36話
振り返った先に、地獄の女神が立っている。背後には自分の軍勢を引き連れ、白くとがった顎は上方を向いていた。まるで既に勝利を収めたかのような態度だ。
「大勢引き連れて、どこにお出かけなの。女神さま」
皮肉たっぷりに陽月が言った。女神から視線を外しその軍勢を眺める。陽月には見たこともない生き物が多い。先ほど倒した大蛇とよく似た生き物はもちろん、毛むくじゃらの者に、人間と同じような姿かたちではあるが全身を黒い布で覆っている不気味な者、数えきれない異形の者たちが陽月たちを見つめてくる。
「ねえ、あの黒い布で巻かれたのは何者。気味が悪いんですけど」
『ああ、あれは人間が言うところの悪魔だろうな。天界に天使という名の兵士がいるのと同じで、地獄には悪魔という名の兵士がいるってことだな』
ああ、と言って弟の言葉のあとを聖守が引き継ぐ。
『あいつ等は選りすぐりの兵士なのだよ、陽月。日々訓練され、戦うために生きている。天界の天使たちも同じなのだがな。あまり戦いたくはない相手ではあるだろう』
女神が冷たい声で笑った。
『そろそろ説明は終わったのか。さっきの土の龍は簡単だったのだろう。今度はそうはいかない。多勢に無勢という言葉を知っておるか。竜神の巫女よ』
陽月がフンッと鼻で笑った。
「自分で言うものじゃないわよ。相手に言ってもらうものよ。多勢に無勢とは卑怯なりってね。言葉の使い方ぐらい学習してから来なさいよ」
その時、地鳴りが始まった。轟音とともに、足元がゆっくりと盛り上がる。
『本当に、学習した方がいいのじゃないかしら。欲望のみに生きていると、学ぶことを忘れるのかしらね。多勢に無勢とはこのことだと教えてあげるわ』
盛り上がった土の上に、大地の女神テアナが現れた。そのあとを次々と武装した女と屈強そうな男が現れる。中には天界で出会った大将の姿もあった。陽月を見て微笑を浮かべている。
対照的に欲望の女神の顔つきが苦々しげに変わる。
『テアナ、相変わらずぶくぶくと太ってみっともない姿を晒しに来たのか。愚かなる者どもまで引き連れて、大地の女神は暇とみえる』
『欲望の女神は暇ではないようね。相変わらず、欲望に目がくらんだ者たちを引き連れて。可哀そうな人ね、自分の欲望を満たすことでしか幸せを感じられないのだから、あなたの周りも同類しか集まらない。愛と恵みを与えることを知っていれば、どれほどの幸福が戻ってくるかも知らないのだから』
テアナの言葉に欲望の女神がふんっと鼻を鳴らすと同時に、テアナの目の前で風が吹き荒れる。風が止まった時には、テアナの頬に切り傷ができていた。
『あら、避けたのかい。醜い顔を切り落としてやろうと思ったのに』
また風が吹き荒れ、テアナの周りにいた兵士たちが身構える。が、風が収まっても誰も傷ついてはいなかった。
『同じ手が通用すると思わないことね。欲望の女神アジャ。私は大昔からあなたが大嫌いよ』
今度は欲望の女神アジャの足元から鋭い剣が飛び出し突き上げる。アジャは後ろに跳び退るが、そこにも剣が突き出す。何度かかわした後、とうとうアジャは空中で静止した。
『容赦するな。狙うは竜神聖流とその巫女の命。戦え』
アジャ率いる大軍が動き始めたと同時に、テアナ率いる天界の兵士軍も動いた。剣のぶつかる音と、風の吹き荒れる音、地鳴り、あらゆる音の中で陽月の握った拳が白くなっていく。
「ここは人間が暮らすところよ。どうして天界と地獄の戦いがここで始まるのよ。どうして人間が危険に巻き込まれるの」
ぶつぶつと陽月がつぶやく。聖流が陽月の拳を握った。
『分かっている。意識を天界に向けろ』
「なに……」
『聖流は、この戦いを天界に移そうとしている。陽月、お前の手助けがあれば、私と聖流でやってのけられる』
陽月は聖守の言葉が終わらぬ間に、すでに念じ始めていた。ここでは絶対に大きな戦いはさせない。何も知らない者たちを巻き込む訳にはいかないのだから。
辺りに雷鳴がとどろいた。戦っているすべての者たちが大地から浮き上がり、瞬時に消えた。すぐ後に聖守の姿が一瞬消えて、戻ってきた。
『陽月、母は家に戻しておいた。我々も天界に行ってくる。お前も家に戻るとよいだろう』
陽月が聖守を睨んだ。
「馬鹿なこと言わないで。私は十分に当事者よ。一緒に行って戦うに決まってるじゃないの」
『聖守、こいつを留まらせるのは無理だ。狙われているのは俺と陽月。ならば、一緒にいて俺が陽月を守る。置いてはいけない。さあ、行くぞ』
森の中から三人の姿も消えた。そこに残ったのは、ただ静寂だけだった。遠くから、通夜に参列するために集まり始めた人々のざわめきが聞こえてき始めていた。
「うわっ」
陽月が叫んだ声が天界に響き渡り、誰もが顔をしかめた。天界では人間である陽月の声は響き過ぎるのだ。皆と同じように顔をしかめながら陽月を見た竜神の兄弟の目に、血まみれの天界の兵士を抱いた陽月が飛び込んできた。慌てて聖守が兵士を受け取る。そうでもしないと、大柄な兵士の体を陽月では支えきれない。仰向かせた顔を見て、声をあげようとした陽月の口を聖流がぐっと押さえた。押さえながら片手で敵の攻撃を器用に手を回しながらかわし、逆に小さな炎を投げつけている。
『叫ぶな。お前の声は響き過ぎだ』
『でも……その人。テアナの娘さんのご主人だわ。ねえ、そこに寝かせて私、助けたい。できるよね、私にも』
聖流と聖守にだけ心の声で話す。
眉間にしわを寄せ、聖流が頷いた。だが、この大将は後ろから袈裟がけにするどい爪にえぐられている。剣傷でも修復は大変だろうが、えぐり取られた傷はその何倍も難しくなる。組織自体を失っているからだ。くっつければいいというものでもない。
『癒せない事はない。だが、周りを見ろ。この男だけを救っている場合じゃない。癒した後にお前の力が弱まってしまえば、残りの者はどうなる。救うにも優先順位があるんだ。酷く傷ついている者は助かる確率も低い。重症でも助かる確率の高い者から癒すのが』
最期まで聖流は言う事が出来なかった。陽月の魂と繋がっている聖流にとって、陽月の想いは直ぐに自分の中に流れ込んでくる。陽月は、瀕死の大将の妻とまだ見ぬ子供の事を考えているのだ。
『聖守。俺たちの後ろを頼む』
大将を地面に寝かせ横に屈み込んでいた聖守が静かに頷いた。
『任せておけ。お前達には指一本、誰にも触れさせはしない』
『お前の声も届けてくれるか、聖守』
『ああ、もちろんだ』
聖流は陽月の背中から抱きしめ目を閉じた。同時に兵士に触れる陽月も目を閉じる。自分達の後ろで敵と剣を交える聖守に加勢するテアナの声が聞こえた。聖流と陽月は大将の傷を癒すために意識を集中し始めたが、傷はやはりかなり深くえぐられているし、出血も激しい。これほどに傷ついている者を癒した記憶はない。最初の巫女であった月花でさえ、難しかっただろう。だが、陽月と自分は魂がで繋がっている。彼女の魂の輝きを保つ事は月花の時よりもかなり楽にできる。これならば、上手くいくかもしれない。この大将を癒した後も、他の者たちを癒す力が残っているかもしれないと、聖流は思った。
あとは、この大将の生きる気力の問題だ。そう思った時だった。聖守の竜神の声に乗って別の声が大将の魂を呼んでいるのが聞こえた。
『馬琉主。だめよ、一人で逝ってはだめ。馬琉主。馬琉主。愛しい人、馬琉主。この子には父親が必要よ。馬琉主。馬琉主。馬琉主おねがい、馬琉主』
延々と呼び続ける声は、きっとこの男の妻であり大地の女神テアナの末娘だろう。
『もっと呼び続けて、あなたの愛が、馬琉主を引きとめられるように』
陽月が語りかける。夫を呼ぶ声がさらに熱を持ち、大きくなる。
『アーヤ……』
大将が目を開いて咳き込んだ。その頭を褐色の肌の妻が必死と抱きしめた。
『馬琉主、あなた……』
聖流が陽月を抱いて立ち上がって振り返る。目の前に戦いが繰り広げられている。間違いなく、辺りは血の海だ。敵も味方も負傷している者、既に息のない者が横たわっている。その横で、まだ戦いは続いているのだ。
「天界も地獄も、神々が住む世界。どうしてこんなに愚かなの。人間達は、神々は人間の愚かさを嘆き、人間に罪の深さを教え、償わせるものだと信じているのに。その人間よりも神々が愚かだと気づいたら、何を心の拠り所にすればいいの。自分の命が尽きたのち、死出の旅路の先にあるのが自分達よりも愚か者が住む世界だと知ったら、死者の魂は何処にいけばいいの。竜神と巫女は、何処に死者を送りだせばいいの」
陽月の呟きは、天界ではささやき声ではない。遠くまで響き渡る鐘の音の様に鳴り響く。
「血で血を洗い、憎しみと妬みと自分の欲望のみに生きるなら、何も残りはしない。愛を持たない者に、未来はない。それは自分達が食いつくしてしまうのだから、何も残る筈もない」
『陽月』
『陽月』
聖流と聖守の竜神の兄弟が陽月を呼ぶ。彼女の声は雷鳴となり天界に降り注いでいた。彼女の声に戦いの手を止めた者がいる。そのまま、戦いの手を止めた相手に攻撃した者がいる。
果たして、戦いの行方は何処に向かっているのか。陽月自身、己が放った言葉が与える影響など知る由も無かった。




