4話
陽月の耳の奥で、夢の竜の低く轟く声が吠えた。耳を塞いでいる手に握っている祖母の紅筆が熱く燃え、震えている。
「あつっ……」
陽月の声に、女が陽月の手の中で震える紅筆に気付いた。
「見つけた」
女が手を振ると、陽月目掛けて突風が吹きつける。身体が舞い上がってしまいそうなほどの強い風に、手の中の紅筆が左右に大きく振れる。陽月は筆を放さぬように、もっときつく握りしめた。すると、筆の熱が今以上に上っった。焼けると思った。放したいのに離れてくれない筆を、腕を振って振り飛ばそうとする。その姿に、女が声をあげて笑った。
「まだなのね。よかった。今回は間に合ったわ……」
そう言って女が近寄ってくる。恐ろしいほどに強くなっている風の中心を女は陽月に手を伸ばして近寄ってくる。
「ほら、渡しなさい。楽になるわ。あなたでは無理なのよ。その筆に認められるてもいない。渡しなさい、私に渡すのよ。持っているだけで辛いのでしょう」
女が何を言っているのか、陽月には分からなかった。いや、女は筆をほしがっているのだ。陽月の大好きだった祖母の大切な筆を、こんな誰ともわからない怪しい人間に渡すわけにはいかない。
「これは渡さない。渡さないんだから」
その時、陽月と女の間に父親が割って入った。風が袈裟をきつくはためかせ、父の身体は風を受けてぶるぶると震えている。膝をつきながらも、父は女に向かって大きく手を広げた。
「帰れ、実月。これを欲しがるのはあなたしかいない。母は亡くなったが、陽月と筆には指一本触れさせはせん」
女の目が真っ赤になった。怒りもあらわに、陽月の父を睨みかえす。
「お前に用はない」
女が腕を振った瞬間、父の体が宙に舞った。突風にさらわれて本堂の障子を破って中に飛ばされていった。
「お父さん」
父が心配になった。怪我をしているだろう、直ぐに行ってやらなければ。でも、身体は風でその場に釘づけにされている。
「お父さん、お父さん」
返事はなかった。
「渡すのよ。それを渡せばいいの。そうすれば、お父さんの所に行けるわよ。心配でしょう、さあ、お渡し」
いつの間にか、女が陽月に目の前にやってきていた。陽月が握る筆に女が触れた。いや、触れてはいない。女は触れる前にさっと手を引いた。驚いて見つめた自分の手が、血に染まっているのを女は凝視している。
「焼いたわね……どうしてそうなの。昔から、お前はどうして私を受け入れない。何が違うというの……葉月と、何が違うというの。でも……」
女は悔しそうに歯をむき出して筆を睨みつけてから、さっと身体をひるがえして去っていった。起こったときと同じように、風がいきなり止まった。何事もなかった様に境内は静まり返っている。
「なに……何だったの……あっ、お父さん」
陽月は慌てて本堂に走りこんだ。父がうめき声をあげて起き上がったところだった。
「お父さん、大丈夫。どこか怪我してない、ねえ」
陽月が横に座って父の腕を取った。顔をゆがめながらも、父は陽月に微笑んで見せた。
「大丈夫だよ。ちょっと背中を打ちつけただけだ。なんともない、心配するな……すまんな、不甲斐なくて。お前を守ってやれなかった」
「ううん。守ってくれたよ。あの女、帰って行った……」
父は、あの女を実月と呼んだ。どこかで聞いた名だ。どこだったか、思い出せない。父は、知っていたのだ。あの女が誰なのか。
「お父さん……あの女、誰なの。実月って……」
女の名を口にして初めて思い出した。夢の竜が言ったのだ。実月に気をつけろ、気を許すな。あいつは、すぐにでも現れるだろう、と。
「実月とは、おばあちゃんの双子の妹だよ……。父さんも、会ったのは初めてだ……直ぐには分からなかった。年齢が違いすぎる……あれでは、どう見ても、30代じゃないか。あり得ない。私もおばあちゃんに聞いていなければ信じられなかっただろう」
信じられるものか。祖母は、68歳だった。実年齢よりもずっと老けこんでいたが、それを考えたとしても、あの女が68には見えない。全く見えない。
「お父さん。おばあちゃんに何を聞いてるの」
陽月は握った祖母の紅筆を見つめた。
「この筆に関係があるのよね。教えて、お願い」
父は腰を支えながら立ち上がり、壊れた障子の戸を持ち上げ片づけ始めた。
「お父さんったら。もう」
父は無言でもくもくと片づけている。骨組みもばらばらになってしまった戸を廊下に出し、ほーっと大きなため息をついた。
「新しいものに替えなくちゃな」
「お父さん」
陽月が叫んだ。
「分かっているよ。ただ、ちょっと整理しなきゃな。お前に伝えることを、きちんと整理しなければ。遠い昔の話だしな」
父は、廊下に出て、実月が去ったあとの境内をゆっくりと眺めた。そして、腰を気にするように手でさすってから、書斎のある方へと歩き始めた。
「茶でも飲みながら話そう。ちょっと、疲れたよ」
陽月は父を追って廊下を歩いて行った。
父は、自分は珈琲を入れて書斎の椅子に腰かけた。陽月にはさきに紅茶を入れて来客用のソファーの前のテーブルに置いてやった。娘が、砂糖とミルクをたっぷり入れた紅茶が大好きだと知っている。だから、好きなだけ入れられるように、シュガーポットとミルクを添えている。
「お父さん……本当に大丈夫なの。無理してない」
あちこちが痛いのは間違いないが、大好きな紅茶に砂糖もミルクもいれないまま父親を気づかう娘の前でそれを告白することは父親のプライドが許さない。
「大丈夫だ、なんともないと言ったじゃないか。さあ、聞きたい話があったはずだろう」
ごまかしていると思った。動くたびに、父は顔を少し歪ませる。痛くないはずはないが、娘には隠しておきたいらしい。あとで母さんに言っておかなきゃ。
「そうね、話してお父さん。おばあちゃんが亡くなってから、私、なんかおかしい……っていうか、変なことばかりで……竜と話したり……」
「竜……竜と話したというのは……」
父は目を細めて、じっと陽月を見た。
「夢よ。おばあちゃんの骨揚げの場所で気を失ったでしょう。その後の夢に出てきたのよ。そうね、夢、夢の話よ。気にしないで」
「気にしないわけにはいかないよ、陽月。その竜の事を話そう」