27話
『長老どの。私の母は初めからこの天界を奪う為に大神に近付いたのではないのですか。そして、その期を待っていた。それがいまだ……しかし、なぜ今でなくてはならない』
老人はふんっと鼻を鳴らし、首を何度も振る。いやいやと言いながら渋る様に、それでもまた話し始める。
『ワシの巫女を殺したのは、女神の父親。地獄の大魔神よ。地獄の大魔神はな、先を見通す大鏡を持っておるのだそうな。ワシの巫女は生まれてすぐに殺された。ワシは永遠に大いなる力を持てぬようになった。可哀相なのは、生きる喜びすら奪われたワシの巫女じゃ。ワシが何も望まぬようになったのは、憐れなワシの巫女に全てを捧げて生きておるからかのう。奪い合い、争い合い、その中で虐げられるのはいつでも弱き者じゃ。さて、大魔神の大鏡はな、先を見通す力があっても、それはそれはあやふやなそうな。だからこそ、あらゆる事を想定して未来を掴むのじゃ。見誤れば、己の全てを失うからのう』
いらいらと足を踏み替えながら待っていた聖守は、老人の前に手を差し出し、話を中断させた。
『だから、なぜ今なのです。なぜいま女神は活発に動こうとしているのですか。これまでにもいい時期はあったでしょうに』
老人は差し出された手をぱっと払った。
『急ぎなさるな、竜神よ。そう、お前も力ある竜神、そしてお前の弟もやはり力ある竜神。そのどちらが天界の次期大神となるのか、地獄の大魔神にはまだ分かっておらぬ。竜神の巫女と繋がりし者が誰なのか。誰の為の巫女なのか。今まで、お前達の前に竜神の巫女が現れなかったのは、一重に聖流の母である竜神の巫女の魂が解放されていないがため』
今度は聖流が震える手を老人の前にあげた。だがそれは話をやめさせるためではなく、何かに縋りたいとでも言うようだ。陽月は思わずその手をとる為に上がりそうになる自分の手をぎゅっと握った。
『大神は、自分の力を、大神と言う権力を奪われない為に、母の魂まで捕えていると言うのか。自身の巫女として生まれた女に、それほどの苦痛を強いるのか』
老人が聖流の手を掴んでぐっと握る。
『まだ早いわ。怒れる時はまだ先じゃ。己の力は温存しておけ、いつか敵を倒す時が来る。その敵が誰なのか、一人なのか、二人なのか、それとも己自身かは誰にもわからんぞ。心しておけ、己の欲する者、己の守りたい者、そして己の心、どうすれば守り通せるのか、己だけが知っておる。知らねば、敵は己自身となろう』
聖流は老人を凝視したまま、ゆっくりと陽月を振り返った。その目に映るものが何なのか、陽月には分からないが、今すぐにその身を抱きしめたい衝動にかられる。傷ついている、苦しんでいる、それを癒して欲しいと訴えている様な瞳。彼を癒すなら、抱きしめてあげたい。そう思って、いや、どうせ何をするのか、と怒らせるだけだと思いなおした。
『聖流、聖守、己の巫女を見つけたならそうと分かる筈。けっして手放すな、守り抜け。それが己に力を与える者となるのだからな』
聖流は自分の手を握っていた老人の手から、手首を返すようにして下向きに手を引き抜いた。その勢いに老人の体が揺れる。
『自分の力の為に巫女を守るなら、それは俺の父親が、母にした仕打ちと何ら変わりはしない。俺は、力の為に愛する者を犠牲にはしないぞ。自分の巫女を守れるならば、この命も惜しくはない』
老人はうんっ、と頷いた。
『この天界が誰に統べられることになるか、ワシの楽しみが増えたわ。だがな、お前の母、真珠の心は壊れ始めておるようじゃ。十分に用心するのだぞ。己を産んでくれた母とて、容赦出来ぬ事もあろうからな。まだ間に合う事を祈るぞ。坊主……』
聖流と老人の間に入った聖守は老人に向かって頭を垂れた。これまで苛立ちに礼を失した気がしたからだ。
『大神は、地獄の女神に影響を受けたのでしょうか。どれほど力に差があったとしても、あなたが今の大神にすんなりと全てを託したというのは腑に落ちません』
『ああ、全ては地獄の親子の企みよ。お前達の父も、ワシの元に現れた時には目は澄んでおった。大いなる力と慈愛にあふれたいい大神になると、ワシは信じたんじゃ。残念な事よ。お前の母は、地獄の……欲望の女神だからのう。相手も自身も欲望の網に絡め取ってしまうわ』
『大神が、女神の影響から抜け出せるとお思いですか。長老』
『女神に影響を受けているのではない。大神は己の欲望に屈し体を繋げることによって欲望の女神を己の中にも迎え入れてしまった。いま決断し行動しているのは大神自身。だからこそ、その大神からこの天界を奪い取ろうと女神は躍起になっておるんじゃ。結婚し子をもうけさえすればこの天界を牛耳る事が出来ると思いこんでおったのじゃろう。竜神の巫女である真珠は邪魔な存在だったろうな。その息子と共に……』
そこまで言って、老人は辺りを窺い始めた。
『今までワシの力で隠しておったが、そろそろ通用せぬ相手も出てきたらしい。早く行け。聖流、母を解放してやるのじゃ』
三人はそろって頷いて老人から離れて行った。真珠の霊廟はここからあまり離れてはいない。直ぐに着けるだろう。誰にも見咎められない事を陽月は心に強く思った。そして、聖流の母の美しい姿を思い出していた。生きている時は着る事のなかった花嫁衣装をまとった真珠。大神を愛していたと言っていた。大神は真珠を愛する気持ちを持っていたのだろうか。ただ自分の権力を維持する為だけに真珠の魂ごと捕えているのだろうか。そうではない事を、陽月は、聖流の母、真珠の為だけに願った。大神が真珠を愛していたと思いたかった。
さっき老人と別れた場所から真っ直ぐに真珠の霊廟に辿り着いていた。美しく穏やかな輝きがそこにあった。聖流は扉を指すと陽月を振り返った。
『そう、ここが聖流のお母さんの霊廟よ。大神以外はここへは誰も来ないと思う』
聖流が扉に手をかけた。手にぐっと力が入る。陽月は、以前に見た聖流の幼い頃の様子を思い出していた。産みの母に会いたい一心で大神の居室の扉を開けた。その先に何が待っているかなど知りもせずに。今度は、彼に悲しい思いはさせはしない。私には今実体がある。そして、癒しの力も持っている。本物の竜神の巫女ではないけれど、それでも月花よりも強い力だと聖守が言ってくれた。
だから、かならずこの親子を救って見せる。悲しみの檻に入れたままにはしない。
『……お……み……ちが、う。お前は何者。ここにおるのが誰なのか知って入って参ったか』
以前は鈴の音のようだった真珠の声が変わっていた。実体は亡くなっているのだから、声が変わったのではない。真珠の心が変わったのだ。
『おかあさん。俺だ。わからないのか』
ぶわっと強い風が三人に当たる。つんのめりそうになった陽月を聖守が支えた。聖流は風に負けることなく奥に進んでいく。真珠の遺体が横たわる台座の前まで来た。陽月と聖守も急いで後を追う。
『これは……あの時のまま、たった一度会った……あの時のままの母だ……』
触れようと出した聖流の手は震えている。
『触れるがいい。お前の体を差し出すならば、触れるがいい。さあ、美しい体を思う存分楽しむがいい。触れろ、触れろ、触れろ』
母の声に聖流の顔が歪む、震える手は母の遺体へとゆっくりゆっくり近づいていく。
『もう少し、もうすこしで触れられる。快楽を与えよう……お前がその体を捧げるならばな』
『だめよ真珠。それはあなたのたった一人の愛しい息子。その体を乗っ取ろうなんて駄目よ』
陽月の言葉が聞こえなくなるほどに風が音を立てて吹き荒れる。風の中で高笑いが響き渡る。感情の無い、悪寒のする笑い声は聖流の母の魂の声。遅すぎたのだろうか。真珠は悪鬼と化してしまったのか。
『お前の気は知っている。そうだ、お前がいい。お前を貰う』
その言葉と同時に聖流の体が弾かれ奥へと投げ飛ばされた。陽月の手首は何者かに捕えられ、ぐいぐいと真珠の遺体へと持っていかれる。横にいた聖守が止めようとするが、弟と同じように弾き飛ばされた。
触れるとどうなるのだろう。私の魂の代わりに、聖流の母がこの体を使うのか。本物の竜神の巫女が聖流のために現れるのだろうか。母ならば、それ以上に聖流の力となる者はいないのかもしれない。そんな風に考えていると、陽月の手は真珠の心臓の上に置かれていた。
ふわっと柔らかく弾力があるのに、とても冷たい。そう思った。その瞬間、陽月の心に何か別のものが入り込んできた。どこか遠くで叫び声がするが、何を言っているのか分からなかった。




