6話
父の言葉が、陽月の胸に突き刺さる。祖母があれ程までに老け込み、病が体中を蝕んでいたのは死者の生前の苦しみを全て背負ったからだとは思ってもみなかった。確かに、死に化粧を施したあと葬儀のはじまる頃には、祖母は自室に籠もって誰とも会わなかった。一度、どうしてなのかと聞いたが、死者の魂に礼をつくし安らかに眠るための手助けの儀式をしているのだと、だから陽月も邪魔はしてはいけないと、そう言われた。
嘘だった。苦しむ姿を誰にも見せないために、祖母は一人でのたうち回っていたのだ。
「ひどい……おばあちゃんが、かわいそう。この筆は、あの竜はそんな酷い仕打ちをおばあちゃんにしていたの……許せない」
その怒りと共に、苦しい人生を歩むことを余儀なくされた祖母を、美しい姿で送ってやることが出来なかった自分に対する苛立ちと後悔が押し寄せてくる。
自分自身の情けなさに対する思いと入り交じった怒りで、陽月は筆をとり上げ目の前に持ち上げるとグッと力を込めた。折れてしまえと、一瞬思った。その時、陽月の額からぱーっと光が放たれた。温かくなって、すっと消えた熱は、とても心地よかった。それはまるで、祖母が額に当ててくれた掌の温かさのようだった。祖母は、いつも陽月の額に触れていた。
「おばあちゃん……」
『葉月の護符がやっと剥がれたか……。苦しい、手を放せ陽月』
陽月は自分の手の中を見た。夢の竜が不満げな表情を浮かべ陽月を睨んでいる。夢に出てきたときと違い、かなり小さいが、輝く銀の鱗に覆われた身体は熱く、金の瞳は恨めしげだ。
陽月は思わず手を放した。竜がすとんとテーブルの上に降り立つと、すぐに優雅に横たわり、鎌首を上げた。
「あんた。おばあちゃんの部屋にいたトカゲじゃない」
『お前は、夢の竜と言ったぞ』
「何が竜よ。トカゲ、トカゲよ。ちっちゃいくせに。そうそう、おばあちゃんに酷いことをしてくれたわね。ゼッタイ許さない。八つ裂きにしてやる」
陽月が手を伸ばすと、手首を父親が掴んで止めた。
「陽月、お前……竜神が見えているのか」
父親の声が震えている。竜神が怖いわけではないのだろう。ただ、娘のこれからが恐ろしいのだ。父親の己よりも先に老いていく娘の姿が頭に浮かんでいるに違いない。
『裕之に、案ずるなと言ってやれ。葉月とお前は違うとな。お前は、俺の声を聴き、姿を見ることができる。裕之はその違いが分からぬから不安なのだろう。葉月も声を聴くことが出来なくなってしまったからな……』
「ちょっと、裕之、裕之ってお父さんを呼び捨てにしないでよ。失礼ね。あんたの声が聞こえて、姿が見えたって、何が違うのよ。私にも何もわからないわよ。ちゃんと説明しなさい」
父に掴まれていない方の手で、陽月は竜の尻尾を叩いた。と思ったが逃げられた。
『おっと、気の強いじゃじゃ馬だ。俺は、裕之が生まれる前から知っているんだぞ。葉月の腹に出来た子が男だと分かったときには……』竜が首を振った。
『だが、やつはやった。お前をこの世に生み出してくれた。まあ、厳密に言えば、お前の母が産んだのだがな』
竜は声を立てて笑った。
「くだらないことはいいのよトカゲ」
陽月はさっと竜の胴を押さえ掴んだ。
「逃がさないわよトカゲ」
父がため息をついた。
「陽月、やめなさい。お前に竜神が見えているなら、尚更やめなさい。罰が当たる。頼むから、筆を置きなさい。陽月」
父の困惑した顔を見ながら、しぶしぶ竜を放した。放しても、何処に逃げるわけではないだろう。ただ、とっちめてやりたかった。
『ギッタギタにしてやろうと言う顔をしているな。教えてやろう、俺はトカゲじゃない。お前のような巫女は見たことも聞いたことも無い。無礼者めが』
陽月はもう一度トカゲを捕まえようと手を伸ばした。
「このっ。何が無礼者よ。あんたがおばあちゃんにしてきたことを考えれば、八つ裂きにしても足りないのよ」
するりと逃れた竜は、鼻からふんっと煙を吐き出した。
『俺が葉月を苦しめたわけではないわ。バカ者が。実月が持って逃げた竜神の声の筆は、俺と対になった筆だ。あれがなければ、死者を送るときに支障がある……葉月に伝えることができなかった……葉月は、何も分からぬまま、死者を送りだしていた。かわいそうな事をしたと思っている』
竜の瞳の金色がわずかに赤みを帯びた。泣いているように陽月には見えた。
「泣いてるの、トカゲ」
その言葉に、父親の方が反応した。
「陽月、神を泣かせるとは、お前は何ということをするんだ」
竜が父を見ている目が、すーっと細くなり直ぐに元に戻った。すると、父はゆっくりと立ち上がり、書斎を出て行ってしまった。
『あまり裕之に心配をかけるな。あれもかなり辛いだろう。心も体もな……葉月を弔ったばかりだというのに、実月にひどい目にあわされた。ゆっくり休ませてやらねばな』
陽月には、トカゲの優しさなのか、厄介払いなのか分からなかったが、確かに父がいたのでは話がしにくい。父にはこの横柄な態度のトカゲが全く見えていないのだから。きっと父の想像では、もっと神々しい立派な竜神の姿なのだろう。崇め奉らねばならないような。
でも、本当の竜神様はトカゲの体に犬の顔を付けたユーモラスな生き物だ。敬意を払えと言われても、陽月には無理だった。ちょっと可愛いと思う位が関の山だ。さっき、この竜は目を赤くした。祖母の事を想い涙をこぼしそうに見えた。ならば、八つ裂きにしなくてもいいかもしれない。
『陽月、お前は俺の姿を見、声を聴き、俺の手となる巫女の血筋。お前の未熟な技術は、これからもっと磨かねばならん。葉月はお前に筆を受け継がせたくなかったのだろうが、葉月とお前は違う。お前は葉月のようにはならない。俺が導くからな。だが、実月から、竜神の声の筆を奪い返さねばならない。それは、かなり難しい仕事になるだろう』
実月……竜神の声の筆、どうしても取り返さなければならないのだろうか、このトカゲが教えてくれるなら、自分は祖母の様にはならず仕事をこなせるはずではないか。ならば、無理に奪い返さずともいい。
そう思いながらも、なぜか奪い返すしかないと強く感じていた。それは、実月が筆を奪ったために祖母の葉月が強いられた辛く厳しい人生に対する報復の戦いのように思えた。
「実月と戦うわ。そして竜神の声の筆を取り返す。あんたのためじゃない、トカゲ。おばあちゃんのためよ」
竜は静かにうなずいた。
『お前に全てを教えよう。力を授けよう。お前がそれに足る人間だと分かったならな。いまからお前は試される。いいか、本来の姿を見るんだ。上辺に誤魔化されるな』
そう言うと、竜神は消えた。そこには、祖母の紅筆が置いてあるだけだった。
「なによ。なにを試すのよ、言いたいことだけ言って、逃げるなトカゲ」
陽月はテーブルをバンッと叩いた。筆がその衝撃で跳ね上がった。
「あいつ、姿を見せない」
手の中にある紅筆を睨み付けて、陽月は呟いた。祖母の葬式を終え数日が経っている。あれから紅筆は竜に姿を変えることもなく、声も聞こえてはこない。陽月には、今までどおりの日常が戻っていた。ただ、大好きでいつも自分を気にかけてくれていた祖母がいないことだけが違っていた。
毎晩、今は亡き祖母の部屋を訪れ、あれこれと引っぱりだしては思い出をなぞっていたが、社会人である陽月には仕事がある。この何日間は仕事のシフトを替えてもらい、仲間には迷惑をかけたが休むことが出来た。でも、今日は出勤しなくてならない日となり、ショッピングセンターの中の化粧品コーナーに配属されている陽月は、店員用の休憩室で遅い昼御飯をすませ、弁当箱の横に紅筆をおいて眺めていた。
「速水、珈琲、いる?」
狭い休憩室に置いてある数個のテーブルは、昼をかなり過ぎているため空いている。わざわざ使っている陽月のテーブルにやってきたのは、自分も遅出で一番遅い昼食にやって来た同じ高校の松岡昌子だった。彼女は、二階のモールフロアのガールズファッション店で働いている。高校のときは科も違い、そんなに親しくはなかったが、ここに配属されてからはよく一緒に夕食を食べに出かけたりする仲になっている。
「あー、砂糖とミルクは」
だるそうな陽月の返事に、昌子は砂糖のスティック3本とフレッシュ4個をテーブルに置いた。
「持って来たわよ。どうしたの、まだ疲れが残ってる。速水はおばあちゃん大好きだったもんね。心が疲れて悲しいのかな」
「悲しいかな、淋しい。でもね、ちょっと違うんだあ。何かしなきゃって思ってるのに、何をすればいいか分からないからイライラしすぎて疲れちゃった。今は、返事を待ってるって言うか、何か様子を見てるって言うか……」
「ふーん。あんたらしくないね。はっきりしないのは嫌いじゃない」
昌子の言葉に、陽月は珈琲をスプーンでかき回す手を止めた。そう、私らしくない。あのトカゲが出てくるのを待ってるだけなんて、全くもって私らしくないじゃない。
「よし、決めた」
珈琲をぐっと飲み込む。
「あつっ」
猫舌のくせに慌てて飲んだから、あまりの熱さに、珈琲をテーブルの上に置いた紅筆の上にこぼしてしまった。いや、紅筆に異常なし。紅筆のまわりだけ、何もこぼれてはいない。不自然過ぎる。
「あんた、避けたわねトカゲ」
紅筆に話しかける陽月を、昌子が口をポカンと開けて見つめた。
「速水、大丈夫なの……熱でもある……」
「いいえ、大丈夫じゃない。でも、気にしないで。私戻るわ。珈琲飲んでおいて、ありがとう」
「飲んでおいてって、あんたの珈琲なんて飲めないわよ。甘すぎなんだから」
昌子が叫んでいるのも放っておいて、陽月は一階の売場に降りて行った。
まさかそこに、宿敵となった女がいるとは思ってもみなかったが。女は、隣のメーカーのコーナーで接客を受けている。
「何を買いに来たんだか。実月、あんたを逃がさないわよ」
実月の視線が陽月をとらえた。