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終末恋物語  作者: 氷室冬彦
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5 広がる緑ににじむ傷跡

「おつかれさん」


 勤務時間を終えた秋人に同僚たちがねぎらいの言葉をかける。秋人はそれに表面上は愛想よく応じながら早足で更衣室に戻り、いつもより急いで作業着を脱いでいく。


「秋人、もう外暗いぞ」


 額の汗を拭きながら啓吾が言う。秋人は帰り支度を続ける手を止めずに頷いた。


「まだ日は沈んでないけど急がないと」


「町のほうはまだそれほどでも、森の中は一段と暗いだろ」


「心配してくれてんの?」


「俺が心配してんのはお前じゃなくて桧季のほうだ。いつもお前が家まで送ってるんだろ?」


「そうだけど、桜は俺より先にあがったし、さすがにもう帰ってるんじゃないか?」


「いや、さっき外にいるの見たぞ」


「えっ」


「金網んとこに立ってた」


「そ、そっか。先にあがったって言っても定時すぎてたし、一緒のほうが安全かな……じゃ、おつかれ!」


 啓吾は無言だったが、気にせず更衣室を飛び出した。急いで外に出ると聞いていたとおりの場所で桜が待っている。


「桜!」


「おつかれさまです」


「先に帰っててもよかったのに……」


「い、いえ、私は……」


 桜は少しうつむいて語尾をにごす。不安だったのだろう。


「……まあいいや。待っててくれてありがとう。遅くなってもまずいし、早く帰ろうか」


「はい」


 夕暮れの街は帰路につく人々で賑わっていた。等間隔に並んだ街灯の光のおかげでまだまだ明るい大通りを抜け、しかし光は森に近付くにつれて数が減っていき、ひと気がなくなると同時に周囲は途端に暗さを増す。まだかろうじて沈みきっていない太陽の光は、しかし木の葉にさえぎられて森の中にはほとんど届かない。


 隣を歩いていた桜の吐息がわずかに震えた。秋人は心配や不安を伝播させないよう努めて明るく、しかし声は抑えながら平常通りを装った。


「明かりになるものがあればよかったね」


「そ、そうですね。明日から……持って行きましょうか」


「うん、更衣室に置いておけば荷物にならないし。あ、そこ気を付けてね」


「はい……」


 桜の声がいつもより小さい。


 虫や鳥の声と、風が木の葉を揺らす葉擦れの音。あとは二人の足音だけが森に響いていた。急に桜が秋人に一歩分ほど肩を寄せるので、秋人は思わず彼女を見た。


「桜、どうかした?」


「え、あ……な、なんでもありません」


「……ちょっと急ごうか。風も冷えてきたし」


 秋人は夜の暗闇も獣もなにも怖くなどないが、それらを恐れている彼女にいつまでも外を歩かせるわけにはいかない。普段はのんびりしている秋人も、このときばかりは気を遣った。


 歩き慣れた小路を早足に進む。桜はすっかり無言になり、そればかりか徐々に呼吸が荒くなっていくのがわかった。顔色も悪い。どうしても思い出してしまうのだろう。どれだけ気にしないように努めても、心の傷が刺激されるのだ。


 秋人にはなにもできない。彼女のそのつらい記憶を消してしまえたらどんなにいいことか。きっと普通の人間だったころの秋人なら、痛い思いや怖い思いのひとつやふたつ、経験したこともあったのだろう。今の秋人には、彼女の事情や苦悩を理解することはできでも、うまく共感できない。その心に真に寄り添うことができない自分がひどく腹立たしく、もどかしい。


 己の無力感に耐えきれなくなった秋人は、せめてもの思いで桜の小さな手をそっと握った。なにもできないからと言って、なにもしないままではいられなかったのだ。桜がこちらを見上げる。


「大丈夫だよ。ちょっと頼りないかもしれないけど、もしなにかあっても俺が守ってあげるからね」


「で、でも……」


「大丈夫。絶対一緒にいるから」


 守る――と言ったはいいが、武器も戦闘技術も持たない今の秋人に、魔獣を撃退できるだけの力はない。ただ少し普通の人間よりも体が便利にできているだけで、秋人は凡人なのだ。強みと言えば痛みを感じないことと死なない体質であるということだけで、しかし桜の見ている前で死んでまた生き返るわけにもいかない。


 桜が見ている前で死んではならない。


 秋人にできることといえば、彼女を連れて逃げることだけだ。秋人が自分を犠牲にすれば桜一人を逃がす時間くらいは稼げるが、身を差し出すのは本当にどうしようもなくなったときの最終手段にしたい。このまま何事もなく家に着くことを期待するよりないだろう。


「もうちょっと速く歩いても大丈夫?」


「は、はい」


 今この場に嗅覚はほとんど必要ない。味覚もだ。それらの感覚と引き換えに視覚と聴覚を強化すると、夜でもあたりの様子がよくわかった。なにかあったとき、少しでも早く異変に気付けるようにしておいたほうがいい。


 足元に出っ張った木の根や、目の前を横切る小さな虫の羽ばたきまでもがくっきりと見え、横の草陰で小動物が寝返りを打った身じろぎの音まではっきり聞こえる。靴の下で落ち葉が潰れる音や、四方から響く虫の鳴き声や羽音。隣を歩く少女の落ち着きのない息遣い。


 それらに混じって後方から物音がした。思わず表情が強ばる。


 小動物のものではない、大きく重い質感の足音。人間にしては野性的で荒い吐息。鼻をひくつかせる音。距離は――すぐ近くというほどではないが、まだ遠いと安心できるほど離れてはいない。


「秋人さん?」


 秋人の異変に気付いたらしい桜が不安そうに声をかけた。後方の足音は徐々に近付いてくるが、普通の人間の五感ではまだ気付けない範囲だ。


「桜、走れる?」


「ど、どうしたんですか」


「家まで競争! 全力で走って!」


 桜の手をひいて小路を走る。桜ははじめ状況を把握しきれていないようだったが、やがて自分たちに迫り来る脅威の存在を察したらしく黙ってついてきた。


 背後からの気配は凄まじい速度で二人との距離を縮めてくる。このまま桜の手をひきながら走っていては逃げ切ることはむずかしいだろう。桜は初めて会った日に言っていたとおり、それなりに力はあるのだが、走る速度はそれほど速くはない。どちらかと言えば遅いほうだろう。


 秋人は常人よりもはるかに速く走ることができるが、これ以上速度を上げると桜がついてこれない。追いつかれるのも時間の問題だ。


 ならば――どうする。追いつかれれば秋人にはなにもできない。桜の手前、いつものように体を顧みずに向かっていくこともできない。自分の正体が人間ではない怪物だと知られるわけにはいかないのだ。なにもできない。なんて不便なのだろう。


 うしろを振り返る。息を切らして走る桜のその後方には、大柄な狼のような生き物が見えた。額には大きな一本角が生えており、口は耳まで大きく避け、長く鋭い牙がよだれをまとってぎらついている。


 黒く大きな眼球と赤い瞳はしっかりと秋人たちを捉えており、一直線にこちらへ駆け寄ってきた獣は、四肢を深く曲げ、爪が地面にめり込むほど強い力で地面を踏みしめると、高く跳躍した。


 獣はそのまま二人の頭上を飛び越え、秋人のすぐ目の前に着地する。思わずたじろいだ秋人の隣で、桜が短い悲鳴をあげる。振り向いた獣が再び地面を蹴った瞬間、秋人は桜の体を左に突き飛ばした。


 飛び掛ってきた獣の重みにバランスを崩し、そのまま地面に背中を打つ。次に目の前に飛び込んできたのは、鋭い牙がびっしりと生えた大きな口。獣の首と角を咄嗟につかみ、秋人に喰らいつこうと躍起になる獣の体を必死に押し返した。


「あ――秋人さんッ!」


 桜が悲鳴まじりに叫ぶ。いつもなら無抵抗に殺される秋人だが、その声を聞いた途端に、体の奥から強い感情が湧き上がってくるのを感じた。


 そこに桜がいる。


 死ぬわけにはいかない。


 獣の腹を思いきり蹴り飛ばした。餓狼は一度秋人から離れたものの、咄嗟の攻撃では大したダメージにはならなかったようで、秋人が立ち上がる前に体勢を整えた獣は再び飛び掛かってきた。


 すぐ近くに転がっていた太い木の枝を急いで拾い、正面に突き出す。狙いどおり噛みついたところに脇腹をもう一度、渾身の力で蹴りつける。獣は避ける間もなく吹っ飛んだ。


 秋人は獣の状態には目もくれず桜のもとまで駆け寄り、彼女の体をひょいと抱き上げる。走りながら一度だけ振り返ると、枝が牙から外れないらしい獣は頭を振り乱しながら四肢をばたつかせて暴れていた。


 桜を抱えたまま暗い森の中を全力で駆け抜け、ようやく動けるようになったらしい獣がまた秋人たちを追いかけようと走り出したが、そのころには二人は無事に家へと辿り着いていた。


 あわてているせいで鍵を開けるのに少しもたついたが、大急ぎで中に駆け込んで、すぐさま扉を閉めて施錠すると、なんだか全身の力が抜けたような感覚がした。秋人は気持ちを落ち着かせるように大きく息を吐き、腕の中で震えている桜を椅子に座らせた。正面に屈んで肩にそっと触れる。


「桜、桜、怪我はない?」


 桜は両手で涙を拭いながら頷く。


「桜、さっきのあいつはもういないよ。もう大丈夫。ここは安全だから。だからもう泣かなくていい」


「あ、秋人さんが」


 桜は拭いきれなかった大粒の涙で顔を濡らしながら、なにかに耐えるように拳を握りしめた。


「秋人さんが……、秋人さんまで、し、死んじゃったら、どうしようって、私、私――」


「桜……」


 秋人は既に死んでいる。彼女のように、今この時間、この時代に生きている、正しい人間ではない。彼女と同じ時を生きることはできないし、ともに死ぬこともできない。


「大丈夫だよ」


「秋人さん……」


「大丈夫、俺はちゃんとここにいるだろ?」


 一体なにが大丈夫だと言うのか。なにも大丈夫ではない。秋人と桜は住む世界が違う。秋人は過去からも現在からも取り残され、行くあても帰る場所もなく彷徨い続ける死人だ。


 死なない身体なわけではない。死んでまた生き返るのでもない。死んでいないが、生きてもいないのだ。不死身体質などと言ってごまかしているが、ただのバケモノだ。


 今この瞬間、少女を抱きしめている己の存在が、とてつもなく穢れているように思えてならなかった。

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