8 言いつけと一旦の離別
桜が再び出勤するようになってからしばらく。はじめのころは秋人も啓吾も彼女が心配で、こまめに様子をうかがっていたが、二人の心配をよそに桜は今までどおりテキパキと仕事をこなしていた。
行き帰りの道中も足が竦んで動けなくなることもない。少し緊張した面持ちで身を固くしているが、数日後には一人で町に買い出しに行ける程度には回復した。表向きには平気そうに振る舞っているだけなのか、本当にもう大丈夫なのかは秋人にはわからない。だが余計に心配するのもよくないだろう。本人の言葉を信じるよりない。
ある日、秋人は隣国のリチャンへ出張に行くことになった。
出張、と言ってもそう大仰なことでもない。リチャンにある本社工場では現在、事情があって一時的に人手が足りていないとかで、ほんの三日ほど手伝いに行くだけだ。とはいえ秋人が勤めている事業所とて人手が潤沢にあるわけではない。そこの事情も本社は把握しているようで、一か所だけに負担が集中しないよう、応援の人員はここ以外にも数か所の支部工場から少人数ずつ招集されているそうだ。
桜を一人で残すのが気がかりだったため、最初は断るつもりだった。しかし河田に頼まれたことでもあり、そう何日も離れるわけではないこと、そして他でもない桜の説得がてきめんに効いて、結局は引き受けたのだ。
無論、まだ研修期間が明けてそれほど経っていない秋人が、一人で他所に向かうわけではない。職場の先輩にあたる中年の親父がいるのだが、彼とともに行くことになった。任されるであろう業務自体は普段やっていることとあまり変わらないそうだが、本社だけあって敷地が広く、普段よりたくさん動きまわることになる。
だから体力のある秋人が選ばれたのだろう。親父のほうはおそらくおまけだ。……というのは冗談で、彼は彼で記憶力と観察力に優れていて、はじめての場所でも物の配置や構内図などを覚えるのが人一倍早く、そして現場での指揮能力もあるのだ。
島国のライニと隣国のリチャンとをつなぐ境橋を渡ると竹林が広がっていて、そこを抜けて少し歩くと町がある。竹林の近くに小さな宿があって、出張中はそこに宿泊する予定らしい。
中年の親父――横田はよく喋る男だ。喋りたがる内容が下品な話題ばかりなので、仕事ぶりは尊敬できても個人としては少し距離をおきたいタイプだ。一緒に仕事をすることになると、彼から振られてくる品のない話や愚痴を、いかに角が立たないよう受け流すかを考えることのほうが大変なのだ。
「あの、すいません。宿の部屋は別々がいいんですけど」
「なんだ、二人部屋のほうが安いだろ」
「ただでさえ慣れない場所ですし、同じ部屋だとお互いに気を遣うでしょう?」
四六時中この親父の話し相手になるのは御免だ。
「それに俺、近くに人がいたり物音がすると寝れないんですよ」
「最近の若いのは神経質だねえ。わかったよ、どうせ宿代は経費で落ちるしな」
宿の主人の案内されて二階の客室に移動する。部屋に入ってあたりが静かになった途端、ようやく解放された気持ちになって秋人はほっとした。
*
「か、帰れない? そりゃまた……えっ、どういうことですか?」
宿の主人は報道誌の朝刊を四つ折りにしながら、どうもねえ、と困った顔をした。
「私も詳しいことはよくわからんのですが、竹林のほうでなにかあったんでしょうな。チャンさん――リチャン国の化身様がおっしゃるには、もうしばらく通行止めの状態が続くと。あまり近寄るのも危ないとのことで、気になるからと見に行くのはよしなさいね」
「つまり、開放の見越しはまだ……?」
「ええ、ついていないようです。なんせ予期せぬアクシデントだそうで。お国も対応を急いでくれているようですから、もうしばらくお待ちください」
「来たときはなんともなかったのにな……」
宿の主人の話によると、リチャンとライニを行き来するために必ず通ることになる竹林が、現在なんらかの事情により封鎖されているらしい。
「船の予約のほうも確認しましたが、今はもう数日先まで席が埋まっているようでしたよ」
「この状況でキャンセル待ちってのも望み薄だし……うーん、飛行船って、このあたりからじゃ出てないですよね」
「そうですねえ。ここよりもっと北に向かえば乗り場自体はありますが、ライニ行きの便があったかどうか……」
「あったとしても、そっちも既に予約が埋まってるかな」
「まあでも、そのうち開放されるでしょうから、気長に待つ他ありませんね」
「それまでここで足止めかあ」
「なにかわかったらすぐにご連絡しましょう」
「お願いします。……あ、少し電話借りてもいいですか」
「どうぞ」
カウンター横に配置されていた黒電話を借り、長い番号を打ち込む。発信先は工場だ。不明瞭な点は多いが、状況を報告しなければならない。数秒の呼び出し音のあと、電話に出たのは河田だった。
「――それで船の予約も今は取れそうになくて、しばらくこっちで待つことになりそうです」
『そうか……たしかに境橋が封鎖されたって噂は俺も聞いたよ。こればっかりはしょうがないな』
「はい、あとあの……桜のことなんですけど」
『ああ、事情は俺から伝えておくが、あんまり長引くと不安がるかもな。とりあえず進展があったらまた連絡してくれ。そっちの宿の番号はわかるか?』
「あ、はい。ええっと――」
番号を読み上げる間も、秋人は桜のことが心配だった。数日以内に帰れるようになればまだいいのだが、もしこのまま一週間、二週間と長期間の滞在になってしまったら、そしてもしその間に桜の身になにかあったらと、考えても仕方のないことばかり考えてしまう。
桜はきっとまだ森を通るのが怖いだろう。しかし彼女のことを任せられる者が誰もいないのだ。啓吾は桜を好いていて心配もしているが、個人的な付き合いとなると拒むだろう。女性の同僚たちは仕事のこと以外で桜と関わっている様子がない。不仲というわけではなさそうだが、職場内にも外にも、桜と仲のいい相手はいない。
つまり秋人が不在の間は誰も彼女を守ってやれないのだ。
河田もそれはわかっているだろう。今、桜は出勤も退勤も一人だ。今までどおり、残業することにならないよう気を配ってくれるはず。しかし万が一のことがあるかもしれない。秋人は間違いなく、それを心配している。
受話器を置き、秋人は深いため息をついた。




