4 飛躍とその後の日常
「――説明はこんなところか。なにか質問は?」
「とくになにも」
「そうか。じゃあさっそく明日からよろしく。シフトは桧季と合わせておいたから」
「助かります」
「しかし、あの桧季がなあ……お兄さんのこともあって心配だったが、君みたいな人が一緒ならひとまず安心だ。いろいろ大変だろうが、しっかり頼むぞ」
「……はい、俺にできることはなんでもしていくつもりです」
採用される自信はあった。力が必要な仕事なら秋人の得意分野だからだ。実際、秋人はよく働いた。彼に見とれて作業の手が止まりがちになる作業員も若干名いたが、それを補って余りあるほどよく働いた。意欲的で堂々とした明るい態度が好印象だったのか、事務所で正式に雇用契約を交わした際の河田は機嫌よさげだった。
細身な身体に似つかわしくない怪力については、身体強化の能力を持っているのだと説明してごまかした。そして身の上については今までどおり、家族がなく帰る故郷もないことと、それに加えて今は桜と同居していることを河田に話してある。勤務時間を桜と合わせたかったからだ。河田も桜の事情を把握していて、普段から残業せずに定時で退勤できるよう調整してくれているようだが、どうしても遅くなってしまう日もある。なのでせめて秋人が桜の家に厄介になっている間は、行き帰りをともにすることで彼女の不安を軽くしたいのだ。
その説明によって、河田には同棲をはじめたばかりの恋人と解釈されたようだが想定内だ。一応、桜との関係については一部を濁しつつ事実を述べたつもりだったが、その結果に生まれた誤解については否定も肯定もせず、ただ複雑な事情があるので周囲には伏せておいてほしいとだけ告げた。
嘘をついて騙しているようなものなので心苦しいが、そういうことにでもしておかなければ桜を守れないし、なにより秋人の存在があまりにも怪しすぎる。一昨日たまたま出会ったばかりの若い女の家に転がり込んで、そのまま一緒に住むことになったなどと。この事実をどう説明すれば世間からの理解を得られるのか、誰かわかる人がいるなら教えてほしいくらいだ。
新生活は順調にスタートを切り、あっという間に一か月がすぎた。
梅梨啓吾とはそれなりに仲良くなった。初対面での警戒の強さや不愛想な態度ついては、見知らぬ相手だからああいった振る舞いだったわけではなく、単純に彼の性格だったらしい。お互いに桜の友人であるという共通点と、十九歳の啓吾と、年齢を聞かれて咄嗟に二十一歳と答えた秋人は表面上は歳が近い。そのこともあって一緒にいる時間が自然と長くなり、なんだかんだとよく話す仲になったものの、啓吾の不愛想な態度は変わらない。
相変わらずぶっきらぼうだが打ち解けてはきているようで、もともとは南大陸出身だったことや、何度か移住を繰り返してこの町に落ち着いたことなど、彼自身の身の上も話してくれるようになった。きつい態度で言葉遣いも少し荒いからと、とくに女性の作業員たちからは避けられているらしく、一緒にいると人避けになる。
それに彼には余計なお世辞や社交辞令がなければ、裏の意図を察しなければならない遠回しで意味深長な言動もなく、思ったことをなんでもはっきり言うので、秋人にとっても付き合いやすいのだ。
「秋人さん、すみません。お待たせしました」
着替えを済ませた桜が鞄を肩にかけながらこちらに駆けてきた。フェンスにもたれかかって立っていた秋人は金網から背中を離してそちらを見る。
「俺も今さっき出てきたところだから。じゃあ、帰ろっか」
どちらからともなく二人は歩きだした。
ごく当たり前のように秋人はあの家に帰っているが、この町での住処探しをまったくしていないわけではなかった。このあたりは他の地域と比較して物件数が少なく、空き部屋があっても家賃が高いなど、最初に懸念していたとおり、なかなか手ごろなのが見つからない。
それにもし条件のいい物件があったとして、桜のことをどうするかという問題もある。秋人は桜のことが心配だった。一人であの森へ残すわけにもいかないが、ずっと一緒に住むこともできない。秋人が町に移るときは桜も一緒につれていくつもりだが、同居は解消する。
つまり秋人は自分だけでなく、桜の引っ越し先も見つける必要があるのだ。むしろ優先順位は桜のほうが上だろう。秋人は森がどれだけ危険でもどうとでもなるが、桜は違う。彼女は他の通常な人間たちと同じで、死んでしまえばそれまでなのだから、危険な場所からは秋人より先に立ち退くべきだ。
桜と秋人は働いて得た給金をそれぞれの引っ越し費用を工面するために貯めるつもりだ――と桜は思っているが、秋人は自分の給金の何割かは桜の引っ越しを手伝うために使うつもりだった。もうじき入る初任給も、これから先の給金も、秋人があの家に留まる限りはその半分を家賃として桜に渡す。彼女の性格からして拒まれるだろうとは思うが、言葉を尽くして納得させるしかない。桜のほうが頭はいいが、意見の正当性は秋人にある。
「仕事にはもう慣れましたか?」
「最初は戸惑うことも多かったけど、思ったより早く慣れたよ。これも桜と啓吾のおかげさ」
「わ、私はなにもしていませんよ。全部秋人さんの実力です」
「それ以外のことでも、桜にはいろいろと感謝してるよ。ありがとう」
「いえ、そんな、私はなにも……」
桜は色素の薄い肌を少しだけ赤くした。出会ってすぐのころに聞いたとおり、彼女はちょっとしたことですぐに赤くなる。緊張しやすい性質なのだろう。そうして少しでも赤くなると、もとが色白なため目立ってしまうのだ。
西の空の橙色が沈んでいく。常夜灯はまだ灯っていない。まだ昼間の青さの残る空を視界の端に捉えながら、薄暗い帰り道を二人で歩く。仕事が終わればあの家に帰る。既にそれが当たり前のようになってきているのだから習慣というものは恐ろしい。
森に入って、すっかり通い慣れた小路を歩く。横の木立から伸び出ていた木の枝を少し屈んで避けた際に、秋人の手が桜の手に軽く触れた。その瞬間、なんとなく気恥ずかしいような気分が胸の内を掠めて、秋人はわずかに動揺したのだった。
*
「だらしねえの」
朝、作業服に着替えて更衣室から出てきた秋人があくびをすると、啓吾が折れた襟元を整えながら鼻で笑った。
「お、啓吾おはよう」
「お前は本当、顔は憎たらしいほど整ってんのに、それ以外がいろいろと残念な野郎だな」
「朝からご挨拶だなあ」
「……そういや、桧季は?」
「まだ着替えてるんじゃない? 用事があるなら呼んでくるけど」
桜がいるであろう女性用の更衣室に向かおうとする秋人の肩を啓吾が掴み止める。
「おいバカ、騒ぎになるぞ」
「まさか、中に入ったり覗いたりするわけじゃあるまいし……」
「それでもだよ。っていうか別に用はねえよ。お前らいっつも一緒にいるから、単体でいるの見ると違和感あるってだけだ」
「仕事中は必要以上に関わってないはずだけど」
「仕事以外は一緒だろ。出勤してくるときも、休憩中も、帰るときも」
「よく見てるなあ」
「見ようとしてなくても目立つんだよ、お前は」
啓吾はうんざりしたように大きなため息をつく。
「……なあ。お前らって、本当にただの友達なわけ?」
「え? どういうこと?」
「本当は付き合ってんじゃないかってことだ」
「俺と桜は友達だよ」
秋人の答えに啓吾は、ふうん、と気のない返事をした。
「はたから見てりゃ完全にただの恋人同士だけどな」
完全にただの誤解だ。秋人と桜の仲は彼が思うほど親密ではないし、たしかに第三者からすれば、友達と言われても疑いたくなるような行動をとっているかもしれない。秋人は桜の送迎を徹底しているし、今のところ意見の食い違いで喧嘩になるようなこともなく、仲は良好だ。
工場長である河田に桜との仲を誤解されたままにしてあるのは、彼女一人で森を歩かせないためだ。実際、一緒に出勤して一緒に退勤しているのだから、その一端を他の誰かに目撃されることがあっても仕方がない。その結果、啓吾のように秋人と桜の関係を邪推する者が現れることもまた仕方がないことだ。
関係を誤解される可能性があるということは既に桜とも話し合って、お互いに了承済みだ。なので今さら誤解されるのが嫌だと思う気持ちはない。言及する者がいたとしても適当に流せばそれでいい。
ここで働くことが決まった日、河田から最初の誤解を受けたとき。秋人はその内容を使えると思った。だから口止めだけして弁明しなかった。嘘をつくのは心苦しかったが、そうしたほうが都合がいいのだからと割り切った。秋人が桜を守るために必要な嘘なのだ。悪いことをしたという気持ちはなかったし、今でも考えは変わらない。
「俺と桜ってやっぱそういうふうに見えてるの?」
「だからそう言ってんだろ」
嫌なわけではない。ただ、今はその事実にうしろめたさを感じる。啓吾の言葉を聞いた秋人は、自分がとても悪いことをしているような気がしてならなかった。