まあ、見かけもいい。お前になら、力の使い方を伝授できるだろう』

 陽月がふんっと鼻を鳴らした。

「あんたなんか、トカゲですらないじゃない。透けてて気持ち悪い。そんなのに何か教えてもらおうなんて思わないわよ。おかしなことになりそうだもの。そう思わないトカゲ。あんたも、いいかげん出てきなさいよ」

 陽月が呼んでも、竜は出てくる気配を見せない。まるで様子を窺うかのように静かにしている。それに今、目の前に立つ実月は、まるで意識を乗っ取られたかのように見える。話しているのは竜神の声の筆だ。

 どういうことだろう、実月は自分の意思で動いているわけではないのだろうか。このあいだ寺を訪れた時は、実月自身だったはずだ。

『呼んだところで、やつは出て来ない。己の能力を最大限に使う気がないのだから、やつには何もできはしない。そうだろう、聖流セイル、癒しの竜よ』

 癒しの竜……聖流。セイルとは、もしかしなくてもトカゲのことだろうか。トカゲは、能力をあまり使ってないの。

「そりゃあそうでしょうよ。あんたなんかに、全力使う必要がないからじゃない」

『何も知らぬ小娘が。いつか必ず、聖流は頂きにいく。聖流は、私のものなのだから』

 すっと竜は消えた。実月の体が揺れて、はっと目を見開いた。少し唇が震えている。

「実月、あんたどうしたの」

 答えぬままに、実月は踵を返して化粧品コーナーを出て行った。陽月は、聞きたいことを何も聞けないまま、追いかけることも出来ず、その場に立ちつくしていた。

「ちょっと、速水さん。速水さんたら」

 他メーカーの美容部員の先輩が肩を叩いた。

「どうしたの。さっきのお客さんと何かあったの。お客さん、顔面蒼白だったわよ。なにを言ったか知らないけど、あのお客さんはうちの顧客になってくれたんだから、おかしな真似しないでよ」

 おかしな真似などするはずがない。ただ、聞きたいことがあっただけだ。でも、聞くことは出来なかった。実月からは何も聞けない、そう思うのは間違いだろうか。いいや、あの竜神の声の筆は、実月を思いのままにうごかせるのではないだろうか。対の筆だと聞いているのに、祖母の筆とは違う邪悪な印象を受けたのはなぜなのか。あの心地よい声とは正反対の背筋が寒くなるような真黒な瞳。中心の血の色が不気味だった。

 今夜、家に戻ったら、問い詰めてやらねばならないと、陽月は手の中のケースに入ったままの筆を握った。

 掌の中で、ドクンっと脈が打つような感触がした。

「トカゲ……って、癒しの竜なんだ」

「トカゲ? なに言ってるの」

 ため息をついて、美容部員の先輩は陽月から離れて行った。

「あのー、すみません」

 反対側から声がした。中年の主婦らしき客が、化粧水の瓶を持ち上げてこちらを見ている。他メーカーの先輩に目を向けると、動く寸前だ。陽月はそれよりも先に動いていた。

「いらっしゃいませ。おうかがいします」

 にっこりと微笑んだ陽月の顔は、接客モードに切り換わっていた。





 ゆっくりと湯船に浸かりながら、陽月は昼間の事を思いだしていた。実月の胸のあたりから現れた竜神の声の筆。あれが透けていたのはなぜだろう。もともとは祖母の持っていた筆ではないか、あれほど邪悪な感じがするのはもとからなのか。それに、もとから実体がないのか。それとも……

「それとも……なに……」

 声に出して言ってみても、答えが見つかるわけではない。ただ、あの時の実月の様子が引っ掛かる。人外のものに何かされたのだろうか。あんなものに出会ったしまっては、これから起こるであろう出来事が、急に恐ろしくなり始めた。今夜こそ、トカゲに全てを聞きたいと思う。

 そろそろ身体も温まって、いや、のぼせてしまうぐらいかもしれないと、湯船をでて、顔に冷水をかけた。気持ちがいい、やはり少し入り過ぎのようだ。

 風呂を上って自室に戻るために階段を上り始めると、父が玄関から入ってくるのが見えた。草履を脱いで足を上げようとすると、腰が痛いのか顔をしかめて足を元の位置まで下ろしてしまった。腰をさすっている。ここで声をかければ、また父が見栄を張って大丈夫な振りをするのは間違いない。そっとしておいて、後は母に任せておこうと思う。

 今の父を見ていると、これから始まるであろうもろもろの事に巻き込むことはできないと思えた。頼れる者はいない、この部屋の中にある祖母の紅筆は、どこまで頼っていいのだろう。もしかすると、あいつも邪悪な者かもしれない、一瞬だけ、陽月の心に不安がよぎる。

 それでも、思い切って部屋のドアを開けると、机の上で竜が腕を組みウロウロとしているではないか。なんだか、ユーモラスな感じだ。おもちゃの怪獣が動きまわっているように見える。

「ちょっと、肝心なときには出て来ないで、人がいないとそうやって出てきてるって、どういうことよ。卑怯者」

 机の上で竜が立ち止まって陽月を見上げた。

『卑怯者とは無礼だな。あんな場所へ出て行けるはずがないだろう』

「あんな場所で出てきたって、私にしか見えないじゃない。言い訳するんじゃないわよ。弱虫トカゲ」

 竜が足をドンッと踏んで睨みあげる。

『弱虫トカゲだと。俺はトカゲではない。竜神様と呼べ。愚か者めが』

 陽月は大きくうなずくと、ニッコリと微笑んだ。とても意地の悪そうな笑みだ。

「そうだった、トカゲじゃないわよね。あんたの名前は、聖流、セイルでしょう」

『あ。馬鹿者……その名は……』

 竜の声が遠くなったと思ったら、目の前の竜が消えてしまった。竜がいた机の上にユラユラと虹色の陽炎が揺れている。

「なに……」

 揺れていた陽炎はしっかりとはっきりと、大きな男の形となった。

 机の上に、天井まで届く大きな男が、ピンクのハート柄の着物を着て立っている。男は頭を天井にぶつけるまえに、机の上に座りこんだ。

「誰……ちょっと、不法侵入よ。警察呼ぶわよ」

 陽月はゆっくりとドアに向かって後退し始めた。

「逃げなくていい。俺だ」

 その声は、紛れもなく竜。トカゲの声だ。

「えー。トカゲなの。うそ……なに、その趣味の悪い着物」

 むっとした表情で竜は自分が身に付けている着物に目をやった。

「このっ。陽月お前が悪いんだぞ。お前が趣味の悪い入れ物を買うからだ。勘弁してくれ……」

 男は頭を抱えてうなだれた。陽月は今日買ったばかりの細長いポーチを捜したが、机の上には見当たらない。

「まさか、あんたが着てるのって、あのポーチなの。うそみたい」

 陽月は近付いて、着物を指でつまんだ。柔らかく心地の良い素材が、あのポーチである事を、ハートの柄と同じく伝えている。

 男が袖を振って陽月の手を払った。

「うるさい。明日にはもっと良い柄の着物にしてくれ。これでは、竜神の威厳に関わる」

 怒った顔を陽月に向けた。

 銀色の髪はゆるやかにカーブしながら腰よりも下まで伸びていて、机の上に広がっている。金色の切れ長の瞳は潤んでいて長いまつげがその上に影を落とす。筋の通った鼻の下には肉厚の唇が開いていた。

 どう見ても、とびきり美しい男だ。この姿なら、竜神だと名乗ってもうなずいてしまうだろう。

 その美しい男が、陽月の顔からすーっと視線を下に向けた。

「いい眺めだな」

 その視線をたどった陽月は、自分の胸の先端がトレーナーの布地をほんの少し持ち上げている事に気付いた。慌てて腕を胸の前に持ってきて隠した。

「すけべトカゲ」

 バシッと大きな音を立てて、陽月の平手が男前の顔をひっぱたいた。

「いた……」



 

 

 

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