15話
通夜の行われるホールの外にあるソファーの端に、老人を殺した女が座っている。ただ一人、うつむいて自分の手を見つめ続けている。
「彼女、だいじょうぶかしら。少し休ませてあげた方がよくない」
「そっとしておいた方がいいわ。あれだけ頑張って面倒を看てきたんだから、ほっとして気が抜けたのよ。文句ひとつ言わず介護してるのは何度も見たもの」
親族だろうか、女と同じ年代の女性たちがひそひそと話している。どれほど近しい関係なのだろうか。彼女たちも、誰ひとりソファーに座る女の心の中を覗いた事などないのだろう。ただひたすらに耐えてきた、そんな表面の装いの顔しか知らない。日々溜まった心の沈殿物が底でどろどろと腐って、自分自身ではどうにもできないものに変化しても、誰も気づいてはくれなかった。いや、誰も救ってはくれなかった。女がやってしまった事は、許される事ではない。だが、避けられなかった事でもないのだ。でも、誰も自分の生活や家族や時間を犠牲にしてまで、誰かの代わりになろうとはしない。気付かないふりを通していればいいのだから。
陽月はソファーの端に座る女の横に腰かけた。
「このたびは……残念なことでした」
女は顔をあげると驚きに目と口を大きく開いた。
「あ……あんた……どうして」
「本日はお父様のご遺体に化粧をしに参りました。うちの祖母の仕事でしたが、先日他界いたしましたので、私が跡を継ぐ事となりました。ご主人にご依頼を受け、今、終えたところです」
「あ……いやだわ、化粧品を売ってる人が、死体に化粧するの。私、あんたにしてもらわなくて良かったわよ。気味悪いわよ」
陽月は表情を崩すことなく、真っ直ぐに女を凝視した。
「そうなのかもしれません。祖母の跡を継ぐと言う事は、これまでの仕事は続けて行けないのかもしれないですね。私は美容部員である前に、竜神の巫女であるのです。そして、お父様の最期の声は聞かせて頂きました。最期の時も見たんです。あなたが何をされたか」
女の顔が蒼白に変わる。唇をぶるぶるとふるわせ、今にも後ろに倒れそうなほど仰け反った。ソファーの背もたれがなければ倒れていただろう。
「知らないわ。私は知らない。おじいちゃんは、食事の後、誰も知らないうちに息を引き取ったの。ご飯が喉に詰まったらしいけど……でも、いつもよく食事中に寝てしまうから、いつものそれだと思った。そうよ、知らないの。知らないのよ」
大きく息をつきながら一気にまくし立てる。
「いいえ、知っているわ。誰も知らなくても、あなたは知っているし、お父様の魂は知っている」
「家で亡くなったから、警察も医者も来たのよ。みんな、私の言うとおりだったのだろうって言ってくれたわ。そうよ、本当の事だもの。言いがかりをつけるのやめて。何のつもり。何の証拠もないのよ」
陽月は女の頬に指を触れた。
「お父様の最期の声を聞かせましょう」
女の頭に、義父の声が響く、最期に言葉らしいものを聞いたのはいつだったか、頭のはっきりしていた頃の義父の声。
『ばあさんのところへ、おくってください。竜神さま……ありがとうございます。みなが幸せでありますように、お願いします』
「お父様の魂は、必死に自分の介護を一人でしてくれている息子の嫁の苦悩を分かっていた。重たい荷物を嫁の細い肩が全て担いでいると知っていた。あなたに命を奪われる事もよしした。あなたに感謝していた。あなた達の幸せを願っていた」
女の体がガクガクと震え、目には驚愕が浮かんだ。
「あなたは、己のしたことを背負わねばならない」
竜神の筆が女の唇に向かい始めた。
『やめろ。そこまでだ』
何時そこに現れたのか、うつろな瞳の実月が陽月の横に立っている。
『聖守、何しに来た』
陽月の手首を、実月が握っていた。その瞳は宙を見ている。
『この女から、女神の匂いがするだろう。分からないのか聖流。企んだのは、女神だ。この女の怒りや憎悪の感情につけ込んだ。だから、この女に意趣返しはいけない』
『女神。なぜ今になって出しゃばってくる』
『そんなことにこだわっている場合ではない。この女は解放しろ』
「ちょっと、二人で話し進めないでよ。分かったわ聖守、この人が命を奪った死者の苦しみをそのまま与えることはしない。でも、何もしないで解放なんてしないわよ。犯した罪は罪。自分自身が背負わねばならないことよ」
実月の手が陽月の手首を放した。
『どのように、陽月。聖流の力、いや竜神の筆を使わず、どうやって罪を償わせる』
『やめろ、聖守。陽月を惑わすな。俺を使わず、罪を償わせるなど陽月に負担がかかり過ぎる。彼女はやり方すら知らない』
「やめってって言ってるでしょう、聖流」
陽月が聖流の名を呼んだ瞬間には、竜神の筆は聖流自身の姿にかわって陽月の横に立っていた。
『名を呼ぶな、陽月』
「そんなの聞いてない。だいたい、あんたの姿なんて誰にも見えないんでしょう」
『いや』
そう言って聖流が女を指差した。陽月の横でソファーに座っていた女は、大きく口を開いて聖流を見つめている。自然に女の手が合わさって拝み始めた。
「お助け下さい。神様が本当にいるなんて、お許しください」
ただ、女以外には何も見えていないのか、辺りは先ほどと何も様子は変わっていない。聖流の姿は、女以外には見えていないのだろう。
陽月は女の合わせた手に自分の手を重ねた。
「奥さん、竜神が見えるなら、それはあなたに自分の罪を悔いる心があるからだわ。あなたは、日頃から背負いきれない荷物をたった一人で背負ってきた。耐えられなかった心が、お父様を排除することでしか自分は救われないのだと、あなたに思わせた。でも、これまで耐えてきたのも、耐えきれずに罪を犯したのも、あなた自身の心です。この罪は、あなた一人がで負わねばならないとは思わない。それでも、あなたが罪を悔いる気持ちを持っている事が、とても大切だと思います。お父様は、家族の幸せを願って旅立たれた。その魂に報いましょう」
陽月の掌から柔らかな光が溢れ、女の手に吸いこまれていく。女が聖流を見つめる瞳から涙がこぼれた。それはとどまることなく流れ続け、黒い喪服がそれを吸い取っていった。
『聖流、感じるか。女神の匂いが消えて行く。陽月は、私が想像していたよりも強い力を持っているのか』
女がその場に崩れ落ちた。体をぶるぶるとふるわせ、泣く声には悲しみと苦しみが滲み出る。己の犯した罪を、女はいま初めて悟ったのだ。その様子に周りにいた人たちが気づき始め集まってくる。
「大丈夫。どうしたの、あなた疲れてるのね。あっちにいって休みましょう。ほら」
女は差し出された手をつかむことなく、自身の力で立ち上がった。
「警察を……呼んで……おじいちゃんを殺したのは私なの……」
「おい」
いつの間にいたのか、女の亭主がその腕をつかんだ。
「何を血迷ってるんだ。ちょっと休め。休まなきゃ駄目だ」
女の腕を引き、肩に手をまわして連れて行こうとしている。
「手を放してちょうだい。どうして今なの、私が休みたいときに、あなたは休めとは言ってくれなかった。どうして今言うの。こんな大それたことをしてしまった今になって、どうして休めなんて言えるのよ」
女の叫び声は広いホールに響き渡った。周りがざわつき、皆の視線が喪主夫妻に集まる。小声でひそひそと話される内容は、陽月の耳にも届いてくる。何かしなくてはいけないだろうか。この結果は、陽月が導いたものだ。
『お前はするべきことをした。意趣返しではなく、女に己の心を返してやった。これからあとは、この女が背負うべきこと。この亭主とともにな』
『背負っていく罪は大きくとも、己の罪を知りその重さを感じることでこそ償いが成される。償う心がなければ女は浄化されることは叶わん。陽月、この件に関してお前のできることは何もない』
「聖流、あんた神様だって割にそれほど慈悲深くないのね。なかった事にしてあげる魔法か何か使えないの」
聖流の冷やかな視線が陽月を見つめる。
『それがお前の望みではあるまい。お前があの女にした事は、罪を罪として感じる心を戻す行為。女神の呪縛を解いたのだ。何もなかった事になど出来る筈もない』
実月の口を借りたままの聖守が言った。実月に目を向けた聖流の瞳はより一層冷やかになっていく。
『聖守、お前には陽月の望みが分かっているとでも言うのか。いいや、分かってないな。陽月は、俺に嫌味を言っているだけだ。女神の呪縛を解き、女自身に罪を償わせるその意味を知らぬまま、陽月はあんな事をするわけがない。こいつは、始終、俺に嫌味を言うやつなんだ』
聖流の顔を睨みあげてから、陽月は顎をくいっと出口へ向けた。
「帰るわよ、トカゲ。聖守もついてきて。女神がどうのこうのって話。私が聞かないまま終わらせるなんて思わないことね。私の様な巫女の本来の仕事についても、聞かせて貰おうじゃないの。御兄弟」




