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終末恋物語  作者: 氷室冬彦
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2 木製の夕方に居座るくすみ

 その夜、二人の間になにかあったのかと言うと、当然なにもなかった。お互いに深く踏み込みすぎた話も余計なトラブルもなく、秋人は廊下の奥側の部屋――目覚めた部屋の隣にあった部屋――を借りて、静かに一夜を明かしたのだった。


 秋人が借りた部屋は普段は使っていない空き部屋だと桜は言っていたのだが、なにもなくガランとした殺風景な部屋でもなければ、逆にいろいろなものが押し込められた物置部屋でもない。ベッドやクローゼットなどの生活に必要な家具があり、しかし小物類はなく生活感はない。空き部屋――そう称するよりないのは事実だろう。


 桜には兄がいて、この部屋はもともとその兄が使っていた部屋らしい。数か月前に恋人との結婚が決まり、この家を出ていったのだと食事の際に桜は言った。大きな家具は運び出すのが困難なのでそのままにしてあるそうだ。


 ちなみに最初に秋人が寝かされていたのは桜の部屋だ。空き部屋は掃除に入るとき以外は鍵をかけていて、秋人を背負ったまま鍵を持ち出してくるのが大変だったため、自分の部屋に運び込んだらしい。その話を聞いた秋人はまた彼女に対して苦言を呈することになるのだった。あらゆる土地で人間の良い部分も悪い部分も見てきた秋人からすると、本当に心配になるほどのお人好しだ。



 翌朝、秋人が目を覚ますと家の中に桜の姿はなかった。リビングだか玄関だかキッチンだかわからない、三つの用途が一緒くたになっている大部屋を覗いてから、彼女の部屋の扉をノックしてみたが返事はない。もう一度リビングに戻ってみると、テーブルの上に白い布をかけたバスケットと、ガラス製のフードカバーとメモ用紙が一枚置いてあることに気付いた。すぐに置き手紙だと察して目を通す。


『秋人さんへ。仕事があるので夕方まで留守にします。朝食を用意しておきましたので、パンと一緒に召しあがってください。――桜』


 小さく細い文字で簡潔に書かれた手紙を読んで、秋人は呆れていいものか怒ったほうがいいものか、しばし悩んだ。秋人が悪心を起こさないと信じて疑わない、その根拠はいったいどこからくるのだろうか。とことんまで不用心だ。


 バスケットにかけられている真っ白な布をめくると、手紙にあったとおりいくつかのパンが入っている。椅子に座りながらひとつ手に取り、もう一度桜の手紙を一瞥した。泊めてもらったことと朝食の礼を言いそびれたまま出ていくのは忍びないが、いつまでもここに留まるわけにもいかない。彼女の危機感のなさについて今一度しっかり話し合いたい気持ちは脇に置いて、新たな仕事と住処を探さなければ。



 *



 扉の軋む音で目が覚めた。あたりは暗く、なにも見えないというほどではないが、周囲の様子を瞬時に理解できるほどの明かりはない。胸のあたりが重く苦しい。しばらくそのままぼんやりしていたが、暗闇の奥から聞こえた声で頭の霧が晴れた。


「……秋人さん?」


 一人分の軽い足音が数回、床板から伝わった。不意に目の前が真っ白になり、あまりの眩しさに目をつぶった秋人は、瞬間的に視神経をいじって強引に瞳孔を閉じた。再び目を開けてみると、さかさまになった桜が息を切らしながら部屋の中を見まわしている。さかさま、というが、秋人が床の上に仰向けになっているからそう見えるだけだ。


 桜は大きな戸棚とともに地面に倒れ込んでいる秋人を見るや、目を見開いて顔を真っ青にしながらこちらに駆け寄ってくる。


「あ、秋人さん! どうしたんですか!」


 棚に押し倒されたままで秋人はあいていた右手を振る。


「あれ? ええと、あ、おかえり桜ちゃん。ごめんね、昼にはここを出ていくつもりだったんだけど――」


「そんなこと、今はいいんです! だ、大丈夫ですか? すぐどけますから……」


「あ、へーきへーき。意識飛んじゃってただけだから、どこも痛くないし」


「意識が飛んだだけ、って、意識が飛んだ時点で全然平気じゃありませんでしょう!」


「軽い……ほらあの、脳震盪だよ。大丈夫、もし具合が悪くなったらすぐに言うから」


「ぜ、絶対ですよ?」


 あっさりと棚の下を抜け出した秋人は、事故の経緯を彼女に話すために日中の記憶をたどった。


 朝食後に食器を片付けた秋人は、とくに長居するつもりもなくこの家を発とうとした。早いところ町に出て、日が高いうちに新たな仕事と手ごろな住処を探すはずだったのだ。そのためには、遅くとも昼ごろにはここを出ていなければならない。


 しかし桜には一宿一飯の恩があり、秋人はその恩を返せないどころか、別れの挨拶も告げていない状況だ。このままなにも伝えられずに出ていくことは少々ためらった。せめて感謝の言葉くらいは伝えておきたいと思い、桜が残した置き手紙の裏面に書き足す形で手紙を残した。


 そして使わせてもらった部屋を掃除してから出て行こうと思った。なにもしないよりは感謝の気持ちが伝わるだろうという建前で、一方的に施しを受けたにもかかわらず無言で旅立つうしろめたさを払拭したい本音を覆い隠すために。要は心残りなくすっきり立ち去りたいという自己満足だ。恩知らずに振る舞う自分を、他でもない自分自身に見られたくなかっただけだ。


 ともあれ秋人は、もともとは彼女の兄が使っていたというあの空き部屋の、床を掃いて窓を拭いて、換気もして、できる限り綺麗にしてから掃除道具を片付け、ひとまずはこれで十分だろうと息をついた。


「朝、借してもらった部屋を掃除したんだよ。って言っても、ベッドを整えて、ちょっと床を掃いただけなんだけど。そのあと出て行こうとして、たしか……あ、ボタンがね。取れちゃって。服の」


 秋人は自分の胸元に視線を落とすと、桜もつられて目線を落とした。襟元のボタンがひとつなくなっており、代わりに糸が短く垂れている。


「もともと取れかけてたみたいだけど、俺全然気付いてなかったんだよね。で、そのボタンがこの棚の下に転がっちゃってさ。それを取ろうとして……」


「棚をずらしたら、倒れてきて下敷きになったのですか?」


「ていうか、持ち上げたら倒れたって感じ。食器棚のほうじゃなくて本当によかったよ」


「も、持ち上げた?」


 重さに耐えきれずに倒れたのではない。むしろその逆、さぞ重いだろうからとめいっぱい力を込めて持ち上げたこの棚が、思った半分ほどの重量すらなく、あまりに軽かった。しかし渾身の力で持ち上げたその勢いを殺しきることができず、そのままひっくり返ってしまったというわけだ。


 厳密には――秋人はそこで一度死んだ。下敷きになった瞬間に戸棚の取っ手が胸元に当たり、肋骨が折れた感覚と肺になにか刺さった感触がしたのだ。しかし今、秋人は全身のどこにも異常を感じていない。死んで復活した証拠だ。


 だが死亡して蘇生するまでの間にこれほど長い時間を要したことはない。おそらくそのあと順当に蘇生して、とはいえ肉体は意識がない状態で下敷きになったままなので、また圧死したのだだろう。死にすぎである。


「ごめんね、掃除するつもりが余計に散らかしちゃって。棚の中もぐちゃぐちゃになってるだろうし」


「それは大丈夫です。ほとんどなにも入っていませんから」


「ああ――」


 だから異様に軽かったのか。


「まあその、それはそれとして」


 言いながら秋人は立ち上がり、床に倒れたままの棚をひょいを持ち上げて、もとの位置に戻した。桜はおどろいたように秋人を見上げたが、秋人は棚の扉や角など、あちこち触ったり覗いたりするのに忙しくて気付いていない。


「うん、よかった。どこも壊れてないみたい。でも倒れたときに埃が舞っただろうし……」


「棚の上の埃は昨日の朝に拭いたばかりですから大丈夫ですよ」


「そうなの?」


「はい。私、埃とかはちょっと……こまめに掃除しないとくしゃみが止まらなくなるんです」


「そっか。じゃあ意外と汚してない……のかな?」


「はい」


 しばらく沈黙が続き、言い表しようのない微妙な気まずさに耐えかねた秋人は玄関を指さした。


「じゃああの、棚ごめんね。泊めてくれてありがとう。ご飯も。今はなにも返せるものがないけど、また落ち着いたころに改めてお礼に来るから……」


「ま、待ってください! もう外は真っ暗です。昨日も言いましたが、夜は危険です!」


 外に出ようとする秋人を桜があわてて引き留めた。


「だからって、さすがに今日も泊めてほしいなんて図々しいこと言えないよ」


「私が引き留めているのですから、図々しいもなにもありません! たしかに、私と秋人さんは昨日会ったばかりで、秋人さんにとっても私は信頼できる相手でもありません。でも今はそんなことは関係ないのです。とにかく外に出ないでください!」


 桜は秋人の腕をしっかりつかみ、声を震えさせながらそう訴える。最後のほうはまるで悲鳴をあげているかのようで、そのあまりに必死な様子を怪訝に思った秋人は、一度彼女に向き直った。


「……君は、どうしてそこまで夜が怖いんだ?」


 桜の肩がぴくりと揺れた。昨日から思っていたことだが、彼女の夜の森に対する拒絶と、その執着の程度はいささか尋常ではない。


 桜は真っ青な顔で秋人を見上げた。


「死んで、しまいます」


 まるで、暗闇に潜むなにかに聞かれることを恐れているかのような小さな声だ。


「俺は死なないよ」


 桜を安心させるための言葉ではない。ただ事実を述べただけだ。五感をある程度まで操れる秋人なら、夜の闇も、獣のにおいや忍び寄る足音も逃さない。桜はうつむいて首を横に振り、もう一度同じ言葉をつぶやいた。


「……私の兄も、あなたと同じことを言って、死んだのです」


 桜の兄――少し前に結婚してこの家を出たという、あの空き部屋の持ち主だった人。


「君のお兄さんは結婚して出てったんだろ?」


 桜は頷いて、少しの間黙っていた。意識的にゆっくりと呼吸して、気持ちを落ち着かせているらしい。


「去年の、暮れのことでした」


 桜の兄は四年ほど交際を続けていた恋人と入籍を果たした。義姉となった女性はとても優しい人で、皆が二人の結婚を祝福していた。桜も二人の幸せを心から祈っていた。――というところまでは、秋人も既に聞いていることだが、桜はその続きをぽつぽつと語った。


 結婚が決まってしばらくは引っ越し準備などであれこれ忙しくしていたが、やがて新しい生活が落ち着きはじめたころに兄が桜に会いに来た。二人で一緒に住んでいたこの家で、久しぶりにゆっくりと話をした。義姉との馴れ初めや思い出話、今の生活とこれからについてのことなど。兄妹は時間を忘れて談笑し、いつの間にか日が暮れていた。妻を家に待たせているからと、兄は帰っていった。


「夜の森に魔獣が出ることは、私も兄も知っていました。でもこれまで夜に出歩いたことはほとんどなくて、ときどき帰りが遅くなったとしても、危険な目にあったことや危ない予感がしたこともありませんでした。危ないとわかっていても、実感がなかったんです。私は兄を止めませんでした」


 そのすぐあとに彼女の兄は死んだのだという。暗い森に男の絶叫がこだまして、桜が駆けつけたころにはもう遅かった。今まで大丈夫だったから問題ないだろう――そんな楽観的な甘い考えで兄を送り出したことをひどく後悔したが、悲しみに暮れている暇はなかった。兄の死体を喰らっていた大きな獣が、桜の存在に気付いたのだ。


「見てください」


 桜は椅子に座ると、少し腰をひねって右脚のソックスを下げた。膝上丈の長い布地の下から、日に焼けていないふくらはぎが見える。そしてその細く白い脚には、大きな傷痕があった。傷はなにかで切り裂かれたような形をしており、歪に残った縫合跡が痛々しい。


「なんとか町まで逃げ込んだときに、たまたまその場に通りがかった能力者の方が助けてくれたので、私はこれだけで済みました。でも兄は……」


 先の言葉を曖昧にに濁して、桜はかぶりを振った。遺体はきっとひどい状態だっただろう。回収すらできなかった可能性もあるが、言及すべきではない。


「怪我はもういいの?」


「しばらくは大変でしたけど、今はもう普通に走ったり、跳んだりもできます」


 歩くときに足を引きずっている様子はなかったので、後遺症なく治ったのだろう。


「そんなことがあったのに、どうしてまだここに?」


「家のまわりには魔物避けの花を植えているので、中に入ってしまえば安全は確保できます」


「そうじゃなくて、この家を出ようとは思わないの?」


 秋人の問いに桜は表情を暗くした。


「……どこにも行けません」


「他の家族は?」


「両親とは……もともと折り合いが悪くて。それに兄の一件は私に責任がありますから、余計に……」


「責任って、お兄さんの件はただの不運だ。君は悪くないだろ」


「いえ……私は、夜の森が危険であることを知っていて送り出したのですから」


「そんなことはお兄さんだって知ってた。それでも出て行ったなら自己責任だよ。当たり前だろ。君とお兄さん、歳はいくつ?」


「……私は今年で十七歳になります。兄は……二十歳になったばかりでした」


「ライニはたしか十六歳か十七歳くらいで成人だったよね。お兄さんはもうとっくに、自分で物事を判断して行動して発言できる大人だ。大人なら自分の行動や言葉には、自分で責任を負わなきゃいけない」


「――私はっ!」


 両手でスカートを握りしめながら下を向いていた桜が、耐えかねたように顔を上げる。


「……引き留めなかったんです。あのとき、危ないからダメだって引き留めていれば、あんなことには」


「わかってる。でも俺は、君が引き留めていたとしても同じ結果になったと思うよ。人ってのは結局、自分が実際に危ない目にあってみないと、まわりがどれだけ言って聞かせても理解しないものだ。みんな自分だけは大丈夫だって思ってる。君のお兄さんみたいに死んだ人、何人も知ってるんだ」


 要は、そんなことはこの世にありふれた危険なのだ。世界中のいたるところで、毎日同じような理由で何人もの人が死んでいるのだ。


「お兄さんが、今日は泊まらない、このまま帰るって判断したなら、そしてその結果死んだなら、それはお兄さん自身の責任であって、君の責任にはならないよ」


 言葉を区切って強調しながら言い聞かせるが、桜は納得がいかないようで、泣きそうな顔をしながら眉間にしわを寄せていた。


「身内の不幸で、しかも自分と会ってた直後にそうなったってなると、悩んじゃうのもわかるよ。あのときこうしていればって無限に考えちゃうよね。そのことで他の家族からも責められてたなら、なおさら。でも君のせいなんかじゃないよ、絶対に」


 実際、彼が不用心だったのは事実だ。その不用心があだとなって命を落としたのだから。愚かで浅はかだったとまでは思わないが、危機感が足りなかった。結婚直後で気が緩んでいたのだろう。それで死んでしまうなら仕方がなかったとも言えない。なんにせよ桜が責任を感じる必要はないのだが、秋人の言葉でこれ以上話すと、まるで桜の兄を貶しているように捉えられてしまいそうだ。


「間が悪かったんだよ。それだけ」


 先ほど、桜が帰ってきたとき。


 彼女が息を切らしていたのは、暗くなった森の中を走って帰ってきたからなのだろう。怯えているのだ。だから執拗に秋人を引き留めるのだ。兄のことが心の傷となり、夜の森が明確に恐怖の対象となっていて、それまでどおりの生活ができなくなっている。仮に兄の死が桜のせいだったとして、今もここで恐れを抱きながら暮らしている彼女は、もう既に十分に償ったといえるのではないだろうか。


 黙り込んでしまう桜に、秋人は疑問を投げかける。


「それで実家から勘当されたってこと? だからそれ以降もここにいるんだろうけど、危険な場所に住んでるってわかったなら呼び戻そうとするもんじゃないの? 君まで死んでしまうかもしれないのに」


「父は忙しいんです。仕事でいつも家をあけていて」


「いや忙しいったって、家族のことで、しかも命にかかわることでしょ? お母さんは?」


「母は……私のことはどうでもいいんです。私は兄みたいに優秀じゃないので」


「どういうこと?」


 話によると、亡くなった兄は桜とは正反対な人物だったらしい。社交的で要領もよく、文武両道で人望のある、たいへんに素晴らしい青年だった。対する桜はとても気が弱く、頭もそれほどよくなければ、運動も得意ではなく、なにをするにも中途半端で要領が悪い。友達も少なくて、ウジウジしていてどんくさい――桜は兄を高く評価する反面、自分自身を徹底的に貶した。


 秋人にはいまいちピンとこなかった。家事の様子を見ていても、話を聞いていても、桜が要領の悪いどんくさい娘には思えなかったからだ。たしかに内気な性格で、教養が十分でない様子はある。だがそれだけだ。彼女は秋人よりよっぽどテキパキしていて頭の回転も速い。


 しかし桜は本当に、自分がどうしようもなくダメな人間だと思い込んでいるようだ。そんな桜だから母も愛想を尽かしたのだと、彼女は言葉少なに語った。桜よりよっぽど鈍感でどんくさい秋人ではあるが、彼女の自己肯定感の低さは、生まれ育った家庭環境が原因だということはすぐにわかった。


 兄は優秀で、周囲にいるすべての人々から将来を期待されていた。その妹はなにをやらせても兄に劣るダメな子。幼いころからそういう刷り込みがあったのだ。母親は兄を優遇し、妹を冷遇した。父親は育児に無関心で、母の方針に口を出さなければ、娘をかばうことも、息子に娘を守るように言いつけることもしなかった。


「ねえ、お兄さんは? 桜ちゃん、お兄さんはどんな態度で君に接してた?」


 話を聞いていた限りだと兄妹仲はよかった様子だが、兄と妹とであからさまに差をつけられて育ったなら、それが当たり前のこととして根付いているなら。自分より不出来な妹は粗末に扱われて当然だという意識が、もし兄にも芽生えていたとしたら。


 顔も名前も知らない人々に対する怒りがこみあげてくる。桜は秋人の表情から質問の意図を察したらしく、あわてて首を振った。


「あ――あ、いえあの、お兄ちゃんはとても優しい人です。私本当に大好きでした。そもそもここに住むことになったのも私をお母さんから遠ざけるためで。この家もお兄ちゃんが、あの、兄はいつも私を心配してくれていたんです」


「本当に?」


「は、はい。兄は一日でも早く家を出たいと、いつも言っていて。働いてお金を貯めて、三年ほど前にこの家を買いました」


「買った? 三年前ってことはお兄さん十七歳だよね。なんの仕事してたの? 法に触れるようなことじゃないよね?」


「いえ、あの、危ない仕事をしていたわけではないですよ。割のいい仕事を掛け持ちしていたんです。年齢は、もしかしたら少しごまかしていたのかもしれませんが」


「いやでも家一軒でしょ? 借り部屋でも借り家でもなく。そう簡単に買えるもの?」


「私も最初はそう思いましたが、兄はとても安く買えたとしか言わなくて。私が気にしないようにそう言ってくれたのかなって思っていたら、兄の部屋を掃除したときに家の買付証明書が出てきて。本当にとっても安かったんです。びっくりしました」


「安かったんだ……」


「小さくて古くて、森の中で危険だし不便だから何年も買い手がつかなくて、どうしようもなくて取り壊される予定だった物件でしたので。このあたりで一番安価だったそうです」


 一番安価というのが、この家の値段を付近の借り部屋の家賃で割って考えたときに、ごくわずかな年月でモトが取れるという意味なのか、本当にタダ同然の値段で買い付けたという意味なのか。どちらかはわからないが、秋人が思う手ごろな住居はこのあたりでは希少なようだ。町に住むなら多少の背伸びが必要だろう。


「なるほどね。ここに住むようになってからは、どういうふうに暮らしてたの? 住み始めたとき、お兄さんになにか言われた?」


「兄は新しい仕事を見つけて働いていました。でも私はなにも……兄は、成人するまで働かなくていいから、本を読んだり友達を作ったり、好きにするように言ってくれました。あ、あと」


「あと?」


「母のこと――今まで母に言われたことは全部忘れるように、と」


 秋人は少し考え込んだ。どうやら彼女の兄だけは、家族の中で唯一まともな人間のようだ。正真正銘、妹思いな好青年だったのだろう。


「ずっとここで暮らすつもりはなかったんです。新しい引っ越し先を探して資金を貯めるまでの、つなぎ、のようなもので。兄はそのためにお金を貯めていましたが、私は兄に結婚を考えている相手がいることを知っていました。なので、兄が貯めたお金は結婚のための資金にあてて、私は自分で引っ越すための資金を用意するつもりで、兄にもそう言いました」


「お兄さんは反対した?」


「はい……でも、説得しました。私はもう十分よくしてもらいましたから。兄の優しさに甘えずに、自分のことは自分でなんとかしたかったのです。それで私も働くようになりました」


「結局、まだいい場所は見つからない? 働きはじめて、もう結構経ってるんでしょ?」


「一時は、はい。引っ越せるだけのお金が貯まって、あとはいい物件が見つかるのを待つだけでした。兄に報告すると安心したみたいで、それから間もなく兄は結婚して……」


 秋人はその先になにが起きたのかを察した。


「……お葬式のために使った?」


「はい。それで残った分はすべて、せめてもの慰謝料として兄のお嫁さんに。はじめは拒否されました。私の事情を知っている方だったので、自分のために使いなさいと。でも、私がどうしても受け取ってほしいとお願いして、ほとんど押し付ける形で、収めていただきました」


「お義姉さん、いい人だったんだね」


 桜は深く頷いた。


「……一度も、私を責めませんでした。それ以降は連絡をとっていなくて、今どうしているのかはわかりません」


 秋人はなにも言葉が出ずに黙り込んでしまった。この話を続けていいものか、それとも話を変えたほうがいいのか。出会って二日目の相手にここまで打ち明けたということは、それだけ大きな心の傷になっていたということだろう。


 二人の間に流れる長い沈黙をやぶったのは、意外にも桜のほうだった。


「私……」


 一度迷うように目を伏せてから、彼女はなにか眩しいものを見るような目で秋人を見た。


「自分でも変だと思いますけれど、少し、安心しました。帰ってきたとき、まだ秋人さんがここにいてくれて。倒れていたことにはびっくりしましたが、そんなことより、家に誰かがいて、おかえりって言ってもらえたことが……とてもうれしくて」


「そんなの……」


 普通だよ、と言いかけてやめた。世間一般を基準にすればそうかもしれないが、少なくとも彼女にとっては普通のことではない。兄と暮らしていたころはともかく、今は一人なのだ。この家で暮らし始める前など、もっと孤独だったはずだ。


「秋人さん。町で働き口と住む場所を探すと、言っていましたよね」


「そうだね」


「あの……」


 桜はほんの少しの間を置いてから、意を決したように切り出した。


「秋人さんさえよければ……新しい住居とお仕事が見つかるまで、この家にいてもらえませんか?」


 それは危機感のないお人好しな少女の親切心などではない。夜に怯えきった一人の少女が、助けを求めているのだと、秋人にはそう感じられた。

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