5話
陽月お前が3才になったばかりのことだ。
「おばあちゃんのお部屋にね、トガゲいるよ。大きいの、お父さんとって」
お前がそう言うので、私は母の部屋の戸を開けて中に入った。トカゲがいるなら、捕まえねばならないと思った。母が驚いて慌てふためく前に獲ってやらねばと。
だが、そこには何もいなかった。隅々まで探したが、それらしきものの姿も、影さえ見ることはなかった。そこで、部屋の前で待っていたお前に、何もいなかったと告げたんだ。
「いるよ、ほらあそこ。とって、とってお父さん。おばあちゃん、ビックリするよ。かわいそうだよ」
お前が指さした先には、母がいつも大切にしていた死に化粧を施すための紅筆と他の筆が並べて置いてあった。そこに、トカゲはいなかった。
「陽月、何もいないよ。ほら、筆が並べてあるだろ。何もいない、おばあちゃんはビックリしないさ」
お前はみるみる顔を真っ赤にして怒り始めた。あそこにいるのに、どうして捕まえないのだ、おばあちゃんが見たらビックリして怖がるから早く捕まえろと叫んだ。
そこに母が戻ってきた。叫ぶお前をぎゅっと抱きしめて、大丈夫だよと母は優しくお前の頭をなでた。
「陽月、お前が見ているのは神様だよ。怖くなんかないのさ。そうかい、お前には見えるんだね。でもね、忘れておしまい……神様のことは秘密なんだよ。誰にも言っちゃいけない。だから忘れるんだよ。陽月はいい子だね。ありがとう、バーを心配してくれたんだね。ありがとう」
そう言った母の顔には、なんとも言えない不安が現れていた。目をすがめ、一点を見つめながら、お前の頭をひたすら優しく撫でていた。そのうち目を閉じた母は、眉間に深くしわを寄せ苦悩の表情をしたあと、ゆっくりとお前を放した。お前の顔を見た時には、優しく微笑んでいたよ。
「ほら、お外で遊んでおいで」
そう言うと、母はお前の額に手を掲げピタリと付けた。お前は言うことを聞いて、走って庭に飛び出して行った。
「母さん……どうかしたのか」
お前がいなくなると、母は肩を落として疲れ果てたようにため息をついたんだ。
「もういい……私で終わればいい。あの子には護符を与えた。私と同じ地獄を見せるわけにはいかない。裕之、お前には話しておかなきゃならないだろうね。あの子を守るために」
父はゆっくりと珈琲を口に運んで喉を潤した。必要以上に、緊張感で喉が渇く。話さねばならぬのに、容易には先を話すことが出来ない。
「お父さん。続きを話して、私に関係があるんでしょう」
娘は先を急いでいる。自分に関わる話なのは分かりきっているのに、なかなか本題に入らない父親に苛立っているようだ。幼いころから、気の急くたちで、気になることは黙って待っていられない。確固たる意志をもって、必ず気になることの答えを見つけるのだ。
「お父さんたら」
「わかってるよ。ちょっと喉が渇いたから」
父を急かしすぎていると分かっている。でも、何としても早く事の真相が知りたいのだ。早く知らねばならないと思った。祖母のために、祖母の筆のために。
父が陽月が膝の上に置いている紅筆に視線を移した。
「その紅筆だよ。お前が幼い頃に見たトカゲは。いや、竜と言った方がいいのだろうな」
陽月は紅筆を掌にのせて、じっと見つめた。あきれ顔で父親を見返す。
「お父さん、真剣な話よ。冗談はやめて」
どこかでは分かっている。父が冗談など言っていないのだと、真実だと分かっているが、あまりの飛躍の仕方に、常識が反発しているだけで、陽月にはちゃんと分かっていた。自分が見た夢の竜は実在すると。
「いや、冗談じゃないよ。その筆は、死者の心を静め、本来の姿にもどして死後の世界へと送り出す竜神の筆だ。その本当の姿を見ることができたのは、おばあちゃんの母親だけだったと、おばあちゃんが言っていた。幼いお前が見た時に、母はひどい恐怖に見舞われたのだと言った。自分の力以上のものを持った孫娘が哀れで、何もしてやれない自分が情けなく憎かったと。そして、こんな事態を引き起こした妹の実月が憎いと」
父は、飲んでいた珈琲のカップを机に置いた。
実月と母は、二卵性の双子だった。ずっと一緒で仲がよかったと言っていた。だが、実月には母には無い面があった。いつも自分が優先で、いつも自分の意見を押し通すところがあったらしい。おのずと母はいつも我慢させられ、実月の分を補うように愛想のいい子供になってしまったんだそうだ。人に対して、嫌だとは言えない、自分よりも他を優先するしかなかったと言ってたよ。自分は、もともとそんなに優しい人間ではないが、人からはその様に見えていたのだろうとも言った。
私は、本当に母は心根の優しい人だったと思っている。そうならざる得なかったとしても、元々の資質はそう変わりはしないものだ。
二人が18歳になった年、実月は家を出ていった。誰にも何も告げず。ただ、二人の母親が大切にしていた紅筆の片方だけを盗んでいった。竜神の声の筆を持って出ていったんだ。
母親は激怒したが、何処を捜しても、実月の居場所はわからなかった。勿論、竜神の声の筆は見つけられるはずも無い。竜神は、その時に声を奪われ話すことは出来なくなったのだと聞いている。
この寺に生まれた女子は、年頃になると竜神の声を聴き、竜神の使いとなって仕事を始めるのが、太古の昔からの決まり事だ。この寺の隅に祠があるのは知ってるだろう。寺が建つかなり前からあったものだが、それは竜神を祀っていた神社の唯一残ったものだ。この家に女子は一人しか生まれないが、その女子は神社の巫女として、それを守り、筆を守る唯一の者として生きたんだよ。太古の昔から、ずっとだ。だが、母は実月と共に生まれ、筆を受け継ぐ者が二人となった。実月は、何の疑いもなく筆は自分が受け継ぐと思い込んでいた。でも、竜神が選んだのは、私の母葉月だったんだ。二人の母親は、竜神の声を聴いた葉月を、その日から筆を受け継ぐために訓練し始めた。実月は、葉月と一緒にいることも、それを見ることさえも許されなかった。
日を追う事に実月は意固地になり、葉月とも口をきかなくなった。葉月が実月を気遣って傍に寄ると、実月は葉月を言葉で、そして実質的にも傷つけた。葉月の怪我に気付いた二人の母親が、実月を問い詰め叱責したその夜、実月は家を出た。竜神の声の筆を持って。
それ以降、竜神の声を聞くことは無くなったと言っていた。姿を見たことはなかったが、声はいつも聞こえていたのに、とても不安になったと母は言っていた。
実月は、それから何度か母を訪ねてきた。自分たちの母親が亡くなった時、そして、母が私を生んだその日。いつの時も、実月は母の持つ紅筆を奪いにやってきたと聞いている。でも、母には筆を守る力があった。筆に認められた者だけが持つ力を、母は持っていたんだろう。
私は見たことは無いが、きっと、今日みた実月の力と同じような、尋常ではない力を持っていたんだと思う。
男の私には受け継ぐことの出来ない力を、実月は竜神の声の筆を持つことによって得ているのだろうと、母は言っていた。自分がいなくなれば、孫娘と筆を守ることは出来ないかもしれないと、不安そうにいっていたが、それが現実になった。
実月からお前を守ることが、私には出来なかった。
「私には出来るわ。実月を捕まえて、竜神の声の筆を奪い返して見せる。私は、竜神の祠を守る巫女よ」
決然と言い放った娘を、父は複雑な気持ちで見つめた。
この寺が代々受け継いできた神の手となる仕事は、男の自分には受け継ぐことの出来ないものだったが、それを悔しいと思ったことは無い。ただ、自分の母親が背負った人生が、その凄まじさが胸に痛かった。代わってやれない自分の性別を呪った。
そして、いずれ訪れるであろう我が娘の運命を呪った。いま、その娘は自らその人生へと歩み始めようとしている。祖母が守ろうとした孫娘の穏やかな人生を、自ら捨てようとしているのだ。
真実を告げよう。娘に普通の穏やかな人生を歩ませるために、受け継がれてきた神の手となる仕事を放棄させよう。そのせいで、己が煉獄の炎に焼かれようとも構うものか。
「奪い返すことはない。お前は、その筆を受け継ぐ必要など無いのだ」
「何言ってるの。私が受け継がなきゃ、誰が受け継ぐの。おばあちゃんの仕事を誰がするのよ。投げ出したりなんか出来ないのよ。太古の昔からの仕事だって、いま言ったじゃない。神の仕事だって言ったじゃない。私は、夢の中だけど竜と話したわ。私には、その仕事を受け継ぐ義務があるのよ。おとうさ」
陽月の言葉が終わらないうちに、父が椅子から立ち上がった。目をかっと見開いたその顔は、口を真一文字に引き結び、陽月が今まで見たことも無い恐ろしい顔だった。
「お前は分かっていない。その筆を受け継ぐことが、お前を蝕んでいくと、お前は知らんだろう。お前のおばあちゃんは、その筆に命を取られたようなものだ」
言い切って、父は目を閉じた。再び開いた目は、陽月を慈しむように細められた。ゆっくりと机を回って娘の横に腰掛ける。
「死者に死に化粧を施したあと、おばあちゃんは部屋から出て来なかったろう。死ぬほどの苦しみに堪えていたからだ。その筆は、死者から生前の苦行を吸い取り、安らかに眠らせる。その代わり、筆を使う者に、死者の苦行を与えるんだ。おばあちゃんがあれ程まで年老いて、早くに亡くなったのは、その筆のせいなんだよ。おばあちゃんは、孫のお前に自分と同じ人生を歩んでほしくなかった。決して、お前に自分の跡を継がせようとは思わなかった。たとえ、自分でも見たことの無い竜の姿を、孫のお前が見ていたとしても。いや、見ていたからこそ、お前にその技を教えることはなかったんだ。お前を守るために……、おばあちゃんの思いを無にするな。陽月」
父は、娘の手から紅筆を奪ってテーブルの上にのせた。
「お前は、これに関わるな。これは私が守りをする。実月には渡さない。それは、おばあちゃんとの約束だから」