1 小部屋の外、お人好しの少女
次に目を開けたとき、真っ先に視界に入ったのは木造の天井だった。無心のまま数度まばたきをして、天井だなあ、と目に見たままの事実を心で呟きながら体を起こす。広い森の中で居眠りをしていたはずが、なぜか今は見覚えのない小さな部屋の中だ。途中で起きて移動した記憶はない。
秋人が寝かされているベッドと、その隣には古いサイドテーブル。部屋の端に小さなクローゼットがあり、壁際には扉がひとつ。サイドテーブルの上に小さな時計が置かれていて、この時計が壊れていないなら現在時刻は午後八時を半分すぎたころだ。窓の外が暗い。あくびをしながらベッドを這い出た。
ここはどこだろう――ようやくその疑問を頭に浮かべながら、両腕を真上に挙げてぐっと伸びをする。長いこと眠っていたようだ。頭を掻きながら立ち上がり、とくに迷いもせず当たり前のように壁際の扉を開けた。
目の前に壁があった。左右両側に短い廊下が続いている。左側は行き止まりになっているが、秋人がいた部屋とは別にもうひとつ扉があり、右側の廊下の先もどこかの部屋につながっている。それ以外にはなにもない。その右側の部屋から水の音と、それにまざってカチャカチャと陶器がぶつかり合うような高い音が聞こえる。
とくになにも考えず物音がするほうへ向かった。ここはどこなのか、なぜ自分がこんなところにいるのか、疑問はあれど不安や緊張はない。なにか危険があったとして、最悪の場合でも殺されるだけなのだから恐れる必要はないのだ。
通路の先は秋人がいた部屋よりひとまわり大きな空間が広がっていた。正面の窓際に小さなキッチンと、その隣に戸棚が二つ。片方はガラス戸のついた食器棚で、もうひとつの戸棚の中身はわからないが、おそらく雑貨類を入れているのだろう。棚から一畳分の間をあけてひとつの扉がある。扉の前の床に小さなマットが敷かれていることから、そこが玄関だ。部屋の中央には小ぶりなテーブルと椅子が二脚、向かい合わせに置かれている。キッチンとリビングと玄関をひと部屋にまとめたような部屋だ。
部屋は無人ではなく、正面のキッチンにおさげ髪の少女がこちらに背を向けた状態で立っている。先ほどから聞こえていた水と陶器の音は彼女が食器を洗っている音だ。秋人の足音には気付かなかったらしく、こちらを振り返る様子はない。少女が洗った食器を布巾で拭きはじめたところで部屋に一歩踏み込んだ。
ちょうどそのとき、一枚の皿が少女の手から滑り落ちた。ガシャン、とガラス質な衝突音が空気を裂く。小さな背中が短く声をあげて一瞬だけ固まった。秋人も思わず動きを止める。少女はすぐにその場に屈んで皿の破片を拾うが、破片に触れた瞬間に小さく呻いてさっと手を引っ込めた。そこでようやく秋人も我に返る。
早足で少女のもとへ歩み寄ると、足音に気付いた少女が顔を上げて、あっという顔をした。人差し指の腹に血がにじんでいる。あわてて破片に触れたせいで切ってしまったのだ。
「大丈夫?」
声をかけながら少女の正面に屈む。灰色の目と、みつあみにされた薄茶色のおさげ髪。小柄なうえに痩せていて、色白の肌も相まってなんとも貧弱そうだ。少女は秋人と目が合うと、大きな瞳を見開いておどろき、ひゃあ、と声をあげながら尻餅をついた。秋人はとくに気にせず床に視線を落とし、散らばった皿の破片をさっさと拾い上げては左手に集めた。
「あ――」
少女はあわてて体勢を整えると、身を乗り出して近くの破片を拾いはじめる。最後の破片を拾おうと手を伸ばしたとき、秋人の手の上に小さな白い手が重なった。はたと顔を上げると、すぐ目の前に色素の薄い顔がある。少女はまた声をあげてうしろにさがる。近付いたり離れたり叫んだり、忙しい娘だ。思わず笑ってしまう。そんな秋人の能天気さにつられてか、はたまた恥じらいをごまかすためか、少女もぎこちなく口角をあげた。
ホウキとチリトリで小さな破片を集め、二人がかりで床を掃除してから、テーブルを挟んで向かい合わせに座った。
「えと、あの……あ、ありがとうございます。手伝っていただいて……」
「いいよいいよ、それより指は大丈夫? 切ったんじゃないの?」
「あ、は、はい。ほんのちょっとの傷です、から、すぐに治ります」
「本当に? 血が出てたよね?」
半分立ち上がって、テーブルのふちにおとなしく添えられていた少女の手をそっと引き寄せてみる。片づけをしている間に血は止まったようだが、この白い肌の上では傷口の赤くなっているのがいやに目立って痛々しい。この切り傷にどの程度の痛みが伴うのか秋人にはわからないが、せめて傷口の保護くらいはしておくべきだろう。
「血は止まってるけど、まだ痛いよね? 絆創膏は? 貼っておいたほうがいいと思うよ」
「あ、あ、あの……」
初対面で馴れ馴れしく近付きすぎたか、と秋人が反省する間に、少女の顔がみるみる赤くなっていく。
「あ、おっと、ごめん。急に触って」
「は、い、いえ。す、すみません。人と……あまりあの、な、慣れていなくて。すみません、わ私、すぐ顔が赤くなるんです、もともと」
少女は桧季桜と名乗った。秋人と桜のいるこの家は、先ほどまで秋人がいた森の中にあり、彼女はここに一人で暮らしているらしい。秋人は自らも名乗ったあとに、まず軽く身の上を説明しておくことにした。
「俺はずっと前に家族をなくして、いわゆる天涯孤独ってやつなんだ。わけあって故郷にも帰れない状態だから、いろんなところを転々としながら暮らしてて。森を抜けた向こうの町に行こうと思ってたんだけど……えーと、そういえば俺はどうしてここに?」
「あ、あの、仕事を終えて、帰る途中にあなたを見つけたんです。木の下で倒れていて……このあたりは、よ、夜になると魔獣が出ます。声をかけたのですが、目を覚ます様子もなくて……だからといってその、放っておくわけにもいきませんでしょう。最初は町の医療所に、と思っていたのですが、私の家のほうが近かったので……」
「運んでくれたの?」
「はい、その、人を呼ぼうにも、は、離れている間になにかあってもいけませんし。でも自然に目を覚ますまでそのまま待っているというのも……変でしょう?」
「まあ……え、でも運んだって、君一人で?」
秋人の問いに桜は頷く。桜と秋人の間には頭ひとつ分以上の身長差がある。秋人も秋人で細身なほうだが、それでも長身であるし、気を失っている状態の人間を運ぶには、意識のある人間を運ぶときよりも力が必要になるものだ。今の自分の体重がどの程度なのかはわからないが、たとえ標準的な数値だったとしても、女性が自分より体の大きな男性を運ぶというのは簡単ではない。とくにこの少女の細腕では無茶なことだ。何度も休憩を挟みながら秋人を運ぶ桜の姿を想像してしまい、少し申し訳ない気持ちになる。のんきに昼寝をしたばかりに、いらぬ苦労をさせてしまった。
「大丈夫だった? 重かったでしょ、俺」
「い、いえ、私、こう見えて結構力持ちなんです。それに秋人さん、思っていたより軽くって、びっくりしました」
「え、軽かった?」
「あ、はい。あの……ちゃんとご飯は食べていますか?」
「そりゃあ……」
指摘されて思い出したが、ここしばらくはまともに食べていない。以前の仕事が忙しかったのもそうだが、とくに事件で命を落としたあとはずっと棺桶の中にいたので、思えば水すら満足に口にできていなかった気がする。急に喉がかわいてきた。
「俺の食事事情はどうでもいいとしてさ。それより桜ちゃん、ちょっと不用心だよ。こんな場所に一人で住んでる女の子が、見知らぬ男を家に運び込むなんて。俺がもし人殺しだったり強盗だったり、もっと別の……悪いことを企んでるやつだったらどうするわけ?」
「わ、悪いことをするような人には見えません。い、今お話ししてみても、そう思います」
「え、いやいやいや、人を見た目で判断するものじゃないよ。悪い人がみんな悪い顔してるわけじゃないだろ? いい人に見えるように振る舞っているだけだったら? 俺が何日も前から君を狙っていて、君が通りかかるのを見越したうえで、わざとあそこで眠ったふりをしていたとしたら? 俺がこの場で君になにをしても、助けなんて来ないんじゃないの? そういう防犯対策とかちゃんとあるの?」
「そ、それはハイリスク、ローリターン……というものではありませんか? 悪いことをするために私に近付くなら、ここが孤立した家だと知っているなら、そんな遠回りなことはしないで、刃物を持って直接家に押し入ったほうが早いです。それに私にはお金もありませんし、誰かに恨まれるようなことも……きっと、その……」
桜はうつむきそうになった顔をあげる。
「す、少なくとも……見知らぬ人から恨まれることは、ないでしょう。私は普段、あまり人と関わらないので。それに、さっきも言ったとおり森には魔獣が出ますし、わざわざ眠ったふりをして長時間外にいるなんて、そんな危険を冒してまで得たいものなんて、そうそうありませんよね。私が無視したり、気付かず通りすぎる可能性もありますから」
「そりゃあ、まあ、そうだけど……」
「そもそも、これから悪いことをしようとしている人が、割れたお皿の片付けを手伝ったり、他人の怪我を、それもこんなちょっとの切り傷を気にかけたりしますか? もう相手の家の中に入り込んでいて、他に人が誰もいないとわかっているのに」
秋人は反論できず黙り込んだ。当然のこと、秋人は桜を害したいわけではないし、そんな考えがあったからあそこで寝ていたわけではない。考えがないから寝ていたのだ。自分が怪しい存在である可能性を主張してはいるが、土壇場でのこじつけだということは既に見抜かれている。持ち前の能天気が顔に出ているのだろう。オドオドした態度だが切り返しは的確だ。内気なだけで頭の回転は速いのだろう。
だが桜は秋人が自分を不審者に見せてまで伝えようとしていること――女性の一人住まいに見知らぬ男性を連れ込むことがどれほど危険なことなのか、それを理解してはいない。
ちらりと窓の外を見た桜は小さく息をつき、秋人に向きなおる。
「あの……とりあえず、もう遅いですから、今日はここに泊まってください。部屋はあいていますので」
「な――なに言い出すんだよ! 知らない男を家にあげるのは危険だって話をしたところなのに、泊める? 君まさか誰にでもそういうこと言うの? ダメだよ。この森には魔獣が出るって言うけど、俺が……違う意味で『獣』になる可能性があることくらいわかるだろ?」
秋人の説教に桜は首をかしげる。その目が不安に揺れたので、ようやく理解できたかとほっとする。
「あ、秋人さんは……獣に化けるのですか? で、でも、人間を食べたりは、しませんよね?」
「いやそういうことじゃなくて……」
ガクリと肩の力が抜けた。たしかに獣というのは比喩であり、秋人が直接的な表現を避けたことは認める。言葉を額面通りに受け取ればそういう解釈になるのはたしかだが、ここまで言ってわからないものだろうか。
桜がどれだけの年月をこの森ですごしているのかはわからない。その間ずっと一人だったのか、部屋があいているということは他に誰かが一緒だったのか。どうあれ、見知らぬ人というものがどれだけ危険か、なぜ、どのように危険なのか。今まで誰も彼女に教えてこなかったということだ。世間知らずというか、地頭がよくても教養がないのだ。
「君が他の女の子に比べて、少し力持ちなのはわかったよ。でもね、体のつくりとして、普通は男と女とじゃ筋力に差があるものだってことはわかるよね。君は……えーと、能力者?」
「あ、いえ……無能力者です。そのはずです」
無能力者――というのは差別にあたる蔑称だが、自分自身をへりくだって言う場合に使われることもある。彼女の場合は自己肯定感が低いことの表れだろう。
「だったら、君がどれだけ力持ちでも、俺より力が強いってことはないはずだ。たとえば俺がここで君を押し倒して、強引に服を剥ごうとしても、君がそれを振り払って逃げるには力の差がありすぎるだろ」
秋人の先ほどより直接的な問いに、桜はしばらく意味がわからずにきょとんとしていたが、やがてこちらの言わんとすることを察したのか、今まで以上に顔を真っ赤にした。まったくの無知ではないようで少し安堵する。このままでは秋人がゼロからすべてを説明することになっていた。
「な、な、なにを、そんな……そんなこと、あ、秋人さんはしませんでしょう?」
「人を見かけで判断するのはよくないって、さっき言ったはずだけど」
「だだ、だって、秋人さんはその、わ、わざわざそんなことをしなくても、その気になればお相手を見つけることも簡単でしょう? お話ししていて、とても優しい方だと思いましたし、た、端正なお顔をされていますし」
たしかに町中で秋人に声をかけてくる者は少なくない。女性からも男性からも言い寄られた経験は幾度とある。すべて断ってきたきたが、中には体だけの関係でもいいと食い下がる者もいた。しつこく粘着されることも一度や二度ではなかったし、無理矢理押し倒されそうになったことさえある。秋人でさえそうなのだから、少女である桜はなおのこと他人を警戒しなければならないのだ。
「誰に対しても警戒心は忘れちゃいけないよ。俺はたしかに君に悪さをするつもりなんてないけど、みんながみんな無害なやつばかりじゃないんだから。知らない人は、とくに男は簡単に家に入れちゃいけないし、たとえ親しい相手でも泊めるなんて絶対にダメ。いつか取り返しのつかないことになる。そうなったときに傷つくのは君なんだからね」
「わ、わかりました」
秋人の真剣な忠告に、桜はようやく頷いた。わかってくれたのならなによりだ。辛抱強く言い聞かせた甲斐があったと胸をなでおろす。彼女のように心の優しい少女が、反吐の出るような悪意の餌食になることは、秋人の望むところではない。
「あ、でも、今夜は本当に泊まっていってください」
秋人は頭を抱えた。