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終末恋物語  作者: 氷室冬彦
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3 優柔不断の進展と居場所

 結論から述べると、秋人は桜の提案を拒めなかった。


 桜の家を出たとして、仕事ならば一日もあればすぐに見つかるかもしれないが、住む場所をその日のうちにとなるとむずかしい。町の中に移住する意思がある桜が、数年前から今の今までそれを叶えられずにいたくらいなのだから、物件探しは手こずるものと見たほうがいい。


 かといって宿での連泊生活はいつでも旅立てる利点はあるものの料金がかかりすぎる。前にいた町でのように、また住み込みで働ける環境に恵まれるとも限らない。ならば一人分の空き部屋があって、家主がここに住んでいいと言っているこの状況を手放すのは、賢い選択ではないだろう。ここに留まることで秋人が不利益をこうむることはないのだ。目的のひとつだった新しい住居を、一時的なものとはいえ確保できるのだからむしろ僥倖と言える。


 決して情が移ったわけではない。たしかに桜は気の毒な境遇だ。物心ついたころから家族に冷遇され続け、唯一の味方だった兄を亡くし、頼りにできる伝手もなく、大きな不安と罪悪感に押しつぶされそうになりながら、夜に怯えて毎日をすごしているのだろう。


 この不幸な娘を見捨てて町に移ったとして、なんの憂いもなく暮らしていける自信はなかった。きっと夜が来るたびに後悔する。そのような自責を抱えて生きることなどできない。秋人は冷酷で非情な男ではないが、困っている人すべてに手を差し伸べる聖人でもない。結局もっとも大切なのは自分自身だ。だからこそ自分が納得できないことはしたくない。


 今まで秋人が移住に移住を重ねても悪事を働かず、きちんと仕事や住む場所を見つけ出して人並みの生活を保っていたのだってそうだ。人の道に反した言動をとる自分、自堕落で怠惰な自分――そういった、秋人自身が思う情けない男にはなりたくなかった。


 桜のことを放っておけない。もしここで彼女を切り捨てる選択をすれば、秋人は秋人自身に失望する。ただそれが嫌だった。



 翌朝もまた、秋人が目を覚ますころには既に桜の姿はなく、作り置きされた朝食と置き手紙があった。昨日と同様、仕事に出かけるという内容のものだ。続きに、昼食に弁当を作っておいたと書かれており、たしかにパンの入ったバスケットの横には緑色の弁当箱があった。


 そしてもうひとつ秋人の目を引いたのは、流し台の傍に置かれていたオレンジ色の布に包まれた箱状の物体だった。触れるとほんのり暖かく、ずしりとした重さがある。恐らく桜の弁当箱だ。出かけるときに忘れていったのだろう。


 たしか――森の外にある町の、小さな工場で働いていると桜は言っていた。



 *



「うーん、ここ以外にそれっぽいとこってないよな……」


 森の外に出て少し歩いた場所に、背の高い金網に囲まれた建物を見つけた。味覚と引き換えに視覚を強化した状態で桜の姿を探して、しきりにあたりを見まわしながら敷地内に入る。


 大きな建物が三つ並んで建っており、ひとまず一番近くの建物に近付いた。半分開いた状態になっているシャッターから中を覗いてみるが、工場というより倉庫と呼ぶほうがふさわしい様相だ。作業服に身を包んだ作業員たちが忙しそうに動きまわっていて、ざっと見た限りでは桜の姿はない。


「おい、誰だ。そこでなにしてんだ」


 しばらく眺めていると突然背後から声をかけられた。振り返ると、怪訝そうな顔をこちらに向けた青年が立っている。中の作業員たちと同じ服を着ているので、ここで働いている者だろう。見たところ歳は二十かそこらだ。秋人より若く見える。


「ここになんか用か?」


 青年は警戒心をあらわに睨みつけているが、秋人は鈍感だ。


「ああ、えっと、もしかしてなんだけど、ここに桧季桜って子――」


「秋人さん?」


 遠くから聞きなれた声が聞こえた。そちらを向くとやはり、作業服姿の桜が立っている。目が合うと彼女は急いでこちらに駆け寄った。


「あ、秋人さん。どうしてこちらに?」


「いや、お弁当忘れていったみたいだったからさ」


 言いながら弁当箱を小さく掲げて見せると桜はあっと声をあげた。


「す、すみません。わざわざ届けに来てくれたんですね」


 桜が秋人から弁当箱を受け取ると、青年が桜の隣に立ち、知り合い? と尋ねた。正直者の桜がなにかを言う前に秋人がそうだよ、と答える。


「桜ちゃんとは友達さ。知り合ったばかりだけど」


「友達がどうして弁当届けに来るんだ?」


「いや、それは……朝にちょっと会って話をしたんだよ。そのときに忘れていったのを届けに来ただけで。ね?」


 同意を求めて桜を見る。桜は秋人がなぜ嘘を吐くのかわかっていないらしく、しばらくきょとんとしていたが、秋人が話を合わせてほしがっていることは伝わったようで、ややぎこちなくも頷いた。


「はい。あの……はい、そうです」


「ああそう」


 青年は納得したのかしていないのか、ぶっきらぼうに返す。その妙に険悪な空気には気が付いたらしい桜が、秋人と青年の間に割り込んだ。


「え、ええっと、あの、梅梨(うめなし)さん、こちらは秋人さんです。私の――はい、お友達です。秋人さん。この人は私と同じくここで働いている、梅梨啓吾(うめなしけいご)さんです」


「啓吾か。よろしく」


 秋人は握手をするつもりで手を差し出す。梅梨啓吾と紹介された無愛想な青年は秋人の顔をじろじろと観察してから、求められたから仕方なく、といった様子で手を握り返した。


「おーい、梅梨! 桧季!」


 三人がそちらに目を向けると、大柄な初老の男が桜とシャッターの奥から姿を現すところだった。


「みんな忙しいってのに二人してサボるんじゃ――」


 そこまで言ったところで男の視線が秋人を捉える。男は白髪の混じった頭を掻きながら参ったような顔をした。


「おいおい、勝手に部外者を中にいれるんじゃない。お前たちの知り合いか? それともただの不審者か?」


「こ、工場長。違うんです、この方は私の忘れ物を届けてくれただけで――」


「サボってたわけじゃないっすよ。こいつがここに突っ立ってたから声かけただけで」


「あ、こんにちは」


 桜と啓吾があわてて弁明する隣で、秋人だけがのんびり笑っている。啓吾に脇腹を肘で突かれた。


「おいっ、お前のせいで俺たちまで怒られてるんだぞ」


「いえ梅梨さん、私が悪いんです。秋人さんは悪くありませんよ」


 桜とて悪くないだろう。忘れ物をしてしまったのは仕方のないことだ。誰にでもある。秋人など自分に関する記憶すらどこかに忘れてきたのだから、弁当を忘れたくらいはかわいいものだ。


「おじさん、ここの責任者の方ですか?」


「そのとおりだが、君はなんだね?」


 秋人が一歩前に出る。工場長、と桜が呼んでいたのだからそうなのだろう。男は少々威圧的に腕を組んでみせるが、桜と啓吾に注意したときの声はそれほど厳しいものではなかった。おそらく本来は温厚な人だ。


「今ちょっとだけ中の様子を覗かせてもらいましたが、ここはとても忙しいようですね」


「まあなあ……ここで働いてるのは、俺も含めてそこそこ歳のいった連中ばっかりで、いまいち馬力が足りないし、まあこの二人みたいに若いのもいるにはいるが、人手自体あんまり――いや、それがどうした?」


「実は俺、最近このあたりに移住してきたばかりで、今ちょうど仕事を探しているところなんです。人手が足りないなら、俺をここで雇ってもらえませんか?」


「えっ」


「ええっ!」


 桜は意外そうな、啓吾はどこか嫌そうな声を上げる。工場長は小皺の目立つ目を(しばた)かせていたが、わざとらしくフンと鼻を鳴らし、嘲笑まじりに秋人を指差した。


「君を? いやあ……たしかに猫の手も借りたいほどだが。だからって君はな、頼りがいがあるように見えるかと言われるとちょっとなあ。男で力仕事ができないのは困るんだ。そんな細い腕で重いものを運べるのか? 怪我するんじゃないのか?」


「あ、俺こう見えて丈夫で、頭は悪いですが体力だけは自信あるんですよ。力仕事なら望むところです」


 見かけだけなら、たしかに頼りない体格だと思う。秋人の体はお世辞にも筋肉質でたくましいとは言えない。工場長は半信半疑なようだったが、やがて大きく息を吐いた。


「君、名前と年齢は?」


「秋人です。歳は――二十一です」


「そうか。俺は工場長の河田かわただ。まあ人手があるに越したことはない。そんなに自信があるなら、ひとまず研修と面接を兼ねて午後の作業に参加してみてくれ。正式に雇うかどうかは、働きぶりを見て考えさせてもらうよ。あ、仮に不採用だったとしても、働いた分の給金はちゃんと出すから、そこは心配いらない」


「ありがとうございます」


「うちはしがない下請け町工場だが、ありがたいことに仕事はそれなりにある。製造用の工場は奥の、あっちの建物だ。他ふたつはまあ倉庫だな。この倉庫から製造に必要な部品やらの材料を工場に運んで、あっちの倉庫ではできあがったモンを梱包して配送の手配をする。ま、ざっくりまとめると倉庫内での軽作業と工場内での製造業務が主な仕事ってことだ」


「よく思うんですけど、軽作業って言っても実際なんにも軽くないですよね」


「だよなあ、俺もそう思う。じゃあ『軽』とかつけんなよって」


 河田は次に啓吾を見る。


「じゃあ梅梨、ひとまず倉庫のほうで仕事教えてやってくれ」


「え、マジすか……」


「よろしく先輩」


 啓吾は心底嫌そうな顔をした。

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