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終末恋物語  作者: 氷室冬彦
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6 与えられた休息と精神の安定

 その翌日、秋人と桜は仕事を休むことにした。といっても、秋人は元々休日だったから、正確に欠勤したのは桜だけだ。一夜明けたあととはいえ、昨夜あんなことがあったというのに何事も無く森を通って出勤するなど、常人の神経ではなかなかできないだろう。


 桜が泣き疲れて眠ったあとも一人起き続けていた秋人は、朝になるとまだ桜が眠っている間に一人で工場へ行き、工場長の河田をいち早く見つけだして桜が欠席する旨を伝えた。桜の家に電話はないのだ。


 河田にならば昨夜の出来事を正直に話してもよかったのだが、話せば長くなりそうなので病欠ということにしておいた。桜が起きる前に帰りたかったのだ。風邪をひいたとでも言っておけば三日ほど休むことになっても不自然ではないし、復帰した際に必要以上に話題にあがることもない。あっても体調管理には気を付けてと言われるくらいだ。


「秋人、今日は休みじゃなかったのか」


 河田への報告を済ませて事務所を出たとき、作業服姿の啓吾が秋人に気付いてそう尋ねた。秋人は曖昧な笑みを浮かべて言いわけを考える。


「いや、桜が風邪ひいたみたいでさ。何日か休まなきゃいけないから工場長に言いにきたんだ。俺はもう帰るよ」


「風邪?」


「そう。あの……あ、ほら、昨日の夜ずっと外にいたから。体冷やしちゃったみたいで」


「へえ……大丈夫なのか?」


「ん――うん。だと思うよ」


「本当に風邪か?」


 強い口調に言葉が詰まる。啓吾は鋭い。秋人が鈍いからそう感じるだけか。いつも嘘を吐きながら暮らしている秋人だが、素性や来歴などを偽る嘘がすらすらと出るのは慣れているからでしかない。秋人はどちらかというと嘘を吐くのが苦手なのだ。しかしそれでも外面を繕うのは得意だと思っていたので、このときは心底ギクリとした。


「風邪だよ」


「嘘だな。お前は嘘がヘタクソだ」


 しらばっくれようとも思ったが、これ以上嘘を重ねても啓吾は納得しないだろう。


「……そう言うあんたは嘘を見抜くのがうまいな」


「お前がヘタクソすぎるんだよ。あからさまに今考えましたって顔してなに言ってんだ」


「かなわないなあ」


「で? 桧季は本当はどうしたんだ」


 改めて啓吾は切り出した。


「もしかして、昨日の帰りになんかあったのか」


「ああ……ちょっとね。あ、でも別に怪我とかはないんだ。ただその……怖い思いをしたから。ショックだったみたいで」


 帰り道でなにかあった――どれだけ言葉を濁そうが、夜の森でなにかあるとすれば十中八九、獣に襲われたということだ。啓吾もそれを察したようで、顔を青ざめさせた。


「ひ、桧季は大丈夫なのか? 怪我してないっつっても……ちゃんと復帰できるんだろうな?」


「わからない。今はとにかく休んで心を落ち着かせて……最後は本人次第だし、どうなるかなんてたしかなことは言えないけど、桜はたぶんそんなに弱い子じゃないよ」


「工場長には話したのか?」


「いや、一応風邪って言っておいた。あんまり話が広まっても桜も困るだろうし、もし桜がすぐ立ち直れそうになかったら、そのときは本当のことを話すけど……」


「お前はずいぶん平気そうだな」


「うん、俺はあんまり怖くないから」


「お前だって死にかけたんじゃないのか?」


「それは……そうだけど」


「危うく死ぬところだったのに怖くないなんて、鈍いなんてもんじゃねえぞ」


「いや、まあ……」


「バケモンみたいな神経してんな、お前」


 言葉に詰まる。啓吾が秋人の正体に気付いたわけではない。ぶっきらぼうで辛辣な青年の、友人に向けたただの軽口だとわかっている。いつもどおり適当に受け流してしまえばいいのだ。


 そうわかってはいるが、秋人はなにも言葉を返せなかった。



 *



 家に帰ると、朝食を前に箸を持ってぼんやりしている桜がいた。朝食は出かける前に秋人が作っておいたものだ。扉の音で我に返った桜は、ぱっと勢いよくこちらを振り向いた。


「あ、秋人さん……おかえりなさい」


「ただいま、桜。どうしたの、ぼうっとして――あ、やっぱりご飯マズかった……?」


 秋人は料理が得意ではない。これまできちんとした料理を作ったことなどなかったし、他人のためになにかを作るようなこともなかったからだ。味付けも焼き加減もめちゃくちゃで、失敗しても味覚をなくして食べれば――味がないとそれはそれで食べにくいものだが――やりすごすことができた。腹に入れば同じだと思っているので、きちんとできていない自覚こそあれど、改善しようとも思わなかった。


 しかし桜と住みはじめてからは毎日食事の準備を手伝うことも多かったし、毎日桜の手料理を食べ続けてきたので、以前より舌も肥えた。そのおかげか桜と会う前よりは秋人自身の料理の腕も少しはマシになった気がする。気のせいかもしれないが。


 とはいえ、少しマシになったところで秋人の料理の腕がひどいことに変わりはない。桜の料理で舌は肥えても、自分自身の腕前にはなんの影響もないのだから。おかしな体質になった影響で舌が麻痺して味を感じづらくなっているのか、ただ単純に味音痴なバカ舌なだけか、秋人には味がよくわからないのだ。なにもわからないわけではない。ただ区別がつきにくい。桜が作ったものならば明確においしいと知覚できるが、自分で作ったものはすべてよくわからない味になる。


「無理に食べなくていいよ。俺が作ったものなんて食べられたもんじゃないだろうから。一応味見はしたんだけど、俺って味音痴だから……」


「い、いえ、そうじゃないんです。お料理が口に合わなくてぼうっとしていたわけじゃ……」


「え、じゃあ、どうしたの」


「あ、あの、その……」


 秋人が意外そうな口調でもう一度尋ねると、桜は下を向いて口ごもった。


「えっと、本当無理しなくていいよ? パンとか買ってきたから、こっち食べたほうがいいって」


「ち、違うんです」


「いや俺を気遣わなくていいよ。きっと体に悪いから、むしろ食べないほうがいい」


「あ――秋人さんが」


 桜は秋人を見た。顔が赤い。


「起きたら、秋人さんが……どこにもいなかったから」


 そう早口で言うと桜はまたうつむいてしまった。秋人は目を瞬かせていたが、やがて桜の言わんとすることの意味を理解して妙に気恥ずかしくなる。


「い、いや、工場長に、桜が三日ほど休むって伝えに行っただけだよ。本当のこと言うべきなのかわからなくて、一応風邪ってことにしておいたんだけど。もし三日経っても出られそうになかったら、それでもいいからね。河田さんなら話せばわかってくれるから」


「はい――すみません」


「なんで謝るの」


「ご飯とか他にも色々、秋人さんに迷惑かけてしまって……き、昨日だって秋人さん、疲れていたはずなのに、私が泣いてる間ずっと慰めてくれて、私がいつの間にか寝ちゃったあとも、部屋まで運んでくれたんでしょう? あの、獣から逃げるときだって……」


「迷惑もなにも……全部俺が勝手にやったことだよ。君に頼まれて渋々やったわけじゃなくて、俺がそうしたかったからだ。俺が君を担いで走ったのも、俺が君を守りたかったからああしたんだ。泣いてる君のそばにいたのも、俺が離れたくなかったからだ」


 あれは桜にとって命の危機だったのだ。ならば恐ろしいと思って当然で、そのショックが生活に響いたとしても仕方のないことだ。なにも負い目を感じるようなことではない。


「それからね、桜」


 秋人は彼女の名前を呼びながら色素の薄い頬に触れ、顔を上げさせた。まだ顔は赤く、潤んだ目に涙が溜まりはじめていた。


「下を向いてちゃ顔が見えないよ。上を向いて、ちゃんと俺を見ていて」


 手を離して少しだけ微笑んで見せると、桜はうつむかなかったが、わずかに視線を落としながら、はにかむように曖昧に笑った。


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