30話
目の前で大神を守るように剣を掲げ持つ大将。彼は本気でその男を守ろうとしているのか、それとも己の仕事を疑うことなく全うしようとしているだけなのか。じっと見つめた先にいるこの大将の心の中を見通そうと、陽月は思った。
彼の心の中は、以外にも穏やかだ。そこには愛情が感じられ、愛情を注ぐ者の姿さえ見えてくる。褐色の肌をしたとても健やかそうな女性の姿。彼に向かって微笑む顔は、信頼と安らぎを彼から与えられていることが窺える。互いに思いあっているのだ。だが、そこに彼自身の不安を感じ取った。愛する者が本当に求めているものを自分は与えられているのだろうか、彼女の為に自分の使命を必死で果たそうとしているが、果たして彼女はそれをよしと思ってくれているのだろうか。彼女の胎内には彼の子が宿っている。
最近になって見せる、彼女の遠くを見る目に不安を感じるのだ。
「そうか、彼女は大地の女神の娘ね……あなたは、彼女を土の近くに連れて行ってあげたいのね。そうすればいいのに、彼女は大地の近くに行きたいのよ」
驚いたように男の口がぽかんと開いた。そのあと、ハッとしたように体に力を入れなおした。
『なぜそんなことが分かる。確かに、妻は大地の女神の末娘だ。だが、私とともにこの天界に住むことを承諾してくれたんだ。お前に何がわかる』
「あら、私は竜神の筆の巫女よ。あなたの心はわかるわ。あなたの心が不安を感じていると分かるの。あなたの奥さんは」
そこまで言った陽月めがけて大将は剣を振り下ろしながら突進してきた。
『それまでだ。何も言うな』
陽月は剣を交差させ、大将の両刃の剣を受け止める。普通に考えれば無理な話だが、陽月には不安はなかった。聖流と聖守、二人の竜神がついているのだから。完璧に受け止めた両刃の剣は、大将自身の頬に傷を作り血を流していた。
「その頬を流れる血は、あなたの奥さんの中で育っている子に受け継がれていくわ」
大将の表情が強張る。目に戸惑いが生まれ、剣にかかる力が弱まる。
「妻は子を宿していると……」
「ええ、だからこそ大地のそばにいたいのだと思うわ。あなたと共に」
ふっと剣から力が抜け、カシャンッと音を立てて剣先が下を向いた。
「妻の母親の力があって、私は今の地位を頂いたようなもの。それに報いる働きをしなければ、その一心で……」
大将の後ろで大神が身じろぎしたあと、そっと手を前に向ける。攻撃を仕掛けようとしているのは間違いない。このまま攻撃を仕掛けるなら、自分の兵士達も巻き添えにしてしまうではないか。
やめさせようと陽月が口を開きかけた。
『もうやめた方がよいのではないかのう、大神よ』
ゆったりとした声が響く。いつの間にそこにいたのか、先ほど出会った長老が立っていた。
『何をやめろと言われるか、長老。不届き者達を捕えるのはワシの仕事だ。長老とて、その邪魔はさせんぞ』
大神が食ってかかるが、長老は素知らぬ顔だ。
『その昔、ワシはお前さんにその座を譲った。それは一重にお前さんを信じたからじゃ。よい治世にしてくれるとな。それがどうじゃ、今では己の民をも巻き添えにして己の権力を守ろうと言うのか。どれほど抗おうと、新たなる力には敵う筈も無かろうに……ここで戦い、全てを破壊するつもりか。愚かよのう』
大神の両手がぶるぶると震えた。怒りに顔は真っ赤になり、鼻の穴が大きく膨らんでいる。このままでは、狂気にかられ何をしでかすか分かったものではない。
陽月は走った。すると、手にした剣が聖流と聖守の姿に、そして竜神の筆の姿へと変化していく。大神の目の前までは一瞬だった。その唇にさっと紅筆を走らせる。
『この、な、にを……』
紅筆は聖流と聖守の兄弟に戻った。
『意趣返し。竜神ではあっても、竜神の筆として生きた事のないお前には、竜神の筆の使命は分からぬらしい。大神よ、己の所業をその身に与える』
聖流の低く太い声と、聖流の清らかな声が混じり合っている。
大神がその場に膝をついた。開いた口からはうめき声が上がり、目は宙を凝視したまま動かない。
『意趣返しか。死出の旅路を送る竜神の筆の力に抗える者はいないと聞く。大神がいつその命を終えるのかは分からんが、その時が来るまで、己の所業の中を生きる事となるのじゃろう。恐ろしい事よな』
老人は、ただじっと大神を見つめていた。何を思っているのだろう。自分がしたこと、しなかった事によって起こった出来事を思い起こしてでもいるのだろうか。
『竜神の筆の巫女よ。いや、聖流の巫女と呼ぼうかのう。ワシの心は覗かんでくれ。この年になって人に知られとうない事もあるからの』
そう言って陽月に微笑んだ。カシャンと音がして振り向くと、大将が剣を鞘におさめたところだった。陽月達に向かって歩いてくる。
『長老様。これから我々は誰に仕えればよろしいのでしょうか。大神状態がこのままならば今後の対処をご指示頂かねばなりません。今は不穏な動きも出ておりますので……』
そう言って聖守をちらりと見た。女神の事を考えているのは間違いないだろう。
『問題はなかろう。此処に次期、大神がおるではないか。その力にも人柄にも文句はなかろう。なあ、竜神聖流よ。お前さんが治めればよい。自身の巫女と共にな』
聖流と陽月がポカンとした顔で見つめ合った。そして揃って大きく手を横に振った。
「冗談じゃないわ。無理、無理。何を言うんだか、私には死に化粧屋っていう仕事があるの。もう頭の中には起業する計画だってできつつあるのよ。こんなところで大神なんて、冗談じゃない」
陽月の声はヒステリックに響いて、周りの天界人が皆手で耳を押さえた。
『ばか、声を抑えろ』
聖流は陽月の口を手で塞いだ。陽月が文句を言っているのかムグムグとしか聞こえないが、顔が怒っている。両手で聖流の指を一本だけ握って、それを口に入れると思いっきりかじった。
『いった。お前ってやつはなんてこと……』
聖流がつい手を外したので、陽月はにまっと笑ったって、小さな声を出した。
「大声出して悪かったわよ。でもね、あんたが大神になるのは勝手ですけど、私は私のしたい事が……ちょっと待ってよ。あんたがいなきゃ、死に化粧屋できないじゃない。あっ聖守がいてくれる……」
陽月は聖守に目をやった。相変わらず穏やかでありながら冷たい表情を張り付けた聖守が、じっと二人を見つめていた。
『聖流は、お前と離れたりはしないと思うが。そうか、お前は私がいれば聖流はいなくともいいのだな。聖流、お前の巫女は薄情らしいぞ。仕事が一番大事だとはっきり言った』
かじられた指先を振りながら、恨めしそうに聖流が陽月を睨んだ。睨んだまま、歯形のついた指先を長老の前に持っていく。
『悪いな、じいさん。俺には怖い怖い巫女が付いててな、俺を死に化粧屋でこき使わなきゃならないらしい。そうじゃないと、別の竜神に乗り換えるんだと。俺としてそれじゃあ困る。俺にとって唯一無二の巫女だからな。天界を治める仕事は、兄に譲るさ。そのうちヤツに巫女が現れる。何の問題も無いだろう』
そう言った矢先、天界の中を稲妻が走った。真黒な霧が足元から湧き上がる。
『何を愚かな事をしているの。この天界は大神のもの。大神は誰に譲るとも言ってはいないのですよ。後継者は決まってはいない。大神も死んではいない。ならば、この天界は大神の正妻である私が、夫の替わりに統べる事となる』
稲光と共に、仰々しくど派手に登場したのは紛れも無く女神だった。後ろには手下と思しき者達が付き従っている。白い衣をまとった天界人もいるが、どう見てもそうではない異質な形相の者達が入り込んでいる。しかも誰もが戦いに向かう兵士の様に武装している。
長老が大将と共に一歩前に出た。
『これはこれは女神。兵を従えるとはなんと物々しい事よ。だがな、天界の大神はその使命を妻に受け継がせたりはせぬしきたりでな。申し訳ないがお引き取り願おう。此処で戦いを始めても、お前さまに勝ち目はない。こちらには竜神が二人、片方には巫女までついておる。賢いお前さまのこと、十分承知の事だろう』
女神はふんぞり返ったまま聖守の方に目をやる。
『我が息子がそちらについたとどうして言えるのじゃ。聖守はわらわのもの。母と共に戦うわ、愚か者が』
聖守が首を振って顔をあげた。
『母上、いえ、女神よ。私はあなたのものだった事は一度も無い。残念ですが……うぁ』
いきなり聖守が胸を掻き毟り始めた。
『なにをっ……』
その場に膝をついた聖守が息を乱す。
『愚か者が、そなたは地獄の女神の子ぞ。そなたが思うと思わざるとに関係なく、そなたは地獄の種を持っておる。そなたの心など、わらわの意のまま。こちらへ来るのじゃ聖守、地獄の竜神よ』
その場のみなが大きく目を見開いた。
『聖守』
聖流が兄の横にしゃがむ。苦痛に歯ぎしりをする兄は、弟の瞳を凝視した。
『聖流……』




