11話
自室のベッドに腰掛けて、大きくため息をついた。今日起こった出来事をもう一度振り返ってみても、自分では解決など出来ないことは分かっているが、今の聖流を問い詰めて聞き出すなど考えられない。彼は、陽月の身に起きた事を肩代わりしたようにしか見えないのだから。
あの客は、メイク直しに承諾したにもかかわらず、いきなり怒りだして陽月の手を強く握った。自分は何かまずい事をしただろうか、いや、何もしていない。ただ、あの客は携帯の着信に出た後から機嫌が悪くなった。でも、そんな事は特に珍しいことではない。ショッピングモールの化粧品コーナーなどにいれば、接客の相手はおのずと普通の家庭の主婦が多くなってくる。主婦が長い時間家を空けると、それが気に入らない者が家で待っているということなどざらだ。仕事が休みの夫、定年退職後の夫、夫の両親などなど。放っておいてあげなよ、と言いたくなる事はしばしばだ。だから、あの客も今日に始まった事では無かろうに、何故か急に帰ると言って激しい怒りにかられたようだ。あの時、握られた手首からどろどろと冷たい何かが陽月の中に入ってきた。自分の手首から、とても嫌なもの禍々しいものがどんどん体内を浸食して行く感覚があった。聖流が肩代わりしてくれなかったら、陽月の手首はいまだに焦げていたかもしれない。冷たいのに焦げたのだ。ふと、竜神の筆に初めて触れた時の事を思い出した。嫌な感じではなかったが、冷たそうな見た目の輝きとは反対に、持った手は燃えるように熱かった。
でも、同じではないのはわかる。竜神の筆の熱と、今日の焦げる様な熱は種類の違うものだ。あれは、怒り、不満、憎しみ、そんな負の感情だと陽月にでも分かった。
生きている人間の感情は恐ろしい。
夜中も陽月は何度も目覚めそうになったが、その度に枕の上に乗っているはずの頭がぐらぐらと揺れる様な感覚にとらわれ、そのまま眠りに落ちてしまった。その眠りは深く、聖流の事が気になっているにもかかわらず、起き上がる事はおろか、目を開けてさえいられなかった。ただ、部屋の中は心地よい水で満たされているような、夢の中で混ざり合った彼女とともに沈んだ母体の羊水に浸っているのだと思える感覚だけだった。
カーテンをまた引き忘れたらしい。朝日が昇ると同時にまぶしさに目覚めた。その方が良かったかもしれない、きっとこれほど早くには起きる事が出来なかっただろう。父親が祠の掃除に向かうまでに、自分が祠に着いていたかった。聖流は回復しているだろうか。
椅子の背に掛けたジャージの上着をはおって陽月は家を出た。まっすぐに祠に向かう。家の外に出てからも、境内も、祠へと向かう林の中も静まり返っている。今朝は特に温かい気がするのに、早起きの動物たちの動き回る音さえ聞こえてこない。不自然なほどの静けさなのにもかかわらず、陽月の気持ちは穏やかになっていく。
「おはよう」
そっと小さな声で言った。祠の中を凝視すると、暗い奥の方に小さな竜が横たわっているのが見えた。差し込む朝日に銀色のうろこがキラキラと輝いた。大丈夫、回復している。陽月は胸をなでおろした。でも、今日はこのままここに置いていこう。仕事に使うわけではないのだから、竜神の筆を持ち歩かなくてもいい。今日一日ここにいれば、もっと良くなっているだろう。陽月はそのまま静かにその場を離れ自宅に戻った。
朝食を食べて、仕事に出る前にもう一度だけ聖流の様子を見に行った。この時間なら、いつもの電車に乗るのにぴったりだ。小さな竜は身体を丸めて休んでいる姿を見たら安心して仕事に迎える。
境内を抜けて階段を下りて行く陽月を父が見つめていた。最近は行かなくなった裏手の祠へ行って戻ってきたのはどうしたことか。父は娘を気に掛ける気持ちから、掃除以外で初めて祠へと向かった。実は、住職ともあろうものが今朝は寝坊してしまったのだ。祠の清掃も終わっていないのだから、娘の行動を探っているのではないと、父は自分に言い聞かせた。
ほうきで小道を掃き清めながら祠の前までやってきた。そっと中を覗き込む。
「ん、竜神の筆……なぜ、こんなところに」
置いたのは陽月に間違いはないだろうが、いくら竜神の祠であっても、ここに筆を置きっぱなしにするのは気が引ける。何といっても竜神さまなのだから。住職は恐る恐る手を伸ばして筆をとろうと触れた。
その瞬間、なぜかこの竜神の筆を陽月に届けねばならないと、強く感じた。なぜそう思うのか、彼には分からなかったが、それでも絶対に娘に届けねばと、それだけを思った。
「まだ電車の時間に間に合うかな」
住職は仕事着の作務衣のまま自家用車に乗った。急がねばならない。
陽月はいつものようにいつもの電車に乗り、今はショッピングモールへと急ぎ足で歩いていた。その陽月の肩をポンっと叩いたのは、一緒の売り場で働く他のメーカーの先輩だった。
「速水さん、具合はどう。無理しなくても大丈夫だったのに。あなたが休んだりしても大丈夫なように、私が早番で入ったのよ。今日は残業覚悟だったのに」
陽月が休めば自分のメーカーの売り上げを伸ばせる、そんな下心が薄く見える。だからと言って、この先輩が悪い人なわけではないし、心配してくれているのは本当だろう。
「昨日はご迷惑かけてすみませんでした」
陽月が頭を下げると、先輩は片手と首を一緒に振った。
「あなたのせいじゃないわよ。あのお客さん、何か変だったし。これでも、あなたの動向は気になるもんでね、私、あの時もしっかり見てたのよ。速水さんはおかしな事はしなかった。あのお客さんが、何て言ったらいいのかなあ、急に変になった。ん、変わったって言った方がいいのかな。とにかく、速水さんのせいじゃないわよ。で、手首どう」
陽月は先輩に手首を見せるとニコッと笑った。
「ありがとうございます。そう言ってもらえると気が楽になります。手首も大したことなかったみたいで、もうすっかり痕も残ってません。それほど酷い事はされてませんしね。私がびっくりして大袈裟に騒いでしまったんだって思ってます」
「もういいじゃない。いろんな人がいるわ、気にしないの。今日も頑張りましょう。お互いに、ね」
「はい」
やはり同じ業界で苦労している先輩だ。理解してくれていると安堵した。生きた人間の感情は恐ろしいと、昨日は思ったが、人の感情に助けられる事も多いのだと、改めて思える。
「ありがとうございます」
二人はショッピングモールの裏口へと入っていった。今日も仕事が待っている。




