11 或る暗い夜の事
秋人はフランリーと別れて部屋に戻った。別れて――といっても秋人の質問に答えなかったフランリーがまるで逃げるように談話スペースを去っていったので、一人取り残され話し相手のいなくなった秋人も自分の部屋に戻ってきただけなのだが。
隣室の女性に分けて貰った果物のバスケットが目に入り、その中のひとつを手に取った。まだまだ新鮮そうであともう何日か置いておいても大丈夫そうに見える。しかし秋人には果物に関する知識などまるで備わっていないので、正確にあとどれくらい放っておいていいのかわからない。
はたと部屋を見回す。客室の隅には流し台とカセットコンロがある簡易キッチンが設置されており、簡単な調理ならこの部屋でも可能ならしい。カセットコンロを乗せた台の引き出しにまな板が一つと皿が二枚仕舞われていた。皿を出して水ですすぎ、ポケットから折りたたみナイフを取り出した。
ナイフはこの体になってからはずっと持ち歩くようにしている。中途半端な大怪我をした際に自害して状態を戻すためだ。損傷した体で自然治癒を待つより、蘇生ついでに働くリセット機能を使うほうがずっと早い。異物が体に刺さる感触にはいつまでも慣れず、今もずっと苦手なままだ。それでも、たとえば骨折すれば動きが制限されてくるし、手足の欠損などは動きの制限どころではない。なにより見た目に出る。潔く死んで戻ってくるほうが手っ取り早いのだ。
赤い果実に刃をあて薄く皮をむいていく。ナイフの扱いは不器用で、果実の表面はお世辞にも綺麗とは言えない。ところどころがでこぼこして、削ぎそびれた皮が残っている。皮だけを落としたわりに残った果実があまりにも小さい。適当な数に切り分けて皿に載せ、あまりの歪さに我ながらひどい出来だと苦笑した。桜ならこうはならない。
他にどんな果実があったかとバスケットを覗いたとき、突然部屋の扉が開いた。横田だ。
「おう若造。何してんだ」
「ノックくらいしてくださいよ」
「カタいこと言うなよ。……お、果物か?」
男は秋人の前にあるバスケットを見て言う。ナイフを机に置きながら頷いた。
「隣に女の人が泊まっているでしょ。その人が友達にもらったものらしいんですけど、量が多すぎて食べきれないとかで、さっきお裾分けしてもらったんです」
「なるほどなあ。いやあ若造よ、お前は本当に罪な野郎だな」
「秋人です」
「知ってらあ」
「罪ってなんですか」
「なんですかもなにも……ま、その顔じゃしょうがねえってモンか」
がっはっは、と男は豪快に笑った。
「ひょっとして酔ってます?」
「ばかやろう、今日はまだ飲んでねえよ」
「そうですか」
「俺からすりゃ、うらやましいもんだ。その顔なら女も選び放題だ。ちょっと近付いて言い寄りでもすりゃ女なんかコロッとオチるんだろ」
「そんなことないですよ」
「いやいや、工場の女は若い子もおばちゃんも、みーんなお前を見てキャーキャー言ってんぞ? ライニに越してくる前もそんなだったんだろ。いいねえ、俺だったら遊びまくってただろうな」
「本当に好きになった相手以外からいくら好意を持たれても意味ないですよ」
秋人が言うと親父は鼻で笑った。
「そういうトコだよ。さすが、色男は余裕があっていいねえ」
「嫌味ですか?」
「世間話だよ。怒んなって」
「別に怒ってないですけど……」
横田は椅子を引き寄せてどっかりと腰を下ろした。木材の軋む音がかすかに聞こえる。
「女といやあ、お前、あの彼女とは最近どうなんだよ」
「彼女?」
「ほら、あのおさげの――桧季ちゃんのことだよ。付き合ってんだろ?」
「……なんでそんなこと聞くんです?」
「これも世間話だよ。このあたりにはロクな娯楽もねえし、おっさんの暇つぶしに付き合ってくれや」
「もうすぐ夕飯の時間ですし、そんなに話す時間ありませんよ」
おっさんの暇つぶしには付き合いたくないというのが本音だ。
「あのお嬢ちゃん。桧季ちゃんなあ、最初はなんか暗い感じの娘が入ってきたもんだと思ってたが、目立たないだけでよく見ると顔はかわいいんだよな」
男はなにか思い出すように斜め上を見ながら言った。桜の姿を思い描いているのだと思うと嫌な気分になる。秋人が顔をしかめると、男はぱっとこちらを向いてにやりと笑った。
「それにまあ、いつもは作業服で隠れて見えないが、ありゃきっと脱げばすごいタイプだな。そうだろ?」
「やめてください」
下品だ。気分が悪い。
「ああいう普段はちょっと地味でしとやかな子がな、夜になると意外と大胆だったりするもんだ。最初は恥ずかしがっててもだんだんとこう……」
「やめてくださいって」
「なんだよ、付き合ってんなら知ってるだろ?」
「付き合ってません」
秋人が苛立ったように返すと親父は心底驚いたというような顔をした。
「なにぃ? あんだけ見せつけてんのに付き合ってない? そりゃお前、いくらなんでも信じらんねえな」
「見せつけてなんかないです。もういいでしょう、帰ってくださいよ」
「なんだなんだ。隠されると余計に気になるじゃねえかよ」
「なにも隠してませんから」
秋人は冷たくあしらうが横田は気にしない。
「正直なところどうなんだよ? お前がこれまで抱いてきた女のなかで桧季ちゃんは何番目くらいなんだ? 男同士で照れんなって、ここだけの話にしといてやるから。あ、それとも酒でも持ってくるか?」
ニヤニヤと癪に障る品のない笑みを口元に貼り付け、擦り寄るように男が言う。その言葉は秋人の許容できる範囲を超えていた。
「いい加減にしろッ!」
ばん、と強く机を叩く。聞くに堪えない。桜をそんな下劣な話の種にされるなど我慢ならない。反吐が出る。この上なく不愉快だ。久しく抱いたことのない怒りが腹の底で煮えたぎるのを、すんでのところで押さえながら目の前の下卑た男を睨みつける。
「それ以上続けるなら黙っていられない。怪我したくないなら今すぐ黙れよ」
「おいおい、熱くなるなって。冗談だよ、冗談」
冗談? ただの冗談で桜を卑劣な妄想に巻き込んだというのか。
無性に腹が立って男の胸ぐらを掴んだ。机が大きく揺れる。一歩前に出ると足がなにか軽いものを蹴った気がしたがどうでもよかった。
「冗談で済む領域じゃないだろ! あんたに羞恥心や常識はないのかッ! 人間として恥ずかしいと思わないのか!?」
「落ち着けって、悪かったよ!」
男は両手を挙げて降参のポーズをしながら言うが、本当に悪いと思って謝罪したというよりは、ひとまず謝っておいてこの場をしのごうといった様子だった。
「本当に悪いと思うなら、さっさと出ていってくれ!」
掴んでいた手を離して肩を突き飛ばす。感情が高ぶった状態だったためか思ったより力がこもってしまい、横田は壁のあたりまですっ飛んでいった。どしんと尻から転んだ横田は目を怒らせる。
「なにすんだこのガキ!」
横田が床にあったものを拾い上げて秋人に掴みかかった。それはつい先ほど机から落ち、足に当たって蹴り飛ばしてしまったものだ。
――秋人のナイフだった。
一瞬の衝撃。
皮膚と肉の裂ける感触と、裂けた肉の間に異物が突き刺さる感覚。秋人は尻餅をついて倒れた。血の巡りが肉の間の異物に遮られ、行き場をなくした血液は異物を包み、傷口の隙間からじわじわと体外へ逃げ出していく。痛みはない。痛みはないが――ナイフの異物感と流血の感覚は耐え難い不快感を秋人に与えた。
気持ち悪い。
吐き気がする。
考えるより先に手が動き、ナイフを胸から引き抜いた。胸に空いた穴からその隙間を埋めようとするかのように血があふれ出る。
横田は自分がしたことにようやく気が付いたのか、真っ青な顔で秋人を見下ろした。何度か血を吐きながら秋人は男を睨んだ。あんたがやったんだぞ。そう訴えるように。横田は転がるようにして外に出て行った。
その震えあがった様子を見た秋人は心の中でざまあみろと毒吐き、身体から血が抜けていく感覚に耐えた。頭の中に霧がかかったようにボーっとする。手足の自由が利かない。誰かが騒いでいる声や足音が遠くで聞こえたが、もう秋人の目にはなにも見えていない。
もうライニには帰れないのだろうか。
その命が途切れる直前に秋人は思ったが、感傷に浸るよりも先に意識が途切れた。
秋人が死んでいたのは十五分程度だった。宿の中はやけに静かで、しかし聴覚を研ぎ澄ませてみると一階からかすかに話し声が聞こえる。なにを話しているかまではよくわからないが、明るい話でないことはたしかだ。秋人の遺体は既に彼らに発見されたあとなのだろう。
真っ赤に濡れたシャツに触れる。刺された部分が細く切れているが、その下に傷はない。血濡れのままでいるのはあまり気分がいいものではない。立ち上がるとなんだか身体が重く、疲労感がある。肉体の疲労ではなく精神的なものだろう。存外人間らしくなったものだと己に感心しながらため息をついた。
意味もなく部屋の中を見まわすと、あの灰色の小人から受け取った飴玉の瓶が目に入った。フタを開けて適当にひと粒口に含む。チープな甘みが舌の上に広がって、なんとなく暗い気分が和らいだような気がした。
落ち込んでいても状況は変わらない。気を取り直して、ひとまず別の服に着替えようと荷物をあさっていると、開けっぱなしの扉の向こうから足音が聞こえた。音はこちらに近付いてくる。同時に話し声が大きくなってくる。女性の声と、もう一人は宿の主人の声だ。
今この姿を見られたら面倒なことになる。あわてた秋人は咄嗟にクローゼットの中に隠れた。直後に女の悲鳴が宿に響き、隠れるよりももう一度床に寝て死んだふりをしたほうがよかったかと少し後悔した。




