12話
店頭の清掃を終え、そろそろ開店の時間だ。いつものように売り場の前に立つ。仰々しくならない様に、それでも誠意が伝わる事を願って、開店と同時に入ってくるお客様に頭を下げる。
「いらっしゃいませ」
色々な人が前を通り過ぎる。お年寄りが多いのは最近では当たり前だ。夏は涼しく、冬は暖かい、快適な環境を提供してくれて、見ているだけでも楽しめて、所々に休憩できる無料のスペースが設けてあるのだから、年配者が散歩のルートに入れるのは間違いない。
「ちょっと……」
声を掛けられて陽月は振り返った。そこに立っているのは、昨日のお客だ。内心、ため息をつきたかったが、満開の笑顔を張り付けた。
「いらっしゃいませ。いらして下さったんですね」
手を椅子に向けてどうぞと無言で合図した。客は動く気配がない。
「どうぞ、お掛けになりませんか。どうぞ」
トラブルのあった客との関係を回復させておく事も重要な事だ。今度はさっきよりも抑え気味の笑顔を張り付けて椅子をすすめる。客はしぶしぶという様に腰を下ろした。
「あのね、昨日は悪いことしたって思ってるのよ。でも……でも、本当は私が悪いわけじゃないのよ……最近、神経が休まる時がなくて、昨日あんたが休んでいきなさいって言ってくれて……嬉しかったのよ、本当よ。だけど、旦那が電話ですぐに帰って来いなんて。あの忌々しいじいさんの為に、なんで私が……お前の父親だろうってのよ。何にもしないで私にばっかり押し付けて、一回くらいおむつを替えることがどうしてできないの。私は毎日毎日来る日も来る日も、あのじいさんの下の世話に追われてるのよ。買い物ぐらい、買い物ぐらい……でも、やっとこれで……」
ながながと不服を言い募ってから、客は口元を押さえた。押さえた指先が震えている。きっと、介護の日々に疲れ切っているのだろう。でも誰にも言えず、誰にも代わってはもらえなくて、積もり積もったストレスは怒りに変わった。
「あの、よろしければ、今からお化粧直ししましょうか。きっと気分が晴れますよ」
顔を上げた客はほんの少し嬉しそうに微笑んだ。
「今日はいいわ。これから凄く忙しいの。ただね、昨日のこと謝っておきたかったって言うか、忘れてほしいのよ。私が怒ってったってこと、忘れて。お願いね」
不審げな顔にならないように気を付けて、陽月は頷いた。
「お客様がそうおっしゃるなら、私はもう覚えてはいませんよ。またお時間があったらお越しください。いつでもお待ちしていますから」
客は陽月の返事に安堵したように首を縦に振って立ち上がった。その時客が、陽月がカウンターに置いていた手に自分の手を重ねた。
「お願いね。ありがと」
客の目を見つめながら、重ねられた客の手から伝わってくる禍々しいものを感じていた。昨日よりも一層強くなっているそれに、手を引き抜きたい衝動に駆られるが、ぴたりとくっついた手は抜けなかった。
どんどん自分の中に入り込んでくる負の感情が陽月を飲み込んでいく。憎い、苦しい、死んでしまえ、どす黒い感情は留まることを知らないようだ。陽月はせめて客の目の中を見ないで済むように目を閉じかけた。
『娘よ、心を閉ざすな。お前の中にある癒しの扉を解き放て。呑み込まれるな。おのれを信じろ、己の中を見つめなおせ。大丈夫、私がついている』
清流を思わせる声が陽月の頭の中に響いた。この声は……竜神の声の筆……。
『そう、恐れるな。解き放たねば呑み込まれる。大丈夫、私が導いてやろう』
今、聖流はいない。この状況を回避できる術を知っているとしたら、竜神の声の筆だけだ。
『陽月、おのれの中を見ろ。捜せ』
陽月は言われるままに己の心の中へと目を向ける。何が見えるのだろう。どんどん暗くなる辺りとは違う白く透き通った輝きが底の方に見える。あれはなんだろう、とても綺麗で心が温かくなる。いやし、そう癒しの光だと思った。ここは、本当に自分の心の中なのだろうか、あんなにも美しく穏やかなものが自分の中にあるのだろうか。
『そうだ陽月。あの光を己のものにしろ。思い出せ、お前にはあの光を使う力があるのだから』
陽月はその光に向けてどんどん自分の意識を伸ばしていった。あとを追いかけてくる禍々しいものから逃れて光に手を伸ばす。
温かい。この温もりをあの人にも渡してあげたい。
そう思った瞬間には、後を追っていたはずの禍々しいものは影も形もなくなっていた。そっと目を開けた陽月のすぐ横に、視線の定まらない実月が立っている。客の姿はない。
『行かなくては、お前の竜神が近づいている』
実月は素早くその場を離れて行った。いや、実月ではない、あれは聖守だ、竜神の声の筆。その後姿見つめていると、父が化粧品コーナーに入ってくるのが見えた。父は実月の姿に気付いたのか、気づいていないのか、真っ直ぐに娘の元にやってきた。それもあまりに滑稽な格好でだ。父は、竜神の筆を両手で掲げながらやって来たのだ。
「お父さん、何しに来たの。そんな恰好で……もしかして、それ、持ってきたの」
父は真剣な顔で頷いて筆を陽月に仰々しく渡した。その瞬間に、はっと目を見開いた父は、自分が何処にいるのか分かっていない様子できょろきょろと辺りを見回した。
「いや、どうしたのかな。いやはや……お前が、それを忘れて行ったから。なんだ、そのう、持って行ってやらねばとな……」
父は間違いなく竜神に操られてここまで来たのだ。どうして、そこまでして竜神の筆は陽月の元へやって来たのか。聖流に問いたださねばわからない。
「ありがとう、お父さん。仕事の途中でしょう。ごめんね」
陽月は筆をそっと握って微笑んだ。
「いやいや、今日はそれほど忙しくは無いから大丈夫だよ。じゃあ、父さんは帰るから」
そう言って、父親はそそくさと化粧品コーナーを後にした。
「ちょっと、あんた何で父さんまで使って此処に来たのよ。ゆっくり休んでればいいじゃない」
他メーカーの先輩がぬっと顔を出した。
「速水さん、何か言った」
不思議そうに眉をひそめた先輩は、しげしげと陽月を見つめた。
「先輩、お客様ですよ」
コーナーの端っこに現れた客を指さすと、彼女はすぐにそちらに向かった。これで邪魔される事もない。
『人のいるところでは気をつけろ、変人扱いを受けるぞ、陽月』
「そんな事は分かってる。そうじゃなくて、さっきの質問に答えなさいよ」
『昨日のあの女は、あのままで終わりそうにはなかった。あの女が今一度お前に近付いた時、俺がいなければ危ないだろう。それよりも、聖守は何をしていた。あれは実月ではない、聖守だった。お前に何をした』
「何って、昨日のお客さんが来てたのよ。それで、私の手に触れて……昨日よりも恐ろしかった。でもね、その時に聖守が教えてくれたの。私の中にある癒しの力を見つけろって。それで……見つけたわ……でも、手に入れったって思った時には……お客さんがいなくなっていた。帰っちゃったのかな」
『聖守が……』
「ねえ、まさか私、お客さんを消しちゃったとか。そんな超能力みたいなものを持ってるとか……じゃないよね」
『愚かな。そんな怪しい力をお前が持っているはずもない。ただ……癒しの力をお前が手にした途端にいなくなると言うのは腑に落ちんな。それに、聖守。あいつの魂胆は何だ』
「私が知る訳ないじゃない。でも、聖守は優しかったよ。まるで、小さい頃の聖守みたいに、優しかった」
『なぜお前が、幼い頃の聖守を知っている。知る筈がないだろう』
「夢で見たもの。あんたの小さい時も。可愛かったのにね、小さい時は」
『……ばかな……』




