15 事故と自己のかたき
桜の言っていた通り、その翌日の午後には啓吾がやってきた。秋人は彼の作業服姿しか知らない。この日訪問してきた啓吾の見慣れない私服姿がやけに新鮮に思えたのは、てっきり作業服を着た啓吾が訪ねてくるところを想像していたからだ。
「なんだよ、元気そうじゃねえか」
「不満そうだな?」
「髪に寝ぐせついてるぞ。まさか今起きたのかよ」
啓吾を招き入れて茶の用意をしていると、リビングの椅子に座った啓吾がどこか不貞腐れたような目で秋人を睨んだ。
「同棲してたなんて聞いてないぞ」
「同棲じゃなくて同居だよ」
「どう違うんだよ」
「恋人じゃなくて友人として一緒に住んでるってこと」
「はあ?」
「先に言っとくけど、別に啓吾にだけ隠してたわけじゃないよ。河田さん以外には話してないんだ。ちょっといろいろあって、説明がむずかしくてさ」
「あっそ」
秋人から目を逸らしてテーブルを見つめていた啓吾は、ひと呼吸おいてから再び口を開く。
「起きてていいのか?」
「うん、今はなんともない。ほとんど擦り傷だったし。念のため明後日にもう一回診てもらってから復帰する予定だよ」
「あのコンテナかなり重かったぞ。お前どこまで人間離れしたら気が済むんだよ」
「能力者ってそういうもんだろ? その位置エネルギーより俺のほうが強かったってだけさ。そもそも俺は頑丈なことだけが取り得みたいなもんだし。もしくは運がよかっただけ。日ごろのおこないかな」
それより――秋人は言葉をつなぐ。
「啓吾、俺になにか話があるんじゃないのか?」
おそらくだが、啓吾はジンクスのことがなかったとしても、なんの用もなく他人を訪ねたりしないタイプだ。
「笑わないか?」
神妙な顔つきで言うので、秋人は片腕を小さく広げてみせる。深刻になりすぎないように、かといって茶化しすぎないように。
「あんたがそういう真剣な目をしてなにか話したとき、俺が笑ったことが一度でもあった?」
啓吾はうつむいて黙り込んだが、やがて何度も小さく頷きながら深呼吸した。
「正直、不安だった」
「不安?」
啓吾は秋人を見る。
「どっちかが死んだと思った」
やはり。あの事故のときに彼があわてていたのは、彼らしくないと思えるほど秋人を心配していたのは、そのことが原因だったようだ。
「俺が倒れたの見てすごくあわててたって聞いたよ。でも桜は怪我しなかったし、俺だって……まあさすがに無傷ではないけどさ。頭打って気絶しただけで生きてるだろ? なにも、わざわざこうして見舞いに来るほどのことじゃ――」
「気を失ってるお前の顔を見た」
「俺の顔がなに?」
「あのときのお前が、死人の顔をしていたから」
ぎくりとした。思わずはっと息を呑みそうになるのを寸前でこらえる。
「もちろん、ただそう見えたってだけだ。実際お前は生きてるし。でも、あのあとずっとそのことが頭から離れなかった。だんだん、本当は死んでたんじゃないかって思えてくるくらい」
彼の直感は正しい。秋人は本当は死んでいる。
炎に包まれた棺のなかで目を覚ました。それ以前の記憶はない。自分が何者なのかはまったく記憶になく、なんらかの事情があって死んだということだけはわかった。違う。結局なにも知らないしわからないのだ。だからそんな当たり前のことだけを、それだけはわかっていると、そう思わざるを得なかっただけだ。
「俺……倒れてからのことはなんにも覚えてないんだけど、一度は目を覚まして、途中までは肩を借りながら自分で歩いてたって桜から聞いたよ」
「ああ。歩いてる間ずっとうわごと言ってたよ」
「……なんか変なこと言った?」
「ずーっと桜、桜ってうるさかった」
「な、なんだ……てっきりもっと意味不明なこととか恥ずかしいこと言ってたのかと」
「あと、なにかを謝ってた」
「他は?」
「それだけだ。お前、なんかあいつにやましいところでもあんのか?」
「それは……」
「前に言ってたよな。自分は本当は桧季と一緒にいられない存在だって。そのことと関係あんのか?」
「それは桜に限った話じゃないよ。あんたともだ。俺は……」
話していいのだろうか。
口頭で語って聞かせるだけならば大きな問題はないだろう。話すだけ話してみればいい。どうせ信じないからだ。それは受け入れてもらえるかどうか以前の問題だ。啓吾は探偵やフランリーたちとは違う。超常的な物事とは関わり合いのない、ごく普通の人間だ。しかし理解に至らないのであれば打ち明ける意味はない。秋人が自分の正体を打ち明けるときというのは、絵空事で終わらせずに真実を知ってもらうときだ。
彼らが秋人の正体を真に理解するときといえば、そして彼らから明確な拒絶を受けるときといえば、それはどんなときだ? 秋人が彼らの前で死に、そしてよみがえるさまを見せたときだ。ならば実演してみせるのか? 復活するとはいえ、そしてそれを事前に知らせておくことができるからといって、人が死ぬさまを――命が消え失せる過程を、灯火が消える瞬間を。実際に目の前で見せつけるというのか。そんなバカげた話があるか。
――彼らの前で死んではいけない。
秋人は常にそう思い続けてきた。それは何故だ? 死ねば二度と彼らの前に姿を現すことができなくなるからだ。別れの言葉を告げることすらできないまま立ち去らなければならないからだ。もし死んだ姿を見せたあとに生きた姿を現せば、秋人がバケモノであることが知れてしまい、きっとその事実は受け入れてもらえない。当然だ。人間は未知なる存在を恐れ、理解できないものを拒む生き物なのだ。
彼らに拒絶されるのが怖い。
死ぬのが怖い。
――怖い?
秋人は――死を恐れているのだろうか。
「秋人?」
「啓吾、俺……」
怖い。
「なんだよ……いいって、もういい。そんな顔するくらいなら話さなくていい。だいたい今じゃなくても……話したいと思ったときに話せばいいだけのことだ」
「……俺が啓吾から話を聞きだしたとき、啓吾はそう思ってた?」
「俺のは別に……まあ少なくとも、無理矢理言わされたとは思ってねえよ」
自分が何者なのかを深く考えたことはない。考えたところで意味などないとわかっているし、過去の記憶もない以上、秋人は秋人であるとしか言えないからだ。その考えは、いや、そのことに限らず、物事に対する秋人の行動や思考の基準は以前となにも変わったところはない。不変は安定に類する。それが悪いことだとは思わない。
ただ、いつ芽生えたのかわからない、今自覚したばかりのこの感情については――それが良い変化なのか悪い変化なのか、今すぐ明らかにしたいような気がしてならなかった。
「俺さ、死ぬの怖いかも」
心音で自分の声が聞こえない。自分がなにを言ったのか判別できない。正しく言葉になっていたのか、意味を違わず伝えられたのかはわからない。ただ今一番言いたいことを音に変えた。
啓吾は怪訝そうに眉をひそめてから、どこか投げやりに鼻で笑った。
「……そんなもん、誰だってそうだ」
秋人が秋人としての自我を持ったとき、秋人は既に死んだ身だった。ある一人の青年の、死後に与えられた第二の生なのかもしれない。もしくは、彷徨っていた霊魂がその死体に入り込んで我が物のように操っているだけなのかもしれない。
「啓吾、もしこの先俺になにかあったら……」
「やめろよ、縁起でもねえ。ただでさえ俺の近くにいるってのに」
「そうじゃないんだ。そうじゃない。俺は、……俺って今まで、いろんなところに移り住んできたんだ。話したよな?」
「それがなんだよ」
「これまでにも何度も危ない目にあった。事故だったり事件だったり本当にいろいろ。今よりもっとひどい怪我をしたこともあるし、死ぬような経験をしたのだって一度や二度じゃない。運が悪いんだ」
啓吾は黙って聞いている。
「今まではどうにかやってこれたけど、いつかどうにもならないときがくる。誤解しないでほしいのは、それは絶対に啓吾のせいじゃない。俺がもともとそういうやつだったってだけだ。前にも言ったけど、俺がもし死んだとしても、それは啓吾のせいじゃない」
自分が何者なのかを深く考えたことはない。考えたところでわからない。なにも覚えていないからだ。それが今このときはたまらなく不安に思えた。
なにもないのだ。
桜にも啓吾にも、今まで歩いてきた道があり、道をさかのぼれば出発点に辿りつく。しかし秋人のうしろにはなにもない。なにも残っていない。地面に足を着けて立っている人々の中で、自分一人だけが宙に浮いているような疎外感、孤独感、不安感。なぜ今になってそれを強く感じているのか、なぜこのような心持ちになるのかはわからない。
啓吾の目の前で話をしているのは誰だ。
「秋人」とはいったい、誰のことなのだろう。
ひとつ深く息を吸う。はやる気持ちを落ち着かせるように。余計な疑問を抑え込むように。ゆっくりと息を吐いて、昨夜のうちに用意した本題を思い出す。
「……啓吾、頼みたいことがあるんだ」




