3話
『うそ。俺は嘘は言わん。禁じられている。禁じられていなくとも、嘘は言わん。葉月は美しかったぞ』
陽月の身体の前まで、竜の顔がおりてきた。
『お前は表面だけしか見ていない。葉月の心を見ていない。葉月が何を何のためにどうしてきたかを、お前は知ろうとしていない。だから、本当の姿が見えんのだ。葉月の死に化粧に必要だったのは、紅筆ではないぞ』
リアルな竜の動きと背景を流れる白い雲が、夢を現実のように思わせる。でも、これは完全に夢以外の何者でもない。
『紅筆……じゃない』
何がわかるというのか。夢の中に出てきたファンタジーな竜に、私とおばあちゃんの事が何が分かっているというのだ。あの紅筆を初めから持っていたら、おばあちゃんの死に化粧は美しく仕上がったはずだ。
『うるさい。あんたに何がわかるの。何も知らないじゃない夢の中の竜のくせに。あんたなんか、消えちゃえ』
竜の目が静かに光った。恐ろしく冷たい輝きに、陽月は身体を強張らせた。
『消えろと言うなら消えてやろう。その前に一つだけ忠告しておいてやろう。実月には気を付けろ、気を許すな。あいつは、すぐにでも現れるだろう』
そう言った竜は、すうっと跡形もなく消えた。実月って誰だろう。陽月の疑問はあたりの景色が一変したことで簡単に消えてしまった。
あたりには、何処までも灰色の空と大地が広がっている。風もなく、動くものは何もない、荒涼とした世界。
陽月はその景色を見つめながら、自分の意識が遠のいていくのを感じた。
『別の夢を見よう……』
眩しい光に思わず掛け布団を引っぱり上げた。薄暗い布団の中で目を開けてみる。灰色の世界から、今度は光の世界にでも夢が変わったのだろうか。
「陽月。もう起きたの……あなた大丈夫」
母の声がすぐ上から聞こえた。そっと布団から顔を出す。眩しいと思ったのは、高く昇ったお日さまの光だ。陽月は自分の部屋のベットに寝ていた。母が心配そうな顔で覗き込んでいる。
「あなた、昨日あのまま意識を失って。病院に連れて行こうかと思ったんだけど、お父さんがここでいいって……」
母の言葉に、陽月は自分が何をして、どうなったのか思い出した。ただ、夢を見る前の最後の部分がはっきりしない。祖母の遺骨の骨上げをする人たちの所に歩いて行った……。その後は。
「おばあちゃん。どうしたの、おばあちゃんの骨は……」
骨。そうだ、骨を飲み込んだ。祖母の骨を飲み込んだときの記憶が蘇る。喉を焼く炎。
「わたし、おばあちゃんの骨を飲み込んだ……」
母が、はっと息を飲む音がした。
「覚えているのね。どうしてあんな事をしたの。みんな驚いていたわ。私も驚いたけれど。身体はどお、何ともない……まあ、骨を飲み込んでも何も問題はないと思うけれど。あなた、気を失ってしまうものだから、心配しちゃったわ」
そうだ、気を失った。そして、夢を見た。竜の夢を。夢の竜の姿を鮮明に思い出す。すると、手の中で何かが熱くなった。ふと手を見ると、そこには、祖母の紅筆がしっかりと握りしめられていた。
「これ……」
「あなたったら、ぎゅっと握って放さないんだもの。そのままにしておけって、お父さん言うし」
陽月は、紅筆を握ったままベットから出ると、母が呼ぶ声も無視して父を探しに階下へ降りた。リビングにも台所にももちろん、父の姿はなかった。寺だ。寺で仕事をしているのだろう。朝のお勤めが終わった後も、寺での仕事は色々ある。掃除は当たり前だが、事務処理や訪れる檀家さんの相手も結構多く、父は家に戻るのは昼食のときだけだった。それも、遅れてしまうことはよくあった。
「お父さん……」
寺にある父の書斎を覗いてみても、そこには父の姿はなかった。本堂に続く廊下を歩いていると、境内に見知らぬ女性の姿があった。まだ気温も低い三月初めのこの季節に、シルクだろうか艶やかな光沢のある菫色の薄いワンピースを着ているだけだ。ゆるい風に、裾が揺らめいている姿は妖艶でありながら、ぬける様な白い肌に紅い口紅が塗られた整った美しい顔は彫刻のように人間味がない。女は真っ直ぐな視線を本堂へと向けていた。その瞳は冷たく、何を思っているにせよ誰にも分からないだろうと陽月には思えた。感情が見えない、凍った瞳。人ではないもの。
その瞳が、すーっと動いて陽月を捉えて大きく見開いた。
「あら、葉月によく似ていること」
紅い唇が弧をえがいた。微笑んでいる。いいや、目が笑ってはいない。
「どちら様ですか。祖母のお知り合いでしょうか。それでしたら、祖母は……」
「葉月は亡くなったのでしょう」
そう言った時の目が、嬉しそうに光ったと思った。接客業を真剣に取り組んできた陽月には、人の表情や仕草から感情を敏感に感じ取るくせのようなものが自然と備わってしまっている。それにしても、これほど印象的なら、知っていれば覚えているはずだ。絶対に知らない。誰なんだろう、祖母が亡くなったことを喜んでるように感じる。なぜか、とても嫌な気分になってきた。
「どなたですか」
おのずと陽月の声がきつくなる。女性を見る目には敵意すらあったかもしれないと、自分でも思った。
「あら、こわい。似ているのは顔だけかしら。葉月なら、見ず知らずの人間に失礼な態度はとらないもの。葉月は誰にも優しい、誰にも好かれる、とてもいい子ちゃんだったものね。あなたは違うらしいわね」
腹が立った。確かに祖母は誰にも優しかった。誰からも好かれた。でも、この女の言い方は、それを完全に馬鹿にしている。
「御用のない方は、お帰りください」
「用はあるのよ。だから、まだ帰りはしないわ。お馬鹿さんね」
「何の用があるのよ」
イライラと陽月が怒鳴ったとき、本堂から父親が出てきた。
「どうかしたのか。陽月、お客様に失礼はいけないな。あの、どうぞこちらへ」
父は女性を本堂へと導いた。
「娘が失礼を、申し訳ありません。で、どんな御用でいらっしゃいましたか。お伺いいたしましょう」
女は、本堂に上がる階段の前で足を止めると、住職である陽月の父親を、なめるように見つめた。
「やはり、あなたではないのね。男など産んでも何もならないものね。あなたが生まれたと聞いた時には、正直、胸をなでおろしたわ。そうね、あなたではないとすると、その無礼な娘さんに、用があるわ」
住職は目を細め、女を観察している。一瞬だけ、女を見る目に驚きが現れて消えた。
「いいえ、御用は私が伺いましょう」
父の断固とした物言いに、女は眉間にしわを寄せると大きな溜息をついて腕を組んだ。尊大な態度で目の前の住職を見下す。
「お前に用はない」
女の声が境内に鐘の音のごとく響いた。耳の奥を揺るがすほどの音量に、親子はそれぞれに耳を塞いだ。いきなり突風が吹いて境内の木々を揺らし、砂を巻き上げる。女を中心に風が巻き上っている。
『筆を渡すな』
何処からか夢の竜の声がした。