35話
「お母さん、ちょっと疲れたから家に連れて帰って」
母親の顔を凝視しながら、陽月はその腕を握ろうとしたが、相手の方が早かった。母親は娘の手をきつく握り、にやっと笑った。すぐにその爪が伸びて、陽月の手の甲に食い込んでくる。
「ごめんね、お母さん。忙しいのに」
陽月も母の手を握り返した。何故か痛みをほとんど感じなかった。それよりも決して放さないと思う気持ちの方が強い。母の中に入り込んだ魔物を退治するまで、この手は放さない。
手を握り合ったまま、親子は部屋を出て家には向かわず祠を目指す。無言のまま、ぴたりと竜神の兄弟が陽月の横に張り付いている。
『どこに行こうと言うのだ。お前に逃げ道はないぞ。ほら、そろそろこの手も千切れてしまうぞ』
下卑た笑い声が寺の境内に響く。
「この手が千切れても放しはしないわよ。お母さんから出ていきなさい。出て行かないなら後悔させてやるんだから」
そう言って、母の手をくいっと引っ張る。
「お母さん。しっかりしてね。絶対に助けるから」
娘の声は届いているのか、やはりニヤついた表情が返ってくるだけだ。
『母親にお前の声など届くものか。たかだか人間の巫女ごとき、ゆっくりと食い殺してやるわ。その時には母親も一緒に喰ってやろう』
森の中の細い道を抜けると、竜神の祠が見えてきた。ここまで来れば、他の人たちに被害が及ぶ事も少ないだろう。祠の前で陽月は母親と向き合った。
「これから助けに行くから、お母さん待っててね」
『いけない、陽月。母の意識は眠っている。そのまま眠らせておく方が母の為だろう。恐ろしい思いをしなくて済むのだから』
陽月は、きっと聖守を睨みつけた。
『じゃあどうするのよ。このまま魔物に憑依されたままのお母さんと戦えとでも言うの』
きゃっきゃと笑い声が上がる。
『そうだな、このまま戦うのがいい。お前は自分の母親を殺せるか。俺はお前を殺せるぞ。もちろん、お前の母親もなあ』
大口を開けて母親が笑い続ける。その時、母親の空いた方の手が陽月に向けて振り下ろされた。長く伸びて剣の様になった爪が顔に向かってくる。
『聖守頼んだぞ。俺が入る』
聖流は声と共に消えた。その瞬間に金の剣が陽月の目の前で魔物の爪を受け止める。
『陽月、聖流が母の中に入った。魔物を追い出す。その間、母を傷つけずに戦うが大丈夫か』
「聞くまでも無いわ。やってやるわよ」
母の手は決して放さないと決めていた。どれほど傷つけられようとも、骨までずたずたにされても、絶対に握り続ける。
「私の手は鋼鉄の手。決して傷ついたりしない。私の掌は柔らかな羽毛。決して傷つけたりしない」
母の手を傷つけることなく、自分をも守れるように強く念じる。自分の念じる力を強く信じた。陽月の周りで母親の手や足が攻撃を仕掛けてくるが、その全てを金の剣が受け止め跳ね返す。
陽月の母の中で、大蛇がとぐろを巻いている。鎌首をあげくねくねと動かしているのは、外で陽月と聖守と戦っている証拠だ。
『お前は、土の竜だな。だから結界を破る事ができたのか。だがな、土の竜だとしても竜神には敵わない』
本体はどこだ。魂だけ此処にいるのは分かっている。ここから叩き出せれば、本体が姿を現す。そこを撃退すればいいのだ。だが、仲間はどこだろう。外は大丈夫だろうか。
聖流は大蛇に近寄り、その鎌首を両手で締め上げると、胴体が聖流の体に巻きついて締め上げ始めた。聖流は口をすぼめて細い息を吐き出す。筋になった竜神の炎が大蛇の胴体を焼く。灼熱の熱さと痛みに大蛇の胴体がうねって飛び跳ねる。
遠くから叫び声が聞こえた。聖流は、陽月の母の声だと気付いた。大蛇の意識が薄れている証拠だが、このまま続ければ、陽月の母の精神に傷をつけてしまう。聖流は両手に渾身の力を込めた。
ふっと手の中の大蛇が消えた。魂を焼かれ、締め上げられる苦しみに逃げ出したようだ。聖流は、陽月の母の心に向かって癒しを施してから外へと戻った。
「お母さん」
陽月の目の前で母親が崩れ落ちた。娘の手を握っている手は、いつもの細く白い手だ。
『母は気を失っている様だ。隠しておくほうがいいだろう』
そう言うなり、聖守は母と共に消えて、直ぐに戻って来た。
『祠に隠してきた。安心しろ』
『まだ安心できんぞ』
いつの間にか聖流が陽月の横にいた。陽月の足元が盛りあがり、ぬめぬめとした胴体に土をつけた大蛇飛び出してきた。胴体は陽月の腕が回らないほど太く、長さはどれほどか分からないほど長い。
『よくもやってくれたな。魂だけなら竜神に敵わんかもしれん。だが、今度はそうはいかんぞ』
大きく開いた口の中には陽月の腕の長さほどの剣の様な歯が生えている。真っ赤な舌の周りからにじみ出ている緑の液体は唾液だろうか。何でも溶かしてしまいそうな気がして、陽月は顔をひきつらせた。
「なにあれ、あの緑のはツバ。もしかして当たったら溶けるなんて言わないでよ」
『もちろん当たればお前など溶けてなくなる』
聖流の馬鹿にしたような言葉に一瞬腹が立ったが、自分の前に立ちはだかる兄弟を見ると、怒るのはお門違いだと分かる。二人は、陽月を守っているのだ。だから、今は剣には変わらない。陽月を守る壁となる為に、前に立っているのだから。
「ありがとう。でも、私は溶けたりしないわよ。溶けてたら戦えないじゃない」
陽月は二人の間から前に進み出た。
「剣になって。私が戦う」
竜神の兄弟は顔を見合わせた。仕方ないと言った風に二人揃って首を横に振った。
「早くして。馬鹿兄弟」
すっと聖流が消え、陽月の体を銀色に輝く鎧が頭からすっぽりと包んだ。右手には金色の大剣が現れる。
「すごい。これってゲームとか映画に出てくる、何とかメイルとか何とかアーマーってやつなの。鋼鉄でできてるとか」
『鎧だ。しかも竜神の鱗でできている。何よりも鋭く、何よりも硬く、何よりも柔軟だ』
ヒューっと陽月が口笛を鳴らした。
『面白がっている場合ではないのだぞ、陽月。私は両刃の剣。扱いに気をつけろ』
「なによ。扱いなんて知らないもの。聖守、あなたがちゃんと動いてくれないと駄目よ」
重なったため息が聞こえた。
『陽月、お前の念がこもってこそなのだ。剣はお前の腕、お前の心と共にある』
「じゃあ、三人一緒ってことね」
陽月は剣を構え大蛇を見上げた。大蛇の口から唾液が落ちて陽月の足元で、ジュッと大きな音を立て地面を焼いた。
『ご託はもいい。直ぐに喰ってやる』
「あんたの唾は汚いのよ。バカ」
陽月が駈け出した。大蛇が吐き出した唾液が滝のように落ちてくる。顔の前を聖流が覆うが、陽月には前がはっきりと見えている。両刃の剣を下からすくい上げる様に大蛇の胴体めがけて振り上げ、突き刺さると同時に横へなぎ払う。胴体がすぱっと横に切れ血が噴き出した。鋼色の鎧が鮮血で真っ赤に染まる。
大蛇の胴体がうねり、陽月の体を捕えるが、幾重にもなった竜神の鱗が大蛇の胴体に突き刺さる。剣を握った腕を振り上げ、渾身の力を込めて振り下ろし突き刺し捻じり込む。大量の血が噴きあがる。
聖流の鎧の腕が伸びて広がった瞬間、先から炎が上がった。陽月を喰らおうとしていた開かれた口の中を竜神の炎が焼く。大きな悲鳴が上がり、大蛇の体が地面に落ちてのた打ち回る。
陽月はさっと後ろに下がった。
『よくやったな。陽月』
陽月の肩ががたがたと震えている。
「怖いのよ。すごく怖い。この大蛇死ぬの……」
『いや、永遠の炎に体内を炙り続けられる。永遠の苦しみが待っている』
陽月の眉間にしわが寄った。
「駄目よ……」
陽月は剣を持った手をあげた。大蛇ののたうつ胴体を軽々とよけて、顔の前に立つと剣を高く掲げた。大蛇の眉間めがけて剣を突きたてた。断末魔の悲鳴が大蛇の口から上がり、眉間から血が吹く。陽月は剣を抜き取った。
「どんな生き物も、永遠に苦しむなんて駄目よ。永遠の責め苦は死よりも惨い」
聖流が陽月の横に立ってその体を抱きしめた。聖守が陽月の頭をそっと撫でる。
『聖流、お前の巫女はどれほど慈悲深いのだ。許す心を持っている者ほど、強い者はない』
『陽月、すまないな。辛い思いをさせる。俺達の為に……』
陽月が首を振る。
「あなた達のためじゃない。私達のためよ」
陽月がそう言った時、森の木々が大きく揺れた。
『だらしのないこと。大口を叩いた割に大したことのない土の竜ね。モグラ並みじゃないこと』
背筋を凍らせるほどの冷たい声が聞こえた。




