23話
真っ暗な海面に月の明かりが反射して、ゆらゆらと揺れている様は大きなクラゲが泳いでいるようで不気味に感じる。
「ほんとにこの時間じゃないとだめなの。もしかしたら、昼間に来るかもしれないじゃない」
申し訳なさそうに首を振り、陽月の言葉を否定した聖守は、真っ黒な海面に手を差し出し、陽月に入るように促している。
『ヤツは無類の酒と女好きなのでな。この時間が一番の気に入りなんだ。人間界では昼間には酒と女を提供してくれる商売は、かなり限定されてしまうから、ヤツは、竜になりそこなった卵をこちらに持ってくるときは、絶対にこの時間帯だ』
「わかったわよ。でもね、そいつが来る前になんで私だけ海に入ってなきゃいけないのかが、理解できないのよ。怖いじゃない、見てよ、この真っ黒さ。何も見えないじゃない。何か恐ろしいものがいたらどうするの」
聖流がさっと手を振った。
『心配するな。退治してやる。それに、お前が念じれば暗い水中でも見えるはずだろうが』
夜中の海に入る事が恐ろしくて躊躇する陽月の足元をじっと見ながら聖流がいった。
「見える筈って、そんなこと言われても。いいわよ入りますよ。でも、さっきも聞いたけど何で私だけ先に入るのよ。おかしいじゃない」
『お前はエサだ』
水面に足を浸けかけていた陽月は動きを止めた。
「ちょっと、何のエサなのよ。聖守、黙ってたわね。言いなさいよ、私が何のエサになるのか」
聖守は眉根を寄せて弟を睨んだ。できれば陽月には言いたくなかったのだ。エサと聞けば、恐怖はやおら上がるだろうから、面倒な事になる。決して食われる訳ではないのだが。
『竜の卵を運んできて、雄のタツノオトシゴの育児嚢に移せば、ヤツの仕事は終わる。そのあと、地上に上がって楽しく過ごそうってことなのだが……何処でヤツが上陸するかはヤツ次第。お前をエサにしなければならないのは、そのためだ。申し訳ないが納得してくれ。ヤツはお前を食ったりはしない。ただ、ちょっとだけ』
「きゃーーーーー」
海には浸けずにおいた足が濡れている。足首辺りがぬらぬらとテカッている。腰を抜かした陽月が足を高く持ち上げた。すると、ストローの様な形状の柔らかいものが足の裏に吸いついた。
「なによこれーーー。とってとってよ。聖流取っててば」
ゆっくりと首を傾げた聖流は水面をじっと見つめる。陽月の足の裏に吸いついたものを目も向けずに握った。
『おい、出て来い。子守』
聖流の呼びかけに、ゆっくりと水面から何かが上がってくるが、吸いついたものは剥がれない。その先に出てきたものは、まさにタツノオトシゴそのものだが、やけに大きい。柴の成犬ほどの大きさがありそうだ。
『引きちぎられたくなければ、早く放した方が身のためだ子守。聖流は容赦しないだろうから』
聖守はかがみこんで子守と呼ばれた巨大なタツノオトシゴと目を合わせた。すると、足の裏から吸盤が放れぽんっと音を立てたが、それを聖流は握ったまま持ち上げ、岸にあげてから放した。
「なにこれ……」
まだ陽月の傍でぴくぴくと動く口を見て、顔がゆがむ。
『なにこれとは何だ。とても綺麗で俺の好みだが、ちょっと失礼じゃないのか。それに竜神さま、用があるなら呼んでください……直ぐに来ますから』
『嘘を言うな。お前が上陸場所を特定しないのは、俺達に見つかりたくないからだ』
「いや、上陸なんてしませんよ」
そう言いながら、タツノオトシゴは姿を変えた。人間の若者、と言っても中学生にしか見えない。それもとびきり可愛い中学男子といったところだ。
『その割に、人間の姿に変わるのは慣れているのはどうしたことかな』
聖守が冷やかに言った。
『いや、今夜はこのお嬢さんが怖がるといけないと思ったんで。誤解ですよ。俺は掟は破ってない、もちろんいつだってそうだ』
言いながら、子守は先生に悪さを見つかってしまった中学生のように縮こまった。
『これが今夜の事だけではなく、常時行っているのは紛れもない事実だろう。上に報告しなければならない事だぞ。分かっているのか。仕事が終わっていると言っても、子守であるお前が、人間界に勝手に遊びに行っているとなれば、ただでは済むまいな』
聖守の声は黙って聞いていた全く関係ない陽月でさえ、背筋が寒くなった。ちょっと子守が可哀相になる。
「ねえ、今夜は何もしてないじゃない。勘弁してあげれば。別にそれほど悪い事しそうじゃないんだし」
聖守に取り成してくれようとしている陽月に、子守は安堵と感謝の混じった目を向ける。
『陽月、お前はこいつが上陸して何をしているのか聞きたくないか。もしかすと、物凄く恐ろしい事かもしれないぞ。それでも庇うか』
聖流はニヤッと笑って子守を見た。
『俺は恐ろしい事なんかしてない。ただ、人間の金をちょっと頂いて、それでいい女のいる店で酒を飲むんだよ。恐ろしい事なんかじゃない』
「でも、その姿じゃお酒は飲めないでしょう。どうみても子供だもの」
はっとした子守はまた姿を変えた。先ほどの美少年は、青年に変わったが、これまた美青年だ。
『酒を飲むときはこれじゃないといけないって、昔に学んださ。最近とくに厳しいからなぁ。お酒は二十歳になってからって言うらしい』
そう言っていい気になっている子守の肩に聖流が腕をかけた。
『そうか、その姿ならいつも酒が飲めるんだな。よくわかったぞ』
聖守が反対側から肩に腕をかけた。
『本来ならば、このまま捕まえて強制連行となるのだが、陽月が勘弁してやれと言う。どうしたものか。そうだな、彼女の言葉は無視できない。我らが竜神の巫女なのだから。ならば、その願いを叶えようか』
ぶるぶると震えながら二人を交互に見た子守は、懇願するかのように陽月に視線を向けた。
『この巫女様のためなら何でもするから。どうか見逃してくれ。もう決して掟を破らないと、巫女様に誓うから、お願いだ竜神さま』
『何でもするのだな。巫女の為ならば、何でも願いを聞くのだな。子守よ』
子守は何度も何度も大きく頷いた。聖守が陽月に顎をくいとあげて見せた。願い事を言うのは、どうやら陽月の役目らしい。
「あのね、子守さん。私を天界まで運んでほしいの。誰にも見つからない様に。お願い」
顔の前で拝むように両の掌をこすり合わせて子守を見つめた。
『天界に……それはむり……人間を天界に運んだりしたら……いや、運びますよ。できます、できますよ。勿論です』
聖流と聖守が一緒に子守の背中を叩いた。
『期待しているぞ。さあ、出発だ』
合わさった竜神の声で、海面にさざ波が立った。
「で、私はどうやって運ばれるんだっけ」
『こいつの腹の中へ』
聖流はにやっと笑った。憎らしげに、陽月の鼻がぴくぴくと引きつった。直ぐに子守が近寄ってくる。陽月の頬に手を当てて固定すると、額に口づけた。いや、陽月はそのまま吸いこまれてしまった。大きな叫び声が、子守の腹の中から聞こえる。聖流と聖守も後を追うように子守の口の中に飛び込んだ。
子守はいやな顔をしてため息をつくと、元の姿に戻った。半透明の腹の中で、何かがうごめいている。
『静かにしてて下さいよ。あんまり暴れると、腹を下してしまう。腹を下したりしたら大変なことになっちまいます。じゃあ、行きますからね』
またもや、子守の腹から叫び声が聞こえた。
『ちょっと、聞いてないわよ。吸いこまれるならそう言っておいて。飲みこまれて食べられちゃったと思ったでしょうが。あんた達兄弟は、いっつも説明不足なのよ』
子守の腹の中はふわふわのクッションの部屋にいるみたいで、子守が動くたびに腹の中でぽわぽわと揺れてしまうが、案外心地の良いことに、陽月は感動していた。でも、それをこの兄弟に悟られる訳にはいかない。こんな事をさせられて、文句がいっぱいありますという体面を作っておかなければ、何でもありだと見透かされてしまいそうだ。
『お覚えてなさいよ』
そう言いつつ、陽月はぷわぷわと揺れながら、手に握った筆をもう一度握りなおした。二人とはぐれる訳には、絶対に行かないのだから。




