20話
「速水、本当にいいのか。お前ならこのまま会社に残れば、出世もできると俺は踏んでたんだがな。いずれは販売部の課長クラス、美容教育課の課長、お前には期待してたんだぞ。努力家だからな、もったいない」
陽月は会社で販売部の部長と話をしていた。すでに退社することは決めていたが、今担当している店舗のセクション(常駐販売員)であるため、後任が決まらねば辞める訳にはいかない。そこで、担当マネージャーに相談したら、部長に呼び出されたのだ。どうやら、引きとめてくれるらしい。
「祖母が亡くなった時にそう決めたので。祖母の仕事は家が代々受け継いできた稼業ですから、私以外に継ぐ者はいません。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
部長は片眉をあげて陽月を見つめている。この部長は、陽月が入社試験でここを訪れた時に、面接官の一人としてその席に座ってた人だ。そして、入社試験のその日に「待ってるぞ」と陽月にだけ声をかけてくれた。あとで聞いたところによると、あまりにも物おじしない陽月の様子に、こいつは中々いい美容部員になると、面接官全員に後押ししてくれたそうだ。入社前からのお気に入りと言うことだ。
「んー。戦力ダウン間違いなしだな。速水、おしいぞ俺は。お前に残って欲しい。と言っても、お前は聞き入れてはくれんのだろうな」
「すみません部長」
部長は苦笑いをしながら首を振った。
「仕方ないさ、気にするな。ところで、顔色が悪いぞ、疲れてるんじゃないのか」
「いえ、昨日あまり眠れなかったもので」
洞窟は祠の内側にあった。聖流と聖守の兄弟と話をしていて夜を明かしてしまったため全く寝ていなかった。そのままショッピングモールで仕事を終えて、今は会社にいるのだ。眠たくて仕方ない。
家に帰らなかった陽月の事は、両親は心配することさえなかった。自分達が娘の不在に気付かない事すら、気付かせては貰えないのが可哀相な気もしたが、それは仕方ない。
「まさか、朝まで飲んでたなんて言わないでくれよ。俺の速水像が崩れるからな」
陽月は笑った。
「どんな速水像ですか。朝まで飲んでくれる相手もいませんよ。会社辞めるなら寿退社がよかったけどな。ちょっとカッコイイじゃないですか。この業界、婚期を逃す先輩方も多いですから」
「速水が結婚かあ、想像つかんな。まだまだ子供な気がするぞ。俺のところの娘と同じ年だしな。まだ嫁には行くな。と言っても、お前のところは養子を貰うんだったな。じゃあ、お祖母さんの仕事を継いでなおかつ『死に化粧屋』を起業するって手もあるじゃないか」
「死に化粧屋ですか。祖母は大々的に仕事を請け負っていたわけではないですし、うちは寺ですから、あんまり営業っていうのもね」
部長はいやいやと手を振った。
「そんな事はないさ。いまどきお寺だって営業する時代だよ。そこに死に化粧屋が入れば鬼に金棒じゃないか。いい考えだと思うぞ。葬儀の情報は入りやすいし、檀家も持ってるんだ。商売繁盛間違いなし」
陽月は顔をひきつらせて笑いをこらえた。
「なんだか、部長が言うと不謹慎な感じがしますよ」
「なんだそりゃ、失礼な奴だな相変わらず。ただな、真剣に考えろ、お前ならいっぱしの会社をやっていけると俺はおもってるんだから、な」
「ありがとうございます」
部長は陽月の肩をぽんと叩くと、この話は分かったと言ってその場を離れた。遠くから、今夜は早く帰って寝ろと、大きな声がした。
大柄で声も大きく大胆不敵な感じのする部長のことが、陽月は好きだった。父親とはタイプが全く違うが、父親に対する感情と似たものを持っていた。陽月は部長の歩いて行った方に少し頭を下げた。感謝をこめて。
『部長の言うとおり、今夜は早く寝ろ。もう帰るぞ』
「えっらそうに、なによトカゲ」
陽月はバッグの中に入っている筆袋をぽんと叩いた。
会社を出る為にエレベーターまで歩いていた。セクションの後任が決まって退職しても、しばらくは起業などと言うことは考えられない。まずは目の前に戦いが待っているのだから。ただ、その先に自分に自由があるならば、死に化粧屋として真剣に生きるのも悪くないかもしれない、商売をするのは面白い。
そんな風に思いながらエレベーターの前に到着してボタンを押した。中に入ると、上階からの先客が横によけてくれた。自社ビルなので、上の階は陽月の勤める化粧品メーカーの総務部がある。この女性も、事務をしている一人だった。何回か顔を合わせた事があるので知っている。会釈をして中に入り、1階のボタンを押すとエレベーターはすうっと下って行った。
『これだ……これだぞ』
聖守の声が興奮気味に響いた。
「なにがこれなのよ」
思わず答えていた。
「え、なんですか」
総務部の女性が陽月を見つめている。一人ではないのに、またやってしまった。他の人には竜神の声も姿もみえないのを忘れてしまう。これでは変人だ。
「あ、いえ、独り言です。ちょっと考え事をしていて、ごめんなさい」
いえ、と言って女性は少し後ろに下がった。まるで避けられた様な気がした。いきなり声を出した聖守を恨めしく思う。足早にビルの陰に入りこんでスマートフォンを取り出し耳に当てる。通話中のフリだ。
「聖守、なによ。いきなり話しかけないでよね」
『はなしかけたのではないのだ。思いついた。天界』
そこまで言って、いきなり聖守は黙ってしまった。その瞬間、背中にぞわっとする視線を感じた。
『陽月、逃げろ。実月が近付いてるぞ』
『家に戻っても、しばらく目覚めぬよう暗示をかけたが、切れてしまったか』
『仕方ない、今は逃げるんだ。こんなところでは何もできん』
聖流に言われなくとも、この背中を刺すような強い視線から逃れたいことに間違いない。実月は追って来たのだ、竜神の声の筆を取り戻す為だろう。あわよくば、竜神の筆も欲しいと狙っているに違いない。
陽月は走り出した。ただ、どこに隠れればいいのか分からなかった。実月は人外の能力をまだ持っているのだろうか、竜神の声の筆を失っても、恐ろしい相手なのか。
「ねえ、実月の力はどのくらいなの。聖守がいなくても強いの」
『私がいなくなれば、これまでならそれ程の力を持っていなかっただろう。だが、女神は私を取り戻す為に実月に力を与えているに違いない。実月からこれまでになく女神の匂いを感じる。危険だ、陽月』
「じゃあ、昨日みたいに洞窟に隠れるとか。だめ」
そう言った瞬間には、陽月の髪が後ろに引っ張られた。きつく引く手に髪がからめとられていく。同時に背中が歩道に叩きつけられた。肺の中の空気が一気に押し出され、息が出来ない。
「…………」
仰向けに倒れて喘いでいる陽月の横に実月が仁王立ちになっている。
「よくも盗んだわね。この泥棒が。返してもらうわよ、力づくでね。初めからこうしていればよかった。筆の言うことなんか聞いて生易しいことなんか、するんじゃなかったわ」
実月はハイヒールを履いた足を高く上げた。周りから悲鳴が上がる。こんな人通りの多い所で、殺人でも犯すつもりなのか。陽月は慌てて横に転がって逃げた。急いで立ち上がろうとしたが、背中にハイヒールの踵が突き刺さる。
「いったっ」
また歩道に叩きつけられた。このままではもう一度踵で刺される。そう思って身を返し振り下ろされる踵に向かって手を伸ばす。靴底を掴む事が出来た。そのまま実月の足首をひねり返して、今度は実月を歩道に叩きのめした。実月がのたうつ。その隙に、陽月は立ち上がって走り始めた。
『どこか、人目のない所に入れ。聖守と俺がお前を隠す』
「いやよ。このまま実月を放っておかない。私に力を貸して」
『陽月。駄目だ。聖流の言うとおりにするのだ。今はまだ戦うのは早い。無理だ』
「いや。許さないんだから」
陽月は近くの公園を目指していた。そこなら、帰宅時間のこのビル街よりも人の数は少ないし、場所も広い。周りの人間も逃げやすいというものだ。いきおい公園に入ると振り返り、追ってくる実月を待ち構えた。足の速い陽月は、追手よりもかなり早くに到着したらしい。今やっと実月が姿を見せた。
「実月。今度は覚悟しなさいよ。ただじゃおかないんだから」
近づいてくる実月の瞳を見て、陽月は一瞬ひるんだ。その瞳には瞳孔が無い。女神のそれに似ているが、女神の瞳の様な星は輝いていない。ただ闇の様に暗いだけだ。そして、容姿が今までとは違っていた。若々しさは失われ、深いシワとたるんだ皮膚が昨日までよりも何十歳も実月を老けさせていた。その老婆の顔の中で、瞳孔のない瞳と真っ赤な口紅が恐ろしさをいや増しているのに、陽月が見つめている間にも、その枯れて行き方は異様で凄まじかった。
枝の様になってしまった指先を陽月に向かって突き出した。その爪にも真っ赤なネイルが施されている。
「お前の様な小娘に何が出来る。私には力がある。幼い頃には気付いていた。誰にも無い力を自分が持っていると気付いた時には母の紅筆を継承するのは私だと確信した。なのに葉月が、あの女が私から全てを奪った。その孫のお前など、殺してやる。葉月の分も苦しみを味わえ。嬲り殺してやる」
周りにはさっきの場所ほどではないにしろ数人の人間がいる。実月の言葉にその異様な瞳と形相に息をのみ、陽月の背中から流れる血に驚き、悲鳴を上げる。誰かが、警察に電話しろと叫ぶ声が聞こえた。警察が来れば、実月と戦うことはできない。止められてしまう。
陽月は目を見開いたまま念じ始めた。周りの人間がただこの公園を出て行ってくれるようにと、祈る様に念じた。次第に辺りに人の気配が無くなり、皆が公園を出て行ったのが分かった。
静まり返った公園の中に、陽月と実月の二人の荒い息使いだけが聞こえる。




