2話
走り続けた陽月は、火葬場の待合部屋に急いだ。まだ、そこで遺族は待っているはずだ……陽月の願いが届いていれば。
いくつかある部屋の前の名前を確認する。速水家の札を見つけて扉を開いた。
「なんで……」
そこには誰もいない。まさか、もう荼毘に付されたのか。陽月は足元が崩れるような感覚を覚えた。祖母の身体が焼かれてしまっては、己の願いは決して叶わない。
「あの、足、ケガをされているようですけど……」
遠慮がちな囁き声に振り返ると、火葬場の職員らしき女性が陽月の足を凝視していた。陽月が通ったところには血の跡がついている。
「速水葉月は……どこですか……」
陽月の声は震えていた。
「ああ、速水様でしたら、皆様たったいま骨上げに入られましたよ。あの、足、手当てさせて……」
陽月は走り出していた。それでもつい先程までとは違い、体中から悲鳴が上がっていた。指や足の裏の傷はドクドクと痛み、太腿とふくらはぎは筋肉が痙攣を起こし、今にも筋は切れてしまいそうだった。背骨は砕けて無くなってしまったかのように覚束ない。
「おばあちゃん」
火葬炉の横にある骨上げ場に入ると、皆が一斉に陽月を見つめた。髪を振り乱し、着衣は乱れ、裸足の足は血まみれときては、誰もが驚かないはずはない。近寄ってくる陽月の肘を、母がしっかりと掴んだ。
「陽月。こっちへいらっしゃい。さぁ……」
掴まれた腕を母の手から無理やり引き抜いた陽月は、皆が骨上げしている所までよろよろと近づいて行った。
「おばあちゃん、どうして待っててくれなかったの。見つけたのに……」
陽月は台に近づいて、灰色に見える小さな骨を手に取った。これが祖母だったなどと認められない。こんな小さな骨片に死に化粧は出来はしない。何も考えられず、ただ骨を見つめた。悔しさが込み上げ、きつく唇をかんだ。
「陽月、口を開けて。唇が切れてる」
母が骨片を持った陽月の手首を握った。それを何かの合図のように、陽月は無意識のままに、祖母の骨を口に運んだ。骨が唇に滲んだ血をかすめとる。誰も止める間もなく、陽月は骨を飲み込んだ。
飲み込んだ骨は、その存在を主張するかのように熱く、喉を通ってもなお熱し続けた。身体の中から燃やされる感覚が陽月を襲った。閉じた瞼の裏は、溶岩を流し込んだかのごとくに紅く、体内は燃えていた。陽月は意識を手放していた。
さっきまで、燃える炎の中を彷徨っていた。空も陸も、まわりの何もかもが燃えている。自分が何処にいて、なぜここを走っているのかさえ分からない。どうしても走らねばならなかった。間にあわせなければならない、どうしても。
『なにに……』
そう呟いた瞬間に、あたりの景色が変わった。燃える空はいつの間にか薄青くどこまでも続いている。地面には匂って来そうなほどに緑の濃い草が一面に生え、ところどころに薄い桃色の花が咲いている。
『驚きだ。人間は、思いも寄らぬ事をしでかす』
低く大きな声が、鼓膜を揺るがした。
『だれ』
陽月が振り返ると、目の前に銀色の壁があった。ツヤツヤと輝く壁には、一面に大きな魚の鱗のような模様がある。ひとつひとつが台所に置いてある包丁よりも大きな刃物、いや、剣のように見える。
そっと手を出して触れた。
『あつっ』
表面は氷みたいに冷たい輝きなのに、触れるとものすごく熱い。
『何なの、この壁。どこまで続いてるのかな? どこかに扉があるとか……』
上を見て、左を見て。そして、今までに見たこともないものを見つけた。犬の様な顔に大きな牙……銀色のうろこに覆われた顔には、長い鼻面の脇にこれぞ主役とばかりに金色の目が、陽月を睨みつけている。
『冗談でしょ。いいえ、そうじゃない、これは夢なのよ。だってそうじゃない、こんな何もない場所に、何だっけ……ほら、映画とか、アニメとかに出てくるじゃない……うーん、タツ? タツノオトシゴ? 海にいるんじゃないの。それとも、ここは夢の中では海なのかな』
金色の目がさらに睨みつけてくる。
『怖くなんかないのよ。夢なんだから』
今度は、目がゆっくりと閉じられた。
『タツノオトシゴ。人間は、何も知らぬくせに、ときに的を射たことを言うものだな。確かに、タツノオトシゴは、竜になれなかった卵が天界から海に流れ出るとき、雄が育児嚢で卵を守り育てる。それは、神から与えられた彼らの使命。だがな、俺はタツノオトシゴではない』
『何言ってんの。じゃあ何よ』
いきなり金色の目が開いて顔が動いた。長い首が持ち上がり胴体が立ち上がった。足先に大きな鉤爪がありそれがガッと開かれると、背中ではなめし革のような翼が大きく開いた。
『竜、とは思わないのか』
圧倒された。ポカンと口を開け、目を見開いたまま空を見上げるように竜を見上げた。
『思うわ。映画で、そうそうハリー〇ッターだったかな。ソックリっていうか、もっと凄い。私、あまりのショックに凄くリアルな夢を見てるのね。おばあちゃん……間に合わなくてごめんね。やっとあの筆を見つけられたのに、私、間に合わなかった……』
どんなにリアルで凄い夢を見ても、やはり祖母の死に化粧をまともにできないばかりか、もっとひどい顔にしたまま送ってしまった後悔と悔しさと申し訳なさで、陽月の胸は痛んだ。
『案ずるな。葉月はその心のまま、美しい姿で死出の旅へ出た』
竜の言葉に、一段と陽月の目が見開いた。
『おばあちゃんを知ってるの。やだ、夢でもそんな嘘……やめて』




