22話
「なんて言ったの」
祠の内側にある、誰も知らない洞窟の中は相変わらず薄暗い。
『泳げるかと聞いたのだが、陽月は泳げないのか』
「失礼ね、聖守。泳げるに決まってるでしょう。そうじゃなくて、私が聞いたのは、深海まで潜れるかってところよ。深海まで潜れる人間なんていないでしょうよ。それも素潜りって有り得ないんだから」
大岩に胡坐を組んでいる聖守が瞑っていた目を開いた。
『いや、普通の人間では無理だろうが、陽月なら大丈夫だろうかと一応聞いてみたんだが』
はーっと陽月は肩を落とした。納得いかない様子でうなだれる。
「なんで深海に潜らなきゃならないのよ」
『陽月も付いてくると言ったではないか。天界に行くなら絶対に自分が一緒でなければならないと、陽月が言ったのだ』
うつむいたままの頭の前で、陽月は手を伸ばして大きく振った。
「聖守とは、話がかみ合わないわ。そうじゃないでしょ、天界に行くのにどうして深ーい海の底まで潜らなきゃいけないかって話よ」
『馬鹿だな陽月。タツノオトシゴだ』
陽月はしらーっとした視線を、洞窟に来て初めて口を開いた聖流に投げた。
「なにがタツノオトシゴよ。意味が分からないじゃない」
『お前は言っただろうが。俺がタツノオトシゴみたいだってな。その時に、竜になれなかった卵が天界から海に流れ出るとき、雄が育児嚢で卵を守り育てると教えただろう』
陽月の眉がくいっと持ち上がる。
「あれってホントのことなの。でも、確かタツノオトシゴは深海魚じゃないのよ。わりあい浅瀬っていうか……とにかく深海とは関係ないのよ」
聖守が手を挙げて陽月を見つめる。まるで話す許可を得ているようだと、陽月は思った。
『実際のタツノオトシゴは深海には生息できない。が、竜になれなかった卵をタツノオトシゴの雄へ届ける者がいる。そいつは深海に住んでるいる。だから、そこまで潜らなければならないと言うことだ陽月』
陽月は目を閉じ、ため息を吐いた。
「わかったわよ。いや、分からないけど一応分かった事にする。でもね、人間は深海に潜るなら、それなりの装備というか、潜水艦みたいなものが必要なんじゃないかと思うわけで。無理でしょ」
『無理だというなら、お前は天界に来なくていい。俺と聖守だけで母の魂を救う。お前が来なくても困らない。いや、来ない方がいい』
いきなり立ち上がった陽月は、一番奥の大岩に座っている聖流の前にづかづかと歩いて行った。
「なんなのよ、その言い方。私は邪魔だっていいたいの。確かに深海までは潜れませんよ。だからって、来なくていいはないんじゃない。私だって、あんたのお母さんの魂を救ってあげたい。あんた達と一緒に行って、あんたたちの手助けをしたい。そう思うのはいけないことなの。なによ、ひねくれ者……天界にいくほかの方法を考えてくれたっていいじゃない。ばか……」
言い募った陽月の瞳は赤くなっている。陽月自身、これ以上何か言えば泣いてしまうと思って言葉を飲み込んだ。二人の前で涙は見せたくなかった。弱いと思われたくない。これから一緒に戦っていくのだから、弱さは知られたくないし、すぐにヒステリックに泣き叫ぶ女だと思われたくなかった。
大きく息を吸い込んで吐き出した。落ち着いて、ちゃんと話をするのだ。聖流の母の魂を救うなら、絶対に是が非でも一緒に行きたい。だが、その思いだけに飲み込まれてはいけないのだ。
そんな陽月の様子を二人見つめていた。聖流は兄に助けを求める様に視線を向けるが、聖守は首を振った。
『他の方法はないのだ。陽月、お前が天界に行く行かないに関わらず、私達が天界に入った事を大神に知られる訳にはいかない。大神に知られずに天界に侵入するなら、深海の流れに乗る以外にないのだ。聖流の母親の魂を解放し浄化した事が大神に知れた時、私達が天界にいたとなれば、大神は私と聖流が女神についたと思うのは間違いない。なにせ私は女神の実子なのだからな』
「そう思わせておけばいいじゃない」
いいや、と聖守はまた首を振った。
『私達が女神に加担する事はない。ならば、大神と女神両方の側から狙われることになってしまう。孤立無援で三人だけで多くを相手にするには、力が及ばない。そんな危険は冒せないのだ。分かって欲しい』
陽月は俯きながら自分が座っていた小さな岩の上に戻った。小さく嘆息すると、いいわっと呟いた。
「私が諦めれば、あなた達に危険が及ばないってことね。ただ、あなた達はどうやって天界に行くわけ。私が竜神の筆を持たなければ、どうやって天界に入るの。それは問題のない事なの」
『問題無い』
聖流が間髪いれずに答えた。そんなに私に一緒に来てほしくないのね。陽月は聖流に拒まれる事に酷く傷ついていた。それほど好かれてはいないとおもうけれど、これほどあからさまに拒絶されると堪える。
『問題のない訳ではないだろう聖流。陽月が一緒でなければ、私達は実体が無い状態で天界に入らねばならない。そうなれば、母上の魂を解き放つ事も、浄化する事もかなりの困難を要するだろう。陽月には共に来て貰う方が得策だと私は思う』
『いいや、問題無い。陽月はここで、裕之達のいる家で待っていればいい。危険の中に連れて行く事はない』
聖流の言葉に、聖守の眉がぴくりと動いた。薄っすらと微笑んでいると思えるのは自分の勘違いだろうかと、陽月は思った。
『お前は陽月を守ろうとしている様だな。ならば、陽月もお前を守り、お前の母上を救いたいと思っている気持ちも、また理解するべきではないのか』
顔をあげ兄を凝視した瞳には怒りが浮かんでいた。鼻息を荒くした聖流は、目を閉じ何度も深呼吸をする。怒りを鎮めようとしている様だ。
『だが、陽月には深海に潜る事は出来ない。無理なものは無理だ。危険すぎる。そんな事はお前だって分かってる筈だし、お前も陽月を危険な目には遭わせたくない筈だ』
『いや、私は陽月を安全な所に隠しておく事よりも、お前の母上を間違いなく解放する事を優先する。それはお前にとってだけでなく、私と陽月にとっても大事な事なのだから。お前だけの想いで決めていい事ではない』
『なぜ、俺の母だ。お前達が危険を冒す必要はない』
『いや、お前の母上だからこそ、私達は一緒でなければないのだ。私達が竜神の筆となり、月花をはじめとする多くの巫女が関わって来た使命は、お前とお前の母上との愛情から始まったのだから』
聖流は兄の言葉に驚きの表情を浮かべた。こんな事は、いままで一度たりとも聖守は口にしなかった。こうなったのは、愚かな弟のせいだとは言った事はない。弟が心の奥底で懺悔していたとしても、それに触れる事はなかった。弟の傷口を開く事はなかった。
『そ、うだ。愚かな俺が……お前まで巻き込んだ。だからこそ、お前も陽月も俺の母の事で危険を背負うことはない。俺一人で行く』
静かに弟を見つめる聖守の瞳は慈愛に満ちていると、陽月は感じた。弟を大切に思っている、決して責めているのではない。だって、聖流とその母の愛から始まったと言ったではないか。
『ああ、幼い子が母を求めた結果だ。そして、夫からも我が子からも、きっと両親でさえ愛さなかった私の母から始まった。お前達の愛は、女神には毒だった。それを認める我が子さえ、女神には許す事は出来なかった。だから共に行かねばならない。お前を一人行かせたりはしない』
「そうよ。だから私もいく。あんたが邪魔だと言っても、私は行くわ。私の使命はあんたとあんたのお母さんの愛から始まった。だから、あんたのお母さんの愛を取り戻したいの。あんたを愛していたお母さんに戻す為なら、私は何だってする。一人では行かせない。あんたを握りしめて放してやらないんだから。一人でなんて行けないのよ」
俯いてしまった聖流の肩が震えている。
『じゃあ、行くがいいさ……』
それだけ言うと、そのまま黙ってしまった。陽月も聖守も何も言わず聖流を見つめていた。どれだけ時間が過ぎたろう。聖流の肩がまた震えた。
『陽月、タツノオトシゴの腹の中は、あまり心地よくはないぞ。お前にできるのか』
あげた顔が憎たらしい笑みを浮かべている。陽月は殴ってやりたくなった。
「あんたに触ると夢を見ちゃうんじゃなかったら、思いっきり殴ってやるのに」
どれほど心配したか、この竜神には関係ないらしい。
『お前に殴られるほど落ちぶれちゃいない』
「前は殴られたじゃない」
『あれは、他に気になる事があったから』
あの時は、聖流の視線が陽月のTシャツを持ちあげている胸の頂きに向いていた。
「このどスケベが。あんた竜神でしょうが、神様なんじゃないの。いや、もういい……こんなこと言ってる場合じゃない。もっと大事な事がある。タツノオトシゴの腹の中ってどういう事よ」
いつもの事となった聖守のくすくす笑いが聞こえる。
「笑い事じゃないわ、聖守」
『ああ、申し訳ない。想像してしまったものでな。タツノオトシゴへ竜の卵を運ぶ者にも育児嚢があるんだが、陽月にはその中に入ってもらうことにしよう。聖流は、一番危険の少ない方法を思いついたらしい』
「ちょっと、育児嚢って……いや、あの……もうっ」
聖守はまだくすくすが止まらない。聖流はにやりと笑っている。
「わかったわよ。性質の悪い兄弟ね」




