26話
歩いているのは洞窟で、長い通路のようになってはいるが、整備されてはいない。天然の洞窟といった感じで、足元には水が流れ滑りやすかった。陽月は慎重に歩を進めるが、何度か滑りそうになって慌てた。その度に、聖流が後ろから、もう手は貸さないぞこれ以上寝られたら困る、と嫌味を言う。と、また滑りそうになって、前を歩いている聖守が腕を持って支えてくれた。
『もうすぐ出口だ。慌てなくてもいいのだから、足元に気を付けて』
優しく穏やかな声が言う。聖守の声は、見た目の冷たさとは反対にいつもとても温かみがある。これも竜神の声の筆ならではなのだろうか。心が落ち着いてくる。ふと前を見ると、光が射してきていた。
『いよいよ天界に入るぞ。陽月、霊廟がどの辺りだったかわかるのか』
陽月には道順など分かるはずもない。聖流と聖守の二人が立っていた場所からなら、なんとか分かるだろう。ということは、そこを探さねばならないが。陽月は記憶を辿ってみる。男二人が兄弟を連れて行こうとしていたのは酒のある場所だ。その方向とは逆に進んだ。あの場所が分かるとすれば、聖流たちと話をしなければいけない。でも、しゃべるなと言われている。話さねば、話さなければならない。
『聖流と話したい。聖流私の声を聞いて』
そう強く念じた。その時、ふわりと頭から何かがかけられた。
『なに……』
『天界の衣だ。天界では皆がそれを着てる。此処の奴らはみな、自分を隠したがる。それが侵入者をも隠しやすくなるというのにな』
陽月の問いに答えたのだろうか。それとも偶然。
『聖流、私の声が聞こえるの』
『ああ、でも、しゃべるなと言っただろうが』
『しゃべってないわよ』
言われて聖流が陽月を凝視した。そのあと、ゆっくりと聖守を見ると不審げに眉根を寄せて聖流と陽月を見ている。聖守には陽月の声は聞こえていない。
『ああ、そうか聖流に聞こえてくれって念じたんだわ。だから聖守には聞こえないのね』
そう言うと、目を閉じもう一度念じなおす。
『聖守、聞こえる私の声』
聖守は片方の眉をピクッと上げた。
『心の声を使うのか。そこまでできるとは、恐れ入る』
『これは心の声なの』
聖流は一回だけ首をくいっと曲げた。
『自覚なしでも、陽月になら何でもできるだろうさ。さあ、陽月衣をちゃんと着ろ』
慌てて言われたとおりにしようと衣の袖に手を通した。ゆったりとしたローブの様な着物だ。腰の部分に編んだ紐が付いている。それを結びながら、陽月は聖流と聖守を交互に見た。
『ねえ、物凄く前だと思うけど、初めて天界に戻って来た時のこと覚えているの』
聖流がはぁっと言って口角をあげた。
『初めても何も、300年程前の一回だけだ。ああ、ちゃんと覚えてるさ』
聖守は首を振った。
『私は全て覚えているが、お前は怪しい。なにせ、ぐでんぐでんに酔っぱらったお前を抱えて、祠に戻るのは、かなり面倒だったのだから。暴れるわ、吐くわ。あの時、お前は子守の腹の中に吐いたんだぞ。これは子守は知らない事だがな』
聖流は眉根を寄せて顔をゆがめた。ちっと舌打ちまで聞こえる。
『あの時、あいつ等は知ってて俺にあの酒を飲ませたんだ。天界の酒が、実体のない俺に悪影響を及ぼすって分かってたんだ。俺が半人だとコケにするから、受けて当然の報いを受けたんだ。あいつ等の計算違いは、俺にどれだけの力があるのか把握していなかった事だろうが。俺が悪いんじゃないね』
聖守はため息をついた。思い出すかのように天界の入り口の向こうを見る。
『聖流にも私にも、この天界のほとんどの住人よりも強い力がある。それは、禍にしかならないと言うのに。私は大神と女神の子だが、聖流にまで大きな力が備わっているのは、聖流の母に何か特別な何かがあるのかもしれないと思ったものだが……その何かが、彼女の魂をここに留めておく理由なのかもしれない。あの時、聖流は天界をも破壊しかねないほどに怒り狂って、私達は天界の裏口から追放された。今ここにこうしているのさえ、誰かに見咎められれば危ないんだが』
天界の特殊な酒を飲まされたにしても、聖流をそこまで怒り狂わせた原因は何だろう。陽月は聞きたいと思う気持ちと、苦い顔の聖流を見ていると聞いてはならないのだと自分を戒める狭間にいた。
だが、今は聞く時ではない。そう自分に言い聞かせた。
『ねえ、その酒を勧めた男達に出会った場所を覚えていない。そこが分かれば、聖流のお母さんの霊廟に行けると思うから』
兄弟が頷いた。
『あいつ等と会ったのは、大神の居室の角を曲がった先だ。こっちか……』
聖流のさした方向を見ながら、聖守ももう一度頷いた。
『二人とも見つかっちゃいけないんでしょう。私もだけど、大丈夫』
『ああ、さっきも言っただろうが。ここの住人は自らを隠したがる。いったい誰から何を隠したいのか、俺達には分からんが、今の俺達には好都合ってもんだ』
今度は聖流が一番前を歩き始めた。立ち込めるのは、やはり薄い霧。見ようと思わなければ何も見えない。誰とも会わない。いや、見つけにくく見つかりにくいのだ。その霧の中を進んでいくと、何人かにすれ違うが、あちらは気付きもしない。このまま霊廟に到着できますように、と願ったその時だった。
『これは、これは珍しい方々がお見えだな。しばらく見ないうちに、大神に似てきたようじゃ。立派になったものよな。ところで、追放されていたのではないのか』
三人の目の前には、何時の間にそこにいたのか、真っ黒の衣を着た老人が立っていた。聖守が目を細めた。
『これは、長老どの。いまだに健やかでなによりです。お久しゅうございます』
口元に手を当て、老人はニヤッと笑った。
『聖守、そなたは幼き頃よりそつがないのう。挨拶よりもワシから逃げる方がよいのではないか。ここで追放者がいると叫ばんとも限らんだろうが』
老人はふぉっふぉっと笑った。その様子に、この老人は叫ぶつもりなど毛頭ないのだと、陽月には思えた。
『叫ばないでくれるとありがたいな』
聖流は少し俯き加減で小さく言った。なんだか、此処に居ずらい様子だ。
『叫ぶつもりなら300年前にそうしておるわ。バカ者が。あれだけ気がふれたようになっておっても、ワシの事は覚えておるようじゃな。感心感心。ところで、何をしに来たんじゃ。見つかれば大神に大目玉を食らうぞ。しかも……実体を持ってここにくるとは……相当な覚悟じゃな。人の娘まで連れおって……』
老人は陽月をじーっと見つめる。
『ほう、これはこれは、大変な事じゃ』
天界に人間が来る事はそんなに大変なことなのだろうか。今までにも、聖流の母以外にも来ているのだと思っていたが。
『長老どの。見逃していただけませんか。どうしても成さねばならない事がございますので』
老人は、じろっと聖守を睨んだ。
『お前の母が善からぬ事をたくらんでいるこの時に、その実子であるお前さんが兄弟と人を連れて天界に上がる。そこにはどんな理由があるのじゃ。それによっては黙ってはおれぬぞ。ワシとて、お前の母にこの天界を奪わせる為に、大神の職を退いたのではないのじゃ。お前らの父に託したのじゃ』
陽月は思わずぱっと顔をあげて老人を凝視した。大神の職を退いたということは、聖流たちの父親である今の大神の前の大神ではないか。大変な者に見つかったものだ。
『あの、おじいさん。何も悪い事をしに来たんじゃありません。ただ、苦しむ者を救いたいだけ。聖守には悪いけれど、女神の事は好きではないの。仲間ではないし、これから先もそうはならないわ。私達は、女神によって引き起こされる禍から人々を救うだけです。それが私の生きる意味です……それが分かったのはつい最近だけど、でもやらなければならない事は、全力でやり通すわ』
老人は驚いたように目を見張った。そのあとゆっくりと微笑んだ。
『聖流の母、真珠の霊廟にいくのだな。どうして、お前の母があの場所に魂ごと囚われているのか、知っておるのか』
三人は老人の言葉に互いの顔を交互に見た。さっき聖守が言っていたことだ。聖流のははには、どんな秘密があるのか。
『知らぬ、と見えるな。そうか、知らぬままそれでも母の魂を救う為に来たのじゃな』
聖流が一歩前に出た。
『知っている事を教えてくれ。なぜ、母は囚われている。なぜ母に地獄を味わわせてまで、大神は霊廟に母の魂を捕えているんだ』
大きく頷いた老人は、陽月の手をそっと触った。
『温かいのう。昔から、熱い血潮の生き物の中から竜神の巫女は生まれる。天界人の中には決して生まれない。それがなぜなのかは誰も知らぬ。聖流の母も竜神の巫女。聖守と聖流の父親のための巫女じゃった。だが、遅かった。父は女神と結婚し、聖守をもうけた。父は、偉大なる力のすべてをその手にする事は叶わなんだ。そうそう、ワシも竜神よ、わしには竜神の巫女がおらなんだ。と言うよりも、見つける前に命を落としておった。だから、ワシはお前らの父親が現れた時、ヤツに全てを託したのよ。抗ったところで、ワシとあやつの力の差は歴然じゃったからのう。ところが、あやつめ地獄の女神に心を奪われよった。自身の巫女を見つける前に……愚かしいことよ』
聖守がふーっと息を吐き出した。その顔には緊張が走っていた。




