38話
ごうごうと炎の燃えさかる洞窟で、巨体を白い椅子に深く腰掛けているのは、もじゃもじゃの黒髪に顔の半分を隠した男だ。不機嫌そうに口をへの字に曲げ、微動だにせず座り続けている。
『何をやっていたのだ。何千年かけて企ててきたのに、一瞬にして消え去るとは。愚か者が娘とはこういうものか』
小さな声でぶつぶつと呟いていたが、自分の座る椅子を舐めて磨いているトカゲによく似た小さな生き物に目を止めると、持っていたカラのグラスで殴りつけた。トカゲは弾き飛ばされ、グラスは粉々に割れた。手に残ったグラスの柄から下をトカゲに投げつける。
『ちゃんとやらんか。この椅子はワシの気に入りじゃと分かっておろうが。随分長い時をかけて気に入りの人間の頭蓋骨を集めて作ったのだぞ。艶が無くならんようにしっかり磨け』
その男の座る椅子は、よく見ると頭蓋骨をつなぎあわせて作られている。いったい何人分の頭蓋骨が使われていることか。
『はい、魔王様』
トカゲは傷ついた体を気にする様子もなく、椅子に戻って磨き始めた。目は、魔王の手をじっと見つめている。もう殴られるのはご免だった。自分が頑張って仕事をしても、今日の魔王は気に入らないことはわかっている。娘である欲望の女神が殺されてしまったのだ。しかも、魔王の孫でもある竜神の手にかかって。
『おい、レギンを呼べ。すぐにだ』
『はい』
トカゲは慌てて言われた通り、洞窟の部屋を走り出て行った。
『今の大神はアジャに惑わせ、手中に収めたと思っておったが、真の巫女の存在に邪魔された。今度もまた、真の巫女によって企てが上手く行かん。孫の聖守の巫女ではないようだが、奪い取って添い遂げさせれば、それなりに聖守をこちら側に呼び込むこともできよう』
満足げに頷いた魔王は、立ち上げって部屋の隅のテーブルに置いてある酒瓶を持ち上げた。
『夢魔レギンには、そうとう働いてもらわんとな』
新たなグラスに赤い酒を注ぎ、自分は酒瓶に口を付けてごくりと呑み込んだ。魔王は、にんまりと笑った。
「俺はな、速水。お前をかってたんだ。新人のころから気骨のあるヤツだって、勿論、最近はお前の販売力だけでなく後輩を指導していく能力にも目を見張るものがあると思ってた。なのにだな、何をやってる。辞めると決まったら即座に無断欠勤か。呆れるぞ、ものが言えん。お前はそんな奴じゃないだろう。何があった。困った事に巻き込まれてるのか……」
会社に呼び出された陽月の顔を見つけるなり、勢いその腕を掴んで会議室に連れて行った部長は、ものが言えないどころか、既に15分はしゃべり続けていた。天界に行ったり、戦ったりと、忙しくしている間に、陽月は仕事を無断欠勤していた。何も弁解はできない。辞めるとはいっても、後任のセクション担当者が決まらねば陽月が出勤し続けるのが当たり前だし、辞表を出しても半月ほどは必ず働かねばいけない事ぐらいは知っている。明日から辞めますなど、決してやってはいけないし、労働基準法でも決められている筈だ。陽月も、そんな事をするつもりはなかった。
ただ、のっぴきならない事情が出来た。そして、その事情は誰にも話す事は出来ない。話したところで誰も信じてはくれないだろう。
「速水、黙っていても何も変わらん。困ってるなら言ってくれ。俺で助けになるなら何でもしてやる。お前が辞めると決めていたって、後任のセクションをもう決めたとしても、そんな事は問題じゃないんだ。お前は俺の部下だ。話してくれ」
陽月は俯いたままだった顔をあげた。
「いいえ、部長にお話しする事はありません。本当に申し訳ありませんでした。ただ、このまま一日も美容部員として店頭に立つ事はできなくなったので……後任のセクションをこんなに早く決めて下さったことに感謝しています。部長……申し訳ありませんでした。本当に……私はこの仕事が好きでした。お客様が来ていただいた時よりも綺麗になったと言って笑ってくださる顔が、本当に好きだった。その為に頑張って来たんです。でも、このまま接客を続けることはできないんです。一日たりとも……お世話になりました。申し訳ありません」
真っ直ぐに部長の目を見た。迷惑をかけたが、やましい事がある訳ではない。可愛がってくれた部長に、その事だけは分かって欲しかった。たとえ弁解する事ができなくてもだ。
部長はその陽月の瞳をじっと見つめていた。しばらくして、ふっと息を吐き出した。
「そうか、俺では何もしてやれない事か。すこし淋しいな。でも、俺が心配していた事ではなさそうだ。大丈夫か、速水。お前の真っ直ぐさがあだになる事もあるぞ。たまには要領よくなれ、いいか。自分の事を一番に考えてもいいんだぞ。それは決して我儘じゃない。どうしようもなくなったら、逃げてもいいんだ。人生なんて、そんなもんだ。どこにでも逃げ道はある」
そう言って部長は小さくほほ笑んだ。
「部長、私がどんな事に巻き込まれてると思ってたんですか」
片眉をあげて部長が口を開いた。
「いや、男かとな……いままでなかったから、その何だ、あまりに真面目すぎて、その方面の事には疎いだろうが。変な男につかまったんじゃないかって……いや、分かってる。そんな事じゃないんだな。でも、さっき言った事は忘れるな。少しは自分に甘くていいんだ」
じっと部長を見ていた目が熱くなった。泣くまいと思う。迷惑をかけたのに、この人はこれほどに自分を案じてくれるのだと思うと、余計目頭が熱くなる。
「もういけ、お前が泣いたら、どうしていいか分からんからな」
そう言って、部長は会議室を出て行った。陽月はかばんに入っているハンカチを取り出して目を押さえた。メイクが崩れない様に気をつけるのは習い性だ。
『いい男だな。お前をすごく案じている。このままここで働けたらいいのにな』
聖流の声がした。歩きはじめ会議室を出ながら、陽月はかばんの中に向かって微笑んだ。
「そうよね、続けられればどんなにいいか。でも、今ここにいる事すらこのビルにいる人達を危険にさらしてる気がして仕方ないのよ」
『分かってる。俺も聖守も、お前の気持ちは分かってる』
「うん、分かってくれてるって知ってるわ。アジャがいなくなっても、きっと地獄の魔王は天界を手に入れるのを諦めたりしない。今度はどんな手を使ってくるのかしら」
こほんと聞こえた後、聖守の声がする。
『何を考えているのかは分からないが、地獄の魔王は何千年もの時をかけ、自分の娘を駒の一つに使いながら、天界を手中に収める事を企んできたのだ。娘が死んだところで諦めはしないだろう。だが、魔王は何故、それほどまでにして天界を手に入れたがるのかが、分からない。初めのうちは、女神の屈折した欲望が事を引き起こしたのかとおもっていたが……間違いなく、最初から魔王が企てた事だと私は思うのだ……何が目的か、それが分かれば』
陽月はかばんを軽く叩いた。
『まーた、聖守ったら悪い癖よ。魔王は自分のお祖父さんだからって、責任感じる事ないと思う。自分が何とかしなきゃって思ってるんでしょ。そんなの無理だから。向こうがどう出てくるかなんて分かる訳ないじゃん』
と笑った陽月をじっと見つめる男性は首を傾げ、訝しげに首を振りながら遠ざかっていった。
「あーあ、またやっちゃった。頭おかしいって思われたわ。って、あつー」
会社のビルを出た陽月は、外の日差しの強さに額に手をかざした。春から一気に夏になった様な日差しと気温だ。最近の天候を考えると、日本の四季はあやふやになりつつあるようだと思う。でも、天気うんぬん言っていられるなら、まだ幸せかもしれない。放射能問題や地球温暖化問題だって、人間が自らを律しられれば解決の糸口はあるのだろう。天界と地獄の戦いに巻き込まれれば、人間は逃げる事は叶わない。命を失う者が多数出るのは間違いないだろう。
自分は、それを阻止できるかもしれない唯一の人間となってしまった。頼りは竜神の兄弟のみ。いや、天界には自分達の気持ちを理解してくれる人達がいるだろう。
人間を巻きこまず、この戦いを終わらせねばならない。そのために、自分は大好きだった仕事をたった今辞めてきたのだから。
「さっ、家に帰ろうっと。しばらく話しかけないでね」
かばんの中から答えはなかった。




