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死に化粧屋  作者: 海来
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1話

 春はまだ遠い。上気した頬に当たる風もまだこんなに冷たい。それでも陽月は速度を緩めることなく走り続けた。高校の陸上部を引退してからすでに3年が過ぎたが、その間一度だってこんなに走った記憶はない。鈍った筋肉が悲鳴を上げても、目的の場所に辿り着いて祖母の顔を見るまでは止まるつもりはなかった。陽月を待っているのは、もう二度と微笑むことも息をすることもない祖母の遺体だ。

 葬儀を終えた祖母の遺体は、火葬場でその身を焼かれる順番を待っているはずなのだ。待っていてほしい、自分が到着するまでは、その体を焼かれることは許されないのだと、陽月は信じていた。いや、懇願していると言ったほうが正しいだろう。

 陽月の祖母が体調を崩し入院したのは、ほんの1週間前のことだ。医師の説明では、祖母の体は実年齢よりもはるかに老化が進んでいるのだといった。祖母の年齢は68歳だったが、身体は90を超えている、こんな症例は見たことがない、直ぐに命に関わる訳ではないが、入院して精密検査を行い今後の治療を考えていくといった矢先、祖母は眠るように息を引き取った。

 たくさんのことを教えてほしいと思っていた。祖母は、陽月にとって目標であり、憧れ、かけがえのない存在だったのだ。陽月の家は、記録が残っているよりもずっと前から寺を守ってきた一家だ。

 速水家は女系家族で、代々娘が僧侶を婿にとり、娘は亡くなられたご遺体に死化粧を施す仕事のみを行ってきた。葬儀社などや、場合によっては看護士によって施される死に化粧とは一線を画し、祖母のそれは死者を鮮やかに彩りまるで生きているかのごとく見せた。その技は古来より秘密とされ、継承者にのみ受け継がれてきたのだが、陽月の祖母は、娘を産むことはなかった。陽月の父の男子ひとりのみ。祖母の技は、間違いなく陽月が受け継ぐべきものだったのだ。

 それなのに、祖母は何も伝えないままこの世を去った。化粧品メーカーの美容部員となり三年を暮したが、祖母の様な技術を習得する為に、陽月は社内外に類を見ないほどの努力を続け勉強に励んできた。少しでも祖母に近付きたくて、そうすれば祖母が技を伝授してくれるものと思い続けた。

 そして、祖母を送るときには自分が祖母に死に化粧を施すのだと、生き生きとした美しい顔の祖母を見送るのだと決めていた。なのに、通夜の日に陽月が行った化粧は、祖母が今までやってきた技とはかけ離れたお粗末なものだった。祖母の顔は生前よりも老けこみ、100歳を超えていると言ってもおかしくない程にくすみ青黒かった。

 己の不甲斐なさに手が震え目を閉じて天を仰いだその時、陽月の瞼に浮かんだのは、祖母がいつも使っていた紅筆だった。輝く銀の毛に真っ直ぐで艶やかな柄の紅筆は、陽月を誘うようにまぶたの裏で輝いている。

『これだ……』

 陽月は心の中で叫び、寺から自宅へと走ってもどり、祖母の部屋を家探しした。夜は更け、朝になり、日は高く昇っても、祖母の紅筆は見つからなかった。

 陽月は祖母の通夜も葬儀も、母親が呼びに来ても出なかった。狂ったように家探しをする娘を、母は心配そうに見つめていたが、陽月にばかり構っている事が許される時間はなかった。ついさきほどになって、母から火葬場に移動すると電話が入った。

 祖母の部屋は隅から隅まで捜した。どこにもない。陽月は肩を落として祖母の部屋を出ると玄関へとゆらゆらと歩を進めた。その時、白い光が二階へと続く階段の端でゆらめいた。陽月は揺らめく光に導かれるように自分自身の部屋の扉を開けた。

 午後の日差しが窓から差し込み、机の上に置かれた真っ白の絹で作られた細長い物入れをキラキラと輝かせていた。陽月はそれを手に取りそっと紐をほどくとくるくると開いた。

 その中にあったのは、陽月が死に物狂いで捜していた祖母の紅筆だった。陽の光を浴びて、神々しいほどに輝くそれは、触れると火傷しそうなほどに熱かった。

 それでも放すことはできない、まるで陽月の手の一部でもあるかのように馴染んだ筆は、皮膚を焦がすかに思えたのに、その熱を陽月の中に埋めていったのだ、自然に紅筆は陽月のものとなった気がした。目を上げると、窓から差し込む日差しがさっきと違って見えた。まるで、数時間が過ぎてしまったように、太陽の位置が違う。

 再び物入れに納めると、陽月は慌てて階段を下りた。火葬場に行くバスに乗らねばならない。祖母の身体を焼かれてしまっては、陽月の願いは叶わない。

 だが、外に出てもバスはなかった。寺の境内の方で声がする。行ってみると、手伝いをしてくれていた近所のおばさんが片づけを終えようとしていた。

「ちょっと陽月ちゃん、何してるの。いま火葬場じゃないの。ああそうか、火葬場は今日はすいていたのね。もう終わったの?」

 おばさんの言葉に、陽月の心臓がドクッと音を立てた。

「おばさん、みんな、いつ出たの」

「え? どこへ?」

「火葬場よ。おばさん」

「そりゃあ、もう2時間は経ってるでしょうよ……ちょっと、陽月ちゃん」

 その答えが終わらぬ間に陽月は走っていた。自宅に残っていた車はミッション車だ。オートマチック車しか乗れない陽月には無用の長物だ。高校の陸上部では、駅伝のエースだった。火葬場までは3キロ程だろう、走って走れない距離ではない。ただ、不安なのは下半身だ。通夜の日から着ている黒いパンツスーツであるものの、靴はヒールは低いがパンプスだ。これで走るのは初めての体験だったが、仕方ない。ダメなら脱いでしまえばいいだけ。

 そして、いま火葬場の駐車場まで辿り着いたところだ。足元は、破れたストッキングから飛び出た指、踵まで血だらけだ。脱いだパンプスはそのまま放置してきた。

 駐車場のコンクリートの地面には陽月が流した血が、足跡を作っていく。それでも、祖母の待つ場所までは止まらない。陽月は、まだ走っていた。


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