『散りいく花』
あの日から三か月ほどの時間がすぎたが、桧季桜の心の傷は一向に癒える様子を見せなかった。
なにをするにも無気力で、なにもかもがどうでもいい。なにを食べても味がしない。それどころか空腹を感じない。働かなければ生活が立ち行かなくなるとわかっているが、そもそもこのまま生きる必要があるのかどうかさえわからない。音も色も光も、すべて消えてしまったような感覚だ。
どうしてなにもうまくいかないのだろう。
母は優秀な兄を褒めた。だから母に認めてもらえるように努力した。それでも桜は劣っていた。母が桜を認めることはなかった。父はなにも言わなかったが、桜と目が合うたびに吐き出される重たいため息が今でも耳に残っている。
あの家の中では、兄だけが桜の味方だった。
桜にとって希望の光のような人だった。
兄は優秀だった。そして、とても優しい人だった。母が桜を貶した分だけ桜の良い面を挙げて褒めてくれた。誰かと誰かを比較して優劣をつけるのは間違っているといつも言っていた。感情的で神経質な母を刺激すれば余計に悪い方向へ転ぶかもしれないからと、母に面と向かって抗議することはなかったが、きっと兄も母が怖かったのだろう。桜もそうだった。母のことは好きだった。愛してほしかった。だがそれと同じだけ、母が怖かった。
親元を離れて二人で暮らしはじめてからも、兄は変わらず優秀で優しいままだった。母は身内のひいき目だけで兄を褒めていたのではない。本人は過剰評価だと謙遜していたが、彼が優秀なのは誰の目から見ても明白だったのだ。
兄との暮らしはとても安らかだった。母の怒鳴り声も、父のため息も聞こえない。とても静かで穏やかな生活だ。両親と一緒だったころとは比べようもないほど楽しかった。最初は両親と離れることが不安でたまらなかったが、兄の言葉に従って家を出て正解だったと、今ならわかる。兄がいてくれて本当によかったと思う。どれだけ感謝してもし足りない。
兄は自分よりも桜のほうが手先が器用で、手芸や料理がうまいと褒めてくれた。そして、自分はそういう細かい作業がどうしても苦手なのだと恥ずかしそうに笑っていた。それが桜の得意なことで、もっと自信を持っていい分野なのだと教えてくれた。兄にとっての不得手が桜にとって得手であるなら、その分野を桜が担うことで兄の役に立てると思った。いかに優秀な兄であっても苦手なことがあるのだとわかって、今まで雲の上を眺めるような気持ちで見ていた兄を、途端に身近に感じられたのを覚えている。
だが、たとえ自分の得意分野であっても兄にはかなわないのだということは、すぐに理解した。料理も刺繍も、シャツのボタンつけひとつでさえ、兄のほうが手際がよかった。たしかに兄の中では苦手な分野なのだろう。その唯一の、兄の中での不得意にさえ桜の得意は届かなかった。
兄のことは大好きだった。
しかし兄の隣は、とてつもなく息苦しかった。
自分はこの人の隣にいてはいけないのだ。桜と兄ではかみ合わせが悪いのだ。兄の気付かないうちに摩擦が生じているのが、桜にはよくわかった。なぜなら、その摩擦で削れていくのは他でもない桜自身だったからだ。
兄には幸せになってほしかった。
恋人がいることは知っていた。桜の面倒を見るために結婚を先延ばしにしていることも知っていた。兄の恋人が桜の事情を知って同情していることも、桜のために待たされることを承知していることも知っていた。自分が兄の足枷になっていることを知っていた。その優しさがさらに桜を削った。
一刻も早く、兄を解放したい。彼を「兄」という役割から解放したい。そうすれば彼はもう妹のためになにかを犠牲にしなくていい。彼の人生を彼自身に返すことができる。幸せになれる。こんなに優しい人なのだから、こんなに誰かのために動ける人なのだから、幸せにならないとおかしい。本心なのだ。本当に、そう思っていた。
桜もまた、優秀な兄の妹という立場から解放されたかった。
まぶしかった。まぶたを閉ざしてなお痛烈に目を灼いて、近付くほどに身も心も焼け焦げていく。まるで太陽のようだ。自らの希望とするには、兄はあまりにまぶしすぎた。そしてその強すぎる光にさらされ続けるには、桜はあまりに弱かった。
だからといって、こんな形で解放されることを望んだことなどなかった。兄は兄のこれまでの功労と辛抱に見合う幸せを、桜は桜の身の丈に合った幸せを、それぞれ追い求めて穏やかに生きていければと願っていた。兄の死は桜にとって絶望でしかなかった。光が失われた。目の前が真っ暗になった。
唯一の味方だった兄を亡くし、家族からは完全に見放されて、友達もできず、桜はただ先の見えない暮らしを続けていた。朝起きて、働いて、日が暮れる前に帰って寝る。それを毎日繰り返すだけの、楽しくもなんともない単調な日々。自分がなんのために生きているのかわからずに、この淡々とした日常を、いっそ打ち切ってしまおうかと思ったことさえあった。
心まで灰色にくすんでしまったような日々の中、秋人に出会った。
森の中で気を失っている彼を介抱したとき、桜はただ目の前の青年が無事であるならそれでいいとだけ考えていた。彼をそのまま家に泊めようと判断したときもそうだ。見知らぬ異性を警戒しなければならない理由を知らないわけでも、理解できないわけでもない。ただ絶対に大丈夫だという確信があった。彼が悪事を働けない優しい人であることは、ひと目見たときからなんとなくわかっていた。
とても穏やかでのんびりとした人だった。彼の前では劣った娘でも哀れな妹でもない、ただの桧季桜であれるような気がした。どちらかだけが一方的に与えられ続けるのではなく、支え合い、教え合い、手を取り合ってともに歩いていけるような相手だった。
秋人と暮らすようになってから桜は変わった。相変わらず裕福とは言えない貧しい暮らしだが、ただ一緒に食事をして、話をして、おやすみを言う。何気ないその関わり合いがとてもうれしかった。兄と一緒に暮らしていたころとはまた違った充足感があった。
急に視界がひらけたような気分だったのだ。世界に色が戻って、なんともない景色さえ美しく感じられるような。質素な食事もいつもよりおいしく感じられるような。毎日歩いている見飽きた森の小道も、ただ淡々と作業をこなすばかりだった仕事も、彼と一緒ならそれだけで楽しかった。息をするのが楽になった。心に熱が灯ったように温かかった。明日が来るのが楽しみだった。幸せだった。すべて秋人のおかげだ。彼には何度も救われてきた。
同じ時間をすごすうち、桜はいつしか彼に恋をしていた。自分の中にいつの間にか芽生えたこの感情を理解できないほど世間知らずではない。そして彼も桜を憎からず思ってくれていることに気付けないほど鈍感でもない。この時間がずっと続いてほしいと心から願った。
彼は明るい人だった。だが同時に、どこか陰のある人でもあった。ときおり、ひどくさびしそうな顔で笑うのだ。その表情を見るたびに、胸を締め付けられるような心地がした。
なにか隠していることがあるのは知っている。それをいつ打ち明けるべきか迷っていることにも気付いている。きっと彼にとって重要なことなのだろう。いつか教えてくれるのか、それとも胸の内に秘めたままにするのか。悩んでいることがあるならば一緒に悩みたいが、無理に聞き出すつもりはない。
彼の出した答えがどのようなものであっても、それはきっと桜を思っての決断なのだろう。そういう人だ。
彼はいつも桜に優しく寄り添ってくれていたが、その裏には常に妙な不安感があった。夜道で獣に追われたときも、落下物に頭をぶつけて倒れたときも、命にかかわる事態にまで至らなかったことを安堵しながら、どこかで覚悟を固めているような、あるいはなにかをあきらめているような素振りだった。
そう、あきらめているのだ。初めて会ったときからずっと、彼の言葉と行動には理由のわからない諦念がつきまとっていた。まるで、自分が長く生きられないことを悟っているかのようだった。
そして桜の人生にある日突然現れた青年は、ある日突然、桜の前からいなくなった。
どこか思いつめた様子で、大事な話があると切り出した矢先の出来事だった。凶器を持った男が突然、わけのわからないことを叫びながら秋人を刺したのだ。男はすぐに取り押さえられ、秋人は近くの医療所へと運ばれたが、既に息はなかった。そのあとのことはよく覚えていない。結局、彼が伝えようとしていたことがなんだったのかはわからないままだ。
失意のまま気付けば数日経ち、やがて仕事に復帰した。忙しさで思考を殺して忘れようとしたのだ。だが当然のようにうまくいかず、ある日からすっかり外に出られなくなってしまった。どうしても玄関の扉を開くことができなくなった。ひどいときにはベッドから出ることさえできなかった。精神の限界だったのだろう。桜の身体は秋人に救われたおかげで今も生きているが、その心は死んでいるも同然だった。
桜の世界は再び光と色を失った。それを秋人と出会う前の状態に戻っただけだと思い込もうとしたが、明らかに違う。真っ黒なのだ。なにもかもが真っ黒な世界になったような心地だ。なにも見えない。なにも聞こえない。なにも見たくないし聞きたくない。なにもしたくない。
一人で取り残されるくらいなら、あのとき一緒に死んでしまったほうがよかった。
欠勤に次ぐ欠勤の末に、ようやく工場に退職の旨を伝えた翌日。一人の来客があった。元同僚の梅梨啓吾だ。兄が生きていたころはお互いに、兄の友人と、友人の妹、という距離感で何度か話す機会もあったが、とくに親しいわけではなかった。秋人を通じてまた話すようになってからは昼食をともにする日も多くあり、おかげで多少は親しくなれた印象だ。少なくとも、秋人に会う以前のようなぎこちなさは感じない。友人――と呼んでいいのかどうかは、啓吾自身がどう思っているかによるのだろう。
久しぶりに相まみえた啓吾の表情は固く、目の下に薄く隈ができていた。あまり顔色がよくない。彼は桜の顔を見るなりひと言、ごめん、と言った。なにに対する謝罪なのかはわからない。
「桧季、大丈夫か?」
桜がお茶を淹れて差し出すと、彼はまずそう言った。そういう彼も具合の悪そうな顔色をしている。当然だろう。大切な友人を亡くしたのだから。
「梅梨さんこそ、あまり顔色がよくありません」
「俺のことはいいんだ」
「私は……大丈夫です」
「そうは見えない」
「今はたしかに、あまり大丈夫ではないかもしれません。でも、きっと時間が解決してくれますでしょう。兄のときもそうでした」
「あれから何日経ったと思ってんだ。最後に会ったときより荒んでるように見えるぞ」
時計の秒針の音が気まずい沈黙をつなぐ。先に口を開いたのは啓吾のほうだ。
「……辞めたって聞いた。これからどうするんだ」
「なにも――考えていません」
なにも考えられない。そもそも考えたところで意味がないように思う。だが、そこまで口にする必要もないだろう。困らせるだけだ。
「まだここに住み続けるつもりか?」
「……どういう意味ですか?」
「引っ越すつもりはないのか、ってことだ」
「引っ越す……」
今さらそんな必要があるのだろうか。
たしかに、まだ兄とここで暮らしていたころは、いずれ町の中に移り住もうと話していた。ここは町から離れているから、買い物に行くにも仕事に行くにも少々不便な面がある。兄が魔獣に襲われて命を落としてからは、安全を確保するために引っ越しの資金を貯めようと思っていた。
ここしばらくのうちはとくに、もっと安全で便利な場所で、秋人さえよければ、このまま二人で穏やかに暮らしていきたいと。それができればどんなに幸せだろうと夢見ていた。
所詮はただの夢だったのだ。
「この家には……萩都と、それから秋人と一緒にすごした思い出が詰まってるはずだ。大切にしたい気持ちもわかる。だが今さら言うまでもなく森の中は危険だ。前にも危ない目にあったんだろ?」
「そうですね」
「……いや、危ないとかそういうのは建前だ。はっきり言って俺は、ここに住み続ける限り、お前は過去にとらわれるばっかりで前に進めないんじゃないかと思ってる」
「前に進めない、ですか」
進む必要があるのだろうか。
「そうだ。お前がそうなることを、きっと萩都は望んでない。……あいつだってそうだろ」
「……そうでしょうね。兄はきっと、今の私を見れば悲しみます。常に発展を求めて前に進み続ける人でしたから。私は……私も、兄のようになりたかった」
「なれるだろ。表面的には正反対に見えるけど、お前ら兄妹はよく似てる」
「いえ。私は兄のような完璧な人にはなれません」
「あいつは完璧なんかじゃなかったぞ」
「あなたにとってはそうかもしれません」
「お前はあいつをなんだと思ってんだよ」
「兄は――」
完璧だった。
残酷なまでに。
「……桧季」
「はい」
「あいつらのためにも生きようって、そう考えることはできないか?」
「どういうことでしょうか」
「萩都はお前んとこの不平等な親からお前を引き離した。お前が幸せになれるように。秋人は森で獣に襲われたとき、命がけでお前を守った。工場で事故が起きたときも、町でヤク中に刺されたときもそうだ。あいつはお前を自分の命に代えて守りきった。お前の命はあいつらのおかげで今ここにある。それはわかってるだろ?」
啓吾はテーブルの上に分厚い封筒を置く。
「……秋人が俺に預けたこれだって、お前のためのものだ。いい加減受け取ってくれ。俺は一次的に預かってただけだ。ずっと持ってたってしょうがない」
桜と秋人は、この家から引っ越すための資金をそれぞれで貯金していた。そのうちの大半を、秋人は啓吾に預けていたそうだ。自分の身になにかがあったときには、自分の代わりにこれを桜に渡してほしいと言って。
「俺にもしものことがあったときは、これは桜が使ってくれ。もともとそのために貯めていたものだから、気にする必要はない。……そう伝えてほしいって、あいつは言ってた」
「受け取れません」
「あいつはお前に遺したんだ。お前が受け取らないと俺が困る」
彼はどこまで予感していたのだろう。
「お前はあいつの分まで生きて、幸せにならないといけない」
――幸せ?
「なにを言っているんですか」
なれるはずがない。
桜にはもう、希望も、夢も、なにも残っていない。
「このままだと本気で死んじまうぞ。秋人がなんのためにお前を守り抜いたと思ってんだ」
「こんなことになるなら、あのとき私も一緒に――」
「おい、めったなこと言うな」
「好きだったんです」
啓吾が言葉に詰まる。
「……秋人さんに出会ってから、私は初めて、生きているのが楽しいと思えたんです。秋人さんは何者でもなかった。秋人さんの前でだけは、私は何者でもなかった。あの人だけは、ただまっすぐ私自身を見てくれた」
桧季萩都の妹ではない、桜という一個人を認めてくれた。
「自分がこんなにも誰かを好きになれるなんて思っていませんでした。幸せだったんです。今までの人生の中で、あの人といる間が一番幸せでした。ずっと一緒にいられたらって、思ってたんです」
自分の命に代えたりなんてしなくていいから、そばにいてほしかった。
「……あいつだって、お前のことが好きだったよ」
「……はい」
「わかってるなら、なおさら――」
「どうすればいいのかわからないんです。今の私には……秋人さんなしに、自分が幸せになれる道があるとは、思えないので」
「だからって、今みたいに家にこもり続けても先はないだろ」
「あの人を忘れることができるとも思えません」
「それは……そりゃそうだろ。別に、ここを出て全部忘れろって言いたいわけじゃない。胸の内にしまっとけばいい。ただ……忘れたくないからって、ずっとここに居続けるのは……お前もつらいままだろ」
桜はしばし黙った。ただ桜を案じて心配してくれている相手に、無作法な態度を取っていることに気付いたからだ。心身ともに疲れ果ててしまっていたせいなのだろうが、こんなことは初めてだった。
「……すみません。梅梨さんの言いたいことはわかりました。お気遣いありがとうございます」
「気遣いとかそういうんじゃねえよ。お前このままほっといたらマジで死んじまうだろ。だったらその前に、ヤケでもなんでもいいから一度あがいてみたらどうだってだけだ」
「新しい土地で、ですか」
「いっそ遠くに行くのも手だろ。あいつが遺してくれた資金があれば、今までと全然違う土地にだって行ける。のどかな町でも、にぎやかな町でもいい。治安のいい場所を選べば一人でもやっていけるし、そこで新しい出会いだってあるだろ。気の合う友達だってできる」
「……ですが、どうやって情報を得るのですか? 町の様子も治安も、私は故郷とこのライニ以外のことはなにも知りません。居を移すとひと言に言っても、そう簡単にはいきませんでしょう」
「情報か……」
「ええ。移住先の目星はもちろん、その先に私が勤められるような仕事があるのかどうかも。今の私は、まともに働けるかどうかすらわかりません。ですから、もういいのです。私のことはどうか気にせず、放っておいてください」
桜は落ち着いた口調でそう結んだ。もうなにもかもが面倒だ。
「俺がいるだろ」
「え?」
「伝手ならあるって言ってんだ。俺の古い友人が南大陸のレスペルって国に住んでて、その気になればいつでも連絡がとれる。顔が広くて優しいやつだ。きっと助けになってくれる」
「でも」
啓吾にもその旧友にも迷惑がかかるだろうに。
それに、これ以上あがいたところで意味など――。
「心配いらない。桧季ならうまくやっていける。お前はどこにだって行けるんだよ」
そう提案する啓吾はなんだか、桜を自分から遠ざけたがっているかのような口ぶりだった。
そうして半ば強引にではあったが、桜は啓吾のすすめるとおり南大陸への移住を決めた。もはや失うものなどなにもないのだ。この先なにが起きたとしても、なるようにしかならないのだから、死に場所を探しに行くとでも思って受け入れてしまおう。そんな投げやりな気持ちで決めた、なんとも受け身で自暴自棄な引っ越しだ。
まずは列車に乗ってリチャン国を目指し、そこから転移装置でレスペル国へ移動して、待ち合わせの公園にて啓吾の旧友と、彼の手伝いとして付き添ってくれるらしいその人の友人と合流する。あとは彼らに任せておけばいい――啓吾はそう言った。彼もまた近いうちにライニを去るつもりらしいが、桜と同じ町に来るつもりはないらしい。理由は教えてもらえなかった。
そして出発の日、見送りに来た啓吾に桜は問いかけた。
「梅梨さんは、どうして私にここまで親切にしてくれるのですか」
すると、啓吾は少しさびしそうな笑みを返した。いつもぶっきらぼうな彼が笑っているところを見たことがなかった桜は、少しだけおどろいた。
「……萩都も秋人も、それにお前も、俺にとっては大事な友達なんだよ」
列車の座席に座り、足元から聞こえる規則的な重低音とかすかな揺れに身を任せながら、窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺める。新しい生活がはじまろうとしているというのに、なんだか不思議と実感がわかない。
啓吾は子どものころ、南大陸のリワン亡国に住んでいたらしい。レスペルの隣国であるロワリアの領地だ。今回連絡をとった旧友というのはそのころによく遊んでいた友人で、隣国といってもお互いに国境付近に住んでいたため、隣町くらいの感覚で行き来できたのだ。
当時は他にも二人、よく一緒に遊んでいた友人がいたと啓吾はなつかしそうに語った。十年ほど前にそのうちの一人に不幸があり、そのことがきっかけで啓吾はリワンから引っ越すことになった。以降は疎遠になってしまったが、その旧友とはときどき手紙のやりとりをしていたそうだ。赤の他人であるはずの桜の世話を引き受けてくれたくらいなのだから、啓吾の言うとおり優しい人なのは間違いない。
少々の不安はあったが、怖くはなかった。今までのことも、これからのことも、わからないことはいくつもあるが、わからないことをあれこれ考えていても仕方がない。啓吾の古い友人がどのような人なのかも、実際に会ってみればわかることだ。
その友人の名前はたしか――早川敦志というらしい。
2023.08.12 改稿。




