14話
多少の残酷なシーンがあります。
葬儀ホールに入って直ぐにスタッフに声をかけ、遺体の支度を済ませる部屋へ向かった。部屋に入ると、湯管を済ませ死装束を着せ終わったご遺体が寝台の上で待っていた。亡くなったのは男性の老人の様だ。
女性とは違って男性の場合は亡くなった後でも多少ヒゲが伸びる為、それも整えねばならないが、既にヒゲはあたってある。きっと陽月の母親が済ませたのだろう。祖母の手伝いを長年やってきただけに、化粧以外の部分では母はベテランだ。ご遺体の横に、髪を整えている母の姿を見つけた。
「陽月。そちらの部屋に着替えを置いてあるわ。早くしてね」
そっと頭を下げてた。
「このたびは……」
はっきりとは言ってはいけない不幸時の挨拶を遺族にすると、奥の部屋に移動して置いてある巫女の衣装へと着替えを済ませる。かばんの中のケースを取り出し、竜神の筆を握った。
「男の人でも紅を塗るの」
『ああ、本来の死に化粧ならばほんの少し赤みが差す程度にな。だがな、これから行うのは化粧ではない。魂の浄化、亡くなった者への鎮魂の儀式だ。化粧をすると考えてはいけない。今日、お前は聖守の導きを得たのだろう。お前の心が持っている癒しの輝きを使うんだ。そっと筆を使え、俺が死者の苦しみ、憎しみ、悲しみ、痛みを吸い取る。だが、癒すのはお前だ』
「わかった。自分の心を信じる。トカゲ一緒にいてよ」
『ああ、お前に握られていては何処にも行けん。それでは始めよう』
意を決して、陽月は死者の待つ部屋へと進んでいった。ご遺体の周りにいるスタッフ、陽月の母親、それに息子だろうか年配の男性がたたずんでいる方へ小さく頭を下げた。
「それでは、仕上げをさせていただきますので、皆さま、少しお下がりください」
初めての体験である。誰であろうとあまり近くで見つめられていては必要以上に緊張してしまうし、本当の化粧をしていない事を悟られてしまう。娘の緊張を察してか、母親が皆を部屋の端へと誘導して行く。自分もそこにとどまった。そうだったと思い起こす。祖母が死に化粧を施す時も、誰も近寄ってはならないと決まっていた。その意味が今夜はっきりした。
「竜神の祈りを持って、死出の化粧を施します」
魂の抜けた器をじっと見つめる。この老人は幸せな人生を送っただろうか。亡くなる時は辛かっただろうか、痛かっただろうか。誰かに憎まれ、誰かを憎んでいたのだろうか。硬く強張った顔からは、今はまだ何も分からない。触れれば、何かを感じるのだろうか。
陽月は竜神の筆にほんの少しだけ紅をつけ、老人の唇に置いた。実際に化粧を施すのは唇だけだと、さっき聖流に聞いていた。その唇から寄せられる思い、言葉を聞くのだ。
そっと紅をはき、丁寧にのばしていく。
その時、死者の口の中から音が漏れてきた。他の誰にも聞こえない死者の最後の声、思い。話し声の様だが、老人の者ではないだろう、女性のものだ。
「さあ、おじいちゃんご飯の時間ですよ」声と共に、陽月の瞼の裏に映像が浮かんでくる。あろうことか、昨日と今朝モールに訪れた女性客だ。介護の苦労、旦那や家族の態度に憤っていた、彼女の義父だったのだ。
彼女が手にしている器には、白いご飯が盛られている。だが、どう見ても身動きが出来ない寝たきりの老人が食す物にはみえない、モチモチと粘りけのある喉の通りの悪そうな代物。彼女は老人の口を無理やり開かせると、その物体を大量に押し込んだ。
「さ、おじいちゃん飲みこんで。ほら、おいしいでしょう」
無表情で、目を見開き二杯目を詰め込む。大量に放り込まれたモチモチのご飯が喉を通る筈もなく、案の定老人は喉を詰まらせあえいでいる。女はその老人のあえぎを無視して、濡れたタオルで口を押さえた。
「口を綺麗にしましょうね。たくさん食べたからね。いつも綺麗にしておかないと、みんなに嫌われてしまうわ」
ゴッゴッとむせる老人にお構いなく、女は口を押さえ続けた。動く事も、ましてや相手を突き飛ばす事もかなわない老人は、小さな抵抗もむなしくあっけなくこと切れた。
「さあ、綺麗になったわ。それじゃあ私は片づけをしてきますね。おじいちゃんは寝ててちょうだい。いつものようにね」
女は部屋を出て台所に向かい、使った食器を食洗器の横で丁寧に洗い始めた。まるで洗う事を楽しんででもいるように口元に笑みがこぼれる。鼻歌交じりに仕事を終えてやっと、食洗器の中に洗った食器をわざわざ入れた。
ふーっと大きく息をつくとタオルで手を綺麗に拭いた。なにもかも満足したような、安堵したような穏やかな表情をしている。まるで、重い荷物を下ろしたかのように。台所の窓から夕陽がさしていた。
陽月は知ってしまった。この死者に与えられた苦痛の中での死にざまを。これを見て見ぬふりは出来ない。そっと竜神の筆を遺体の唇から離した。
その時なって、自分の手の中にある筆の先が、真っ赤に染まっている事に気付いた。そして、筆がドクンドクンと脈動している。
「なに……」
『しゃべるな陽月。死者の全ての負の感情と、病魔による痛みを吸い取った。あとは、お前が癒してくれ。俺を癒してくれ』
陽月は、竜神の筆をそっと胸に抱いた。己の中にある癒しの輝きを信じ、聖流を信じた。手の中で筆が熱くなり震える。自分の中で竜神の筆が、いや、聖流が癒されていくのを想像しようとした時、陽月には何かが感じられた。
この死者の悲しみ苦しみが感じられたのだ。息を引き取ったのち、老人は息子の嫁に殺される事を良しと考えた。ずっと辛い思いをさせてきたと、老人の魂は知っていた。もうこの世に思いを残すものはない。子や孫や、まして毎日の世話を一人でしてくれる嫁に、これ以上の苦痛の重荷を背負わせたくはなかった。生きている自分は、頭もはっきりせず、動く事も出来ず、誰の苦労も憎しみも分からなかった。だが、魂は全てを知っていたのだ。
『ばあさんのところへ、おくってください。竜神さま……ありがとうございます。みなが幸せでありますように、お願いします』
その言葉を陽月は心に刻み、筆に残した。もう分かっている。自分の真の使命がなんであるかに、陽月は気付いたのだ。祖母には出来なかった事だろう。知る事もなかったのかもしれない。だが、陽月は今、聖流と心で繋がった。全てを理解した。
「終わりました。お待たせいたしました」
陽月は竜神の筆を握ったまま、遺体の顔を見た。まるで生きている様に顔に赤みがさし、艶と張りのある肌は若々しい。うまくいったのだ。
「こちらこそ、ありがとうございました、巫女様。やはりお願いしてよかった。父は亡くなった時には、とても苦しんだ様に顔をゆがめていましたから、せめて皆に最後に会う時には綺麗にしてやりたかった」
「そうですか、お力になれたなら良かったです」
「ありがとうございました」
男性は、陽月に封筒を手渡した。
「少ないですが、お礼に」
「お心遣い恐れ入ります。ですがご主人、お父様がご生前のうちに、今の様にお父様を思って差し上げられたなら、きっとこの後も皆さまお幸せだったでしょうに。残念でなりません、失礼いたします」
「何を……いったい……」
「竜神は、全てを見通す目を持っています。あなたがした事、しなかった事、全ては明らかなのですよ」
男は口を閉ざして、陽月が抱える竜神にの筆を凝視した。
唇が細かく震える。恐れるがいい。この息子は、実の父親の介護を自分の嫁だけに押し付けて顧みる事もなかっただろう。この結果に十分過ぎる責任がある。
これから、もう一人に会わねばならない。どんなに辛くとも、してはならぬ事がある。自分にこれからの仕事はできるのだろうか。祖母がしてきた仕事とは、違っている。もっと過酷かもしれない。でも、聖流や実月と共にある聖守の話から、自分にはなぜかやり通す力があるように思える。
その先にあるものが何なのか、全く分かっていなかったとしても。




