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終末恋物語  作者: 氷室冬彦
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7 回復の兆しと少女の問い

「おい秋人」


「ああ啓吾、もう昼?」


 午前の作業が一段落したところで軽く床を掃いて掃除していた秋人のもとに啓吾がやってくる。あたりを見まわすと、他の同僚たちも手の空いた者から昼休憩に入るために持ち場を離れはじめている。チリトリのゴミを近くのゴミ箱に捨て、秋人もひとまず仕事を切り上げた。


「桧季の様子はどうだ」


 弁当を手に屋外に出たとき、周囲に人がいないことを確認してから啓吾が問いかける。桜が静養に入ってから今日で三日目だ。明日には復帰して、この連休は風邪だったということで片付けることができれば理想的だが、仮にそうならなくとも彼女はなにも悪くない。


 命の危機にさらされる経験をした人間が精神を回復させるまでに必要な時間の相場などは、秋人にはわからないが、それでも三日で立ち直れというのは無茶な話だと思う。もちろん、最初に秋人が桜の欠勤を伝えに向かった日のうちに、桜の意思は確認した。


 周囲に余計な心配や詮索をされたくないので、病欠ということで済ませたい――それが本当に彼女の意思だったのかはともかく、彼女は秋人の方針どおりに何事もなかったように復帰できることを望むと言ったのだ。


 明日復帰できずとも、追加で二、三日くらいまでなら性質たちの悪い風邪にかかったことにできる。それ以上となると、河田には本当のことを話して、これからのことを相談するしかないだろう。


「様子、って言ってもねえ……」


 秋人からはなんともいえない。元気そうといえば元気そうにも見えるし、明るく振る舞っているだけのようにも見える。


「少なくとも、ふさぎ込んではいないよ。ちゃんとご飯も食べてるし。大丈夫……なのかどうかは、俺にはわからないけど。どうなるかは桜次第だし」


「はっきりしねえなあ」


「しょうがないだろ、本人の心の問題なんだから。っていうか、ここ最近ずっと口を開けば桧季、桧季って――啓吾は桜を気にしすぎだよ。なにかあったらちゃんと教えるって」


「う、うるッせえな」


 啓吾が桜を他の女性たちよりも気にかけて優先していることは、普段の会話や行動からも見てとれた。隠すつもりがないのか、本人としては隠しているつもりなのか定かでないが、秋人が気付くほどには桜のことばかり見ている。ひとつたしかなのは、桜のほうがそれに気付いていないことだ。


「啓吾はさ」


「あん?」


 昼食の弁当を頬張りながら啓吾は顔をあげる。豪快に掻き込んで食べる割りには秋人より食べ終えるのが遅い。


「……いや、啓吾は桜のことが好きなのかなあと思って」


 秋人がさらりと言うと啓吾は思いきり噎せた。手を口に当ててしばらく咳き込んでいたが、やがてそばに置いていた水筒を引っ掴んで水を飲んだ。まだ少し苦しそうな顔でこちらを睨む。


「おい大丈夫か?」


「お、お前が変なこと言うからだろ。ったく、なんだよ突然」


「いや、なんとなく気になっただけだよ。で、どうなんだ?」


 啓吾はうっとうしそうに舌打ちしたが、秋人の表情を見ると気まずそうに首を掻いた。しばらく黙り込んでから、沈黙にひそむ緊張を振り払うように、わざとらしく大きなため息をついた。


「野郎同士で恋バナでもしようってか?」


 啓吾は毒吐いてもう一口水を飲む。


「……その、まあ、別に、違うって言ったらウソになるけどな」


「伝えるつもりは?」


「ねえよ。伝えていいもんじゃねえ」


 啓吾の水筒を傾ける手がぴたりと止まった。その表情に影が差したのを秋人は見逃さない。というより、誰が見ても明らかだった。彼は考えていることが顔や仕草に出やすい。


「いいも悪いも、好きなら伝えてみればいいんじゃないのか? いや、まあ、付き合いたいって気持ちがあるならだけど」


「……なんて言やいいのか。俺はさあ」


 啓吾が静かに深呼吸する。水筒を置こうとしてやめて、結局手に握ったままでいるのは、緊張を紛らわせたいのだろう。


「昔から……人と関わるのに抵抗があって。本当は今もそうだ」


「人見知りって感じじゃなさそうだったけど」


「そういうことじゃねえんだよ。人と関わるってのは……要はその、親密な関係を作ることがよ。親密っても恋人ってだけじゃなくて、友達とか……」


「ここのみんなとは普通に話してるよな?」


「仕事だけの関わりだからな、仕事の仲間は。仕事するために必要だから関わってるんであって、プライベートじゃ絶対絡まないだろ。タイムカード切っちまえば無関係な相手だ」


「ドライだなあ。河田さんたちみたいに仕事終わりにご飯行ったりしないんだ?」


「お前だって行かないだろ」


「それはそうだけど」


「仕事のことで話があるとか、相談したいとか言われたら俺だって行く。それ以外の個人的な誘いだったら行かない」


「そりゃまたなんで。気の合いそうな人いない?」


「それもある。それもあるし……そもそも俺がここで働いてんのも、同年代が少ないからだ。年が離れすぎてる相手ってなると、雑談で盛り上がることはあっても、お互い本当に気が合わないと個人的な友達になりたいとまで思わないだろ」


「俺は?」


「お前は……」


 啓吾は黙り込むが、それは相応しい言葉を探しているだけのように見える。秋人は少し待ってみた。


「……まあ、気は合わねえけど」


「合わないのかよ」


「同僚の中じゃ気楽に話せるほうだ。でも別に休日に出かけるような仲にはならない」


「そりゃまたなんで」


 お前のようなやつとは友達になりたくない――そう茶化しているわけではない。啓吾の表情は真剣そのもので、どこか思い詰めているような憂いを帯びていた。


「……笑わないか?」


「絶対に」


 秋人が宣言すると、啓吾は暗い表情のまま、また少し黙り込んだ。打ち明けようとしている口ぶりで切り出したものの、本当に言うべきかどうか迷っているのだ。


「自意識過剰だってバカにされるかもしれないけどな、本当なんだよ。俺と仲良くなったやつは、なんでかいつも……」


 啓吾はそこで口ごもり、つらい過去を噛み締めるように黙りこみ、ひどく言いづらそうにぼそりとつぶやいた。


「死ぬんだよ」


 死ぬ。


「というと、たとえば」


「たとえば? ……そうだな、一番最近だと、たとえば桧季の――」


 語尾が消える。


「桜の……お兄さん?」


 彼女の兄は夜の森に一人で出ていったばかりに、カルセットに襲われてしまった。桜からも既に聞いた話だが、それは危機管理能力の欠如が招いた完全なる事故だ。


「そんなの、ただの偶然だろ? 気にしすぎだよ」


「だから、それは他にももっとたくさんあった中のひとつなんだよ。物心ついたころからずっと、俺と親しくなったやつは全員死んだ。別に町はずれに住んでたとか、森とか山に住んでたわけでもないし、俺は今まで何度も引っ越しを繰り返してきたけど、どの町も治安はよかった。そんな環境で、たかだか十九年生きただけの中で何人も、立て続けにだぞ? その全部が偶然なもんかよ!」


「ま、待てよ。だからって啓吾のせいだなんてことはありえないだろ? 桜のお兄さんが死んだのはただの事故だ。獣が腹をすかせるのは啓吾のせいなのか? その腹をすかせた獣が人を襲うのは啓吾のせいか? 違うだろ」


「俺のせいじゃないって根拠もない」


「じゃああんたのせいだっていう根拠あるのか?」


「今までいつもそうだった」


「それは啓吾からすればそうだろうけど、だからって啓吾に関わったせいなんて。全部偶然だってほうが自然だよ」


「それこそありえないだろ。どんな確率なんだよ。俺が呪われてるんだっていうほうがよっぽど納得できる」


「だから本当は俺や桜にもこれ以上近付きたくないのか」


 啓吾はやはり黙った。


「……仕事だけの付き合いならなんともないんだ。一緒に働いてる仲間が死んだことはない。でも外で会う約束を取り付けるくらいの仲にまでなっちまうとダメだ」


「そんなの……」


 まだいいじゃないか――と、秋人は思ってしまった。


 感情というものはそれを感じている本人だけのものだ。他人と比べられるものではないし、比べるべきでない。それはわかっている。啓吾には啓吾の葛藤や苦しみがあるし、それは彼にとってなによりも重大なことなのだ。秋人には秋人の悩みがあり、啓吾には啓吾の悩みがある。どちらがよりつらいことなのかなどは考えるだけ無意味なのだ。


 だが近付けなかろうがなんだろうが、周囲の人々と同じ時間を生きることができる彼とは違い、秋人には進むべき未来もなければ、彼らとともに刻める時間もない。どれだけ近くにいたとしても、同じ世界で生きることはできない。代わってほしいくらいだ――そう思ってしまう自分がいることも否定できない。


 まっとうな生者でなければ、死者にもなれない。この世からもあの世からもはじき出された異端者。桜や啓吾と知り合ってからというものの、秋人は毎日、どうしようもない疎外感を常に胸の内に抱えている。


 啓吾は少なくとも、桜や他の人々とも同じ時間を生きている。一定以上は近付けないというだけで、同じ人間として同じ目線で、同じ世界で生きている。深く関わることはできなくても、彼女が幸せになれるように見守ることくらいはできる。


 秋人はいずれそれすらできなくなる。いずれは彼女のもとを去らなければならない。それは啓吾をはじめとした、この町で出会ったすべての人々にしても同じだ。秋人はいつかこの町を去る。そして彼らが秋人を忘れ、年老いて、やがて土に還るまで、この町に立ち寄ることはないだろう。そう遠くない未来のことだ。どれだけ恋しくとも関係ない。


 世間に秋人の正体が知れてしまえば騒ぎになるであろうことは、秋人の粗末な頭でも容易に想像できる。何度死んでもよみがえる、実質的な不老不死。今までに前例のない存在である秋人は、場合によっては拘束されて、どこかの研究所にでも送られるかもしれない。もし世間が秋人を人間でないと判断すれば、秋人に人権は適用されるのだろうか。


「お前らが、帰り道にカルセットに襲われたって聞いたときは……正直、気が気じゃなかった」


「俺は死なないよ」


「そりゃ、俺はこのあと死ぬんだって思いながら生きてるやつなんかいないだろ」


 人間として暮らしたいのならば、人間としての人生は捨てなければならない。


 葛藤はある。それでも秋人は桜のそばにいたい。できることなら、これからも一緒にいたいと思っている。それが無理な願いだと言うならば、時間が許す限りでいい。できる限り彼女を隣で見守りたい。


 いっそすべてを打ち明けて――そう思ったこともある。しかし桜に秋人の正体を、秋人が普通の人間ではない、異常な存在であることを知られるわけにはいかない。


 桜はバケモノと分類される存在にひどく怯えている。それは数日前に遭遇した獣だけが原因なのではない。


「もし俺がこの先、啓吾の目の前で死ぬことがあったとしても、それは絶対に啓吾のせいじゃないよ」


 啓吾がいなくとも、秋人は不注意の事故で何度も死んできたのだ。時には自分一人しかいないところで、時には誰かの見ている前で。事故だけでなく、誰かに殺されたことも何度かあった。通り魔、強盗、魔獣。告白を断ったことで逆恨みされて刺されたこともあったし、自分の恋人が秋人に惚れたとかで見知らぬ他人に殺されたこともあった。


 いつかこの町でも、そういったことが起こるかもしれない。それは決して啓吾と知り合ったせいではないし、たとえその出来事が原因でこの町を去ることになったとして、秋人が啓吾を恨む可能性などは万にひとつもない。


 理由は当然のこと、啓吾と親睦を深めたせいで死んだなどと、そんなことはありえないからだ。


「とにかく、その、実際になんで啓吾のまわりでそんなことが起きるのかはわからないし、なんかややこしい話になってきたけど……とりあえず、俺は啓吾に遠慮したりしないってことが言いたかったんだよ」


「遠慮?」


「そう。啓吾の過去になにがあったとかは関係ない。啓吾が桜をどう思ってるのかも、どうするのかも啓吾の自由だし。でも事情を抱えているのがあんただけとは限らないよ。俺も……その、本当は誰かと一緒にいていいような、褒められた存在じゃないし」


 あまりにも致命的な足枷だ。それでも秋人は彼女の隣を歩きたい。


「でも俺は欲深いからさ。自己中心的なんだ。俺なんかが一緒にいちゃいけないってわかってるのに、どうしても一緒にいたいんだ。すごい矛盾だって自分でもわかってる。だから嫌だったのに。気持ちには嘘がつけない」


 桜には嘘をついているのに。


 いや、桜だけじゃない。啓吾にだって嘘をついている。誰も彼もを騙して、そのうえで自分の気持ちを押しつけている。感情的で愚かな自分が浮ついた欲に溺れる様子を、理性的で冷静な自分が冷めた目で見ている感覚がする。


「俺は誰にも桜を渡したくない」


 人間でもないくせに、どの口でそんなことを言ってのけるのか。



 *



「一応、明日からは仕事に復帰する予定だけど、大丈夫そう?」


 夕飯を済ませ、食器を洗う桜の背中に秋人は問いかけた。家事はある程度分担しているのだが、休んでいる間の桜はなにかしていないと落ち着かないのか、秋人のやることがなくなるほど動きまわっているのだ。


 水音に混じって桜の声が聞こえた。


「はい、もう大丈夫です。ご心配おかけしました。明日からは私もお仕事に戻ります」


「……わかった。でも無理はしないでね。もし明日になってやっぱり無理だと思ったら、すぐに言って」


 桜は少しだけ振り返った。


「はい」


「洗い物手伝おうか」


「ありがとうございます。でも、もう終わりますから」


 数秒、水の音だけが二人の間に響いた。


「秋人さんは」


 桜が言う。


「秋人さんは、怖くありませんでしたか」


「怖い? なにが?」


「あの夜、森で魔獣に追われて、でも翌朝には工場に行くために出かけて、毎日、今日も、またお仕事のあとは、日が暮れていく中、森を歩いて……」


 桜は不安そうな目で秋人を見た。


 秋人のほうが無理をしているのではないかと心配なのだろうか。それとも、どのような事態に陥っても恐れを抱く様子のない秋人の異常性に気付いてしまったのだろうか。


 森を通ることが怖いなど、一度も感じたことはない。いつもなにも考えずにぼんやりフラフラ歩いているからだ。そしてなにも考えずフラフラ歩くようになったのは、なにも恐れる必要がなくなったからだ。


 恐怖とは多くの場合、自分の身になんらかの危険が迫った際に、痛みを負いたくない、命が惜しいという思いから本能的に沸き上がってくる感情だ。秋人はそう思っている。


 秋人は痛みを感じないし、死なない。つまり生き物の抱く「恐怖」という感情から解放された存在なのだ。ひるがえって言えば、恐怖を感じることこそが人間が人間たる所以であり、生き物が生き物たる所以でもあるのだ。


 魔獣に追われたからといって、暗くなった森を歩くのが怖いなど――思うはずがない。


「……どうなんだろう。実感がないっていうか……よくわからないかな。そのあたりちょっと鈍いのかも、俺って。危機感なさすぎだね。能天気っていうかさ」


 秋人は曖昧に笑って答えをにごした。


「でも、この森の有害カルセットは夜行性だから、活動時間外なら危ないことなんてないだろ? もちろんそれ以外にも、狼とか猪とかの普通の野生動物がいるだろうけど。森に住んでいる獣はカルセットと対立関係にある場合が多いから、積極的に人間を襲うことは珍しいって聞いたことがあるよ。天敵と睨み合うのに忙しくて、人間は眼中にないんだ」


「そういう、ものですか」


「らしいよ。前に調べてみたことがあるんだよ。だからこの森も、夜にさえ外に出なきゃ安全だ。あの日みたいに帰りが遅くなったときはともかく、いつもどおりの時間帯ならあんなことに遭遇する心配はないよ。それを知ってたから怖くないのかも」


 会話が途切れる。


 急にあたりが静かになった気がした。


「……秋人さんは、死ぬのは怖いですか」


 唐突で、静かな問いかけだった。


「私は――怖いです。とても」

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