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終末恋物語  作者: 氷室冬彦
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0 流浪者の楽観的な習慣

「いってえ……」


 一枚の木の葉が頬に乗った。ぱらぱらと顔に降り注ぐ木屑を手で払いのけ、口に入りそうになった土粒をふっと吹き飛ばす。背中に伝わるでこぼこした硬い感触は木の根が当たってるのだろう。


 大木の真下で仰向けに倒れている青年の名は秋人あきひと。彼の今の状況を説明するには、木から落ちたのひと言で足りる。そもそもなぜ木に登ったのかという理由も交えて説明すると、まずこの木には鳥の巣がある。秋人が森の中を歩いていると、巣から落ちた鳥の雛が鳴いているのを見つけた。気の毒なので戻してやろうと木に登ったはいいが、降りる際に足を滑らせてしまったのだ。幸いにも転落したのは秋人だけで雛は無事だ。もし一緒に落ちていたら誤って潰してしまったかもしれない。


 なるほど巣から落ちた雛鳥の気持ちとはこういうものなのか。くだらないことを考えながらため息をつく。痛いとぼやいたわりに、秋人はぶつけた背中や頭をさすって身悶えるわけでもなく、目に涙を浮かべて顔をしかめる様子もない。彼はそもそも痛みなど感じていないのだ。


 近くにあるものに手足をぶつけたとき、実際には痛みがなくても咄嗟に痛いと口走ることは誰にでもよくあるだろう。同じようなものだ。当たりどころの問題でたまたま痛くなかった、というわけではない。秋人には痛覚がない。転んで擦り傷を負おうが通り魔に刃物で刺されようが、血は流れても痛みはない。窒息すれば苦しい。そういう体質だ。


 痛覚がない――秋人が持つ非凡な性質はそれだけではなく、彼はもはや人間どころか生き物として、およそ普通ではない異常な存在だと断言していい。


 簡潔に結論を述べると、秋人は死なない身体なのだ。いや、厳密には死ぬ。刺されたり撃たれたり、溺れたり、頭を強くぶつけたり、なにかしらの物理的な大ダメージを受ければ実にあっけなく死に到る。しかし秋人の場合はそこから再びよみがえることができる。直前に受けた傷や病は目が覚めたころにはすべて消え、もとの健康体に戻っている。原理は知らない。とにかく戻っている。


 ところで先に述べたとおり秋人は痛みを感じないが、今のように咄嗟に痛いと口にすることはある。知覚でなきなくとも、痛みという概念を理解しているからだ。こういう状況で反射的にその言葉をこぼした程度には、外部からの衝撃と痛覚の結びつきを身体が知っている。なぜなら彼も、もとを辿れば一人の人間だったからだ。ごく普通の人間として生まれ、人間として育ち、あるとき人間として死んだ。そしてなぜか、死んでも死なない謎の生物として復活を遂げた。その際に普通の人間だったころの――言うなれば生前の――記憶をすべて失った。ついでに痛覚もどこぞへと失った。


 自分がどこで生まれ、どのように育った、どんな人柄の青年だったのか――秋人には自分自身のことがなにひとつわからない。それでも、たしかに自分はきちんと人間だったのだという自覚はある。そして、既に一度死んだ身であることも。覚えていないが絶対にそうだと断言できる、謎の確信があった。唯一ぼんやりと覚えているのは、棺桶らしき箱に入れられたことだけで、それ以上のことはなにもわからないのだが。


 実を言うと、この「秋人」という名前も本名ではない。自分が誰なのかを思い出そうと唸っていたときに、なんとなく覚えがあると感じた文字をそのままつなげた結果、たまたま名前らしくなったからそう名乗っているだけだ。年齢に関しても同じく覚えていない。ただ鏡を見て、二十代前半から半ば程度だろうかと思ったので、尋ねられた際にはそのあたりの数字を適当に答えている。


 姓がない人間はさほど珍しくはないし、住所がなくても選ばなければ仕事はできる。小さな町工場や日雇いでの仕事なら、住所不定が不採用の理由にはならないらしいと身をもって学んできた。人目につくところで死ぬようなことさえなければ、人間にまぎれて暮らしていくことも、そうむずかしくはない。


 とはいえ注意散漫で動きも鈍い秋人は、事故にあったり事件に巻き込まれたり、なにかしらの不運で頻繁に命を落としてしまう。痛覚という身体からの危険信号が働かない分、怪我や危機に鈍感でのろまなのだ。人前で死んでしまうことももちろんある。そのたびに住んでいた町を離れて別の町へ移動し、各地を転々としながら生きてきた。帰る場所も行くあてもない風来坊だ。


 昨日まで住んでいた町では運よく親切な老人に拾われて、彼が経営している雑貨屋に住み込みで働いていたのだが、勤務中に強盗に入られ運悪く刺し殺されてしまった。周囲の人々には天涯孤独の身の上であることを告げていたので葬儀もなく、遺体は仕事仲間たちが弔ってくれたらしい。事件発生からずっと近くに人がいる状態だったので抜け出すタイミングに困ったが、騒ぎになっていないところを見るに遺体が消えたことには気付かれていないらしい。今ごろはカラの棺が土に埋められていることだろう。


 そして今、ひと気のない森を通ってまた新たな町へと向かう途中だった。中央大陸の最東端、東リチャン国から境橋を渡った先にある島国ライニ。まだ一度も住んだことがない土地なのでちょうどいいだろうと判断したのだ。なにより身ひとつで旅立ったので、船や列車などに乗って移動している金銭的余裕はない。


町に着いたら改めて住む場所と仕事を探さなければならない。金がなくともしばらくは生きていけるが、やはり人並みの生活がしたいなら必要不可欠だ。稼いでおくに越したことはないだろう。力仕事には自信があるので狙い目はそこだ。体力が必要な仕事ならば、大抵は若くて健康な男性というだけで雇用してもらえる。


 自分がいったい何者なのか、今の自分は何者になってしまったのか。なにもかもがわからないまま一人で世界に放り出され、誰かに打ち明けることもできずに一人で生きてきた秋人だが、能天気で鈍感な性格なので今の生活に不安を抱いたことはない。適応力があるというよりは、頭が丈夫でないだけだ。ただのバカである。バカなので木から落ちても気にせず、ぼーっと寝転がったままひと息ついているのだ。


 密集した木の葉が風に揺れて、木漏れ日がチカチカときらめいている。深く息を吐いた。耳触りのいい葉擦れの音と、鳥のさえずりだけがあたりを満たす。のどかだなあ、などとのんきなことをぼんやりと考えながら目を閉じた。陽光が目の前で赤く透けて、それを眺めているうちに脳の奥からじわじわと睡魔がにじみ出てくるのがわかる。このまま居眠りでもしたい気分だ。


 どうせ先を急ぐような身でもないのだから、それもいいだろう。木から落ちた際に頭を打ったので、もしかするとこれはただの眠りではなく、ゆるやかな死であるのかもしれないが、どちらでも同じことだ。死にゆく感覚と眠りにつく感覚は非常に似ている。恐怖などは微塵もない。どちらであろうとかまうものか。もしこのまま死んだとして、また生き返るのだから。昼寝同じだ。


 なにかを怖いと思う心などは、もはや記憶にすらない遠い過去に置いてきてしまった。

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