17話
大岩のからひらりと飛び降りた聖流は、陽月のすぐ横へとやってきた。まるで彼女を守ろうとでもするかのように、聖守を睨み付ける。
『お前はどこからその情報を得たんだ。俺の知りようのないことを、なぜお前だけが知っている』
『実月。あれは、女神の欠片でできていた。あの中に入っていれば、女神の思惑も少しずつは見えてくる。私がそれを知っていると女神が気づかなかったことこそが、女神の最大の誤算だ。私は実月の中で力を蓄え、ここへ、聖流、お前のもとへ戻ろうとしていた。女神が気づく前に、陽月が目覚める前に、是が非でも戻りたかった。陽月を守りたいと思っているのは、お前だけではないのだ。陽月は、この世界を守れるだた一人の巫女なのだ。大神が、女神の魔の手から救った命。それが陽月だ』
聖流は、兄を睨んだままで体も一回り大きくなったように感じる怒りをあらわにした。それとは対照的に、聖守は淡々と話し続けている。また、その姿は微動だにせず静かに落ち着いていた。
『聖流。お前と離れている間。私には考える時間と探る時間が余る程にあった。幼き頃に、お前と共に竜神の筆として生きる命を与えられた。私達は大神の子供だ、いつか神となる事は決まっていたが、それは天界に住む他の神々と同じに自由である筈だった。その自由を奪ったのは、紛れもなく大神であり、それは与えられた使命でもある。竜神の筆となったばかりの事は覚えているだろう。あの時もまた、戦いの時代だった。私達は、戦いの中で死者を癒し死出の旅路に向かわせるその使命に……全てをかけた……月花と共に……』
聖流が一歩身を乗り出した。
『その話はしたくない。やめろ』
ゆっくりと上がった聖守の瞳はしっかりと聖流を見つめ返していた。
『いや、やめるわけにはいかない。陽月にとっても大事な事。この話は避けてはいけない』
『陽月には関係ない。そんな遠い昔の話、陽月には関係ない』
聖流が叫んだ途端。聖守が何かにつかまれでもしたかのように首に巻きついた何かを外そうともがいた。
「なにしてるの聖流。あんたでしょう。首を絞めるなんて」
『首を絞めらられたくらいで、俺達は死なない』
「話をさせない為ね。いいわよ。あんたのいないところで聞くから。トカゲ、あんたはいっつも秘密主義。私は何も知らされない。私は私に関係のある事は知らないままで済ませられないのよ」
陽月は、聖流の耳をグイッと引っ張った。
「いたっ」
聖流に触れた指先の痛みと共に、あっという間に、陽月の目の前の景色が変わった。
「なに……またなの。この間も……ああ、聖流は触るなって言ったわね。もしかして、聖流に触ったらどこか別の場所に行っちゃうの……」
そう呟く陽月の前を、昨日の夢に出てきた女性が歩いていく。白い着物は薄汚れ、足元は泥にまみれているにもかかわらず、その手に持つ布の包みは白く輝き美しいままだ。その包みが何なのか、陽月はすぐに気付いた。
「あれは……お祖母ちゃんの筆袋と同じだわ。彼女は竜神の巫女なのね」
彼女のあとを陽月もついていく。山の中を歩き、川を越えた先の林を抜けようとする頃、陽月の鼻に金臭い匂いと、ものが焼ける匂いが漂ってきた。
「くさい……」
陽月は立ち止まったが、巫女は立ち止まりはしなかった。
『月花、近いぞ。気をつけろ』
何処からともなく声が響く。
「聖守……の声だわ……」
月花は筆袋をぎゅっと握りしめた。
「大丈夫よ聖守。これまでと同じようにできるから。聖流の力が失くても、あなたがいるのだから。きっと上手くいくわ」
彼女が立ち止まって筆袋を開けると、白い柄の紅筆が出てきた。あれは聖守、竜神の声の筆だと陽月は思った。月花はもう一本筆を出す。柄の黒い銀の毛並みの筆は聖流だろう。だが、その柄は真っ二つに折れていた。
大事そうに、折れた竜神の筆を持ち、頬に寄せる。
「聖流、かわいそうに。筆職人を早く見つけるわ。きっと直してくれる」
『月花、聖流を治せる筆職人などいない。あいつは、自らその身を壊した。愚か者だ。私達は、お前を守らねばならないのに、その使命に耐えられなかった聖流の心が、壊れたんだ。職人には直す事は出来ない』
「いいえ、身体が直れば……きっと心も戻る。私は、聖流を信じているの。あなただって、本当は信じているくせに。私よりも強く信じているのでしょう聖守。あなたが、聖流を愛している事はよく分かっているわ。私も、あなた達二人をとても大切に思っているもの」
『月花……私も信じたい。だが、もう聖流は戻らないかもしれないのだ。だとしたら、決して無理はしないでほしい。私の力だけではお前を守りきれないだろうから。約束してほしい、決して無理はしないと』
竜神の声の筆を胸に抱き寄せ、月花は大きく頷いた。
「ええ、約束する。無理はしないわ」
歩き始めた月花の目の前に開けた土地が現れた。そこには、陽月がこれまで見た事も、想像した事もない光景が広がっていた。
「戦場……いや、戦いは終わったのね」
広い草原は焼け野原と化していた。あちらこちらに転がっているのは紛れもなく兵士達の亡骸。おびただしい血の色と、焼けあとでくすぶる煙と肉の焼ける匂いが、陽月の目を自然と瞑らせていた。
見ていられない。こんな光景は人の見るものではない。あってはならない光景だ。人が虫けらか何かの様に殺され転がされているなんて。
がさっと音がして、陽月は目を開けた。月花が前へと進んでいく。袈裟がけに切られた血みどろの遺体の傍らに座ると、月花は竜神の声の筆をさっと振る。すると痛みと屈辱に歪んでいた遺体の表情がみるみる穏やかになっていった。月花の眉がピクリと動いたが、何事もなかったかのように次の遺体へと移動していく。
何度同じように遺体と向き合っただろうか、月花が筆を振ったあとは遺体は穏やかな表情になるが、それを行う月花の表情に変化が現れた。唇をきつくい結び、眉根を寄せ、まるで痛みや苦しみに耐えるように肩を震わせている。
月花がゆらりと戦場から少し離れた草地へ向かおうとしたとき、うめく声を聞いた。
「誰かいるのですか……」
振り返った月花の斜め後ろで、横たわった遺体が音を立てた。遺体ではない、まだ息がある者が残っていたのだ。月花はその兵士に駆け寄った。
「大丈夫。助けてあげる。大丈夫よ」
月花が兵士に触れようとした瞬間、体が小さく痙攣を起こした。
『月花、生きている人間には何もするな。今は何もできない。聖流が戻っていないのだから』
「とめないで、聖守。生きているからこそ、救わねばならない」
ぶるぶると震える手を、月花は兵士の傷を負った腹に当てた。
「大丈夫、大丈夫よ」
『月花、やめろ』
月花は聖守の制止を無視して、竜神の声の筆を握りしめている反対の手を、兵士の腹に押し当て続けた。兵士の腹はばっさりと切られ、内臓が見えている。
泥にまみれた兵士の顔が月花を見上げた。
「神か、仏か……俺は死ぬのだな……」
「いいえ、生きるのよ」
兵士の腹の傷が癒えていく。傷がふさがりうっすらと淡い色の皮膚が覆う。それを横で見ていた陽月の前に、突然月花が倒れこんだ。口から血を流している。陽月は月花を助けようと思わず手を出したが、陽月の手は月花の体をすり抜けてしまう。
『月花、無理はするなとあれほど……』
聖守の声が悲しく響いた。
「なによ。私には何もできないっていうの」
この世界に存在しない陽月には、何もできることはなかった。ただ、見ているだけなのだ。これは、聖守たちの生きていた遠い昔の記憶。
その時、月花に癒された兵士が起き上がった。まだ傷が痛むのか、腹を押さえながら顔をゆがめたが、その手はすぐに月花の体を抱き起した。
「大丈夫ですか。どうしたのです、しっかりしてください」
月花が瞳を開いた。その瞳はしっかりと兵士の顔をとらえている。
「大丈夫、少し休めば……また動けるから……」
食い入るように月花を見つめる兵士が思いのほか若いことに陽月は気づいた。兵士は大事なものを守るかのごとく月花を抱きしめている。
「美しい神よ。ゆっくり休んでください。俺がそのあいだずっとあなたを守るから。俺を救ってくれたんだ。ずっとこうしていますから」
兵士の瞳から涙が零れ落ちて月花の首筋に流れ落ちた。月花の指先が兵士のほほを撫でた。
「泣かないでください。あなたが泣くことなどないのです。私は神様ではないわ」
「神でなくとも、神に等しい。ありがとうございます」
兵士は自分の太腿の上に月花を引き上げ、そのまま包み込むように抱きしめた。
その光景を最後に、陽月の目の前がまた真っ暗になった。




