それぞれの情事
「おはようございます!今日からよろしくお願いします!椿誠二です!」
朝から元気いっぱいに挨拶するオレ。
仕事始めってのはこんなもんだろ。
そうなんだ。今日からついに社会人デビューだ。昨日は緊張しまくりだった。もちろん今日出勤している時もそわそわしていた。
職場まではバスで通う。時間は一時間弱くらいかかるかな。めぐの愛妻弁当を片手に出勤だ。
柳ヶ浦町よりも市街地に近い黒岩町の街はより賑わいを見せている。
その黒岩町に去年オープンしたショッピングモールの中にある楽器店のスタッフとして就職したんだ。
店内にはいろんな楽器が所狭しと並べられている。ギターやベースにドラム、キーボード、ピアノ。管弦楽器にタンバリンなんかも。
「改めてよろしく、椿くん。面接の時に話したけど、僕が店長を任せられている花澤だ。みんな、自己紹介を」
今話したのが店長の花澤真一さん。身長は百八十センチ以上あるだろうか。オレも見上げる程背が高い。歳は三十六。既婚者で子供も二人いるらしい。その割に若く見えて、あごヒゲを綺麗に整えていた。話すと優しい感じなんだが、ぱっと見た感じは強面のお兄さんだ。髪は少し長めの茶髪にパーマ。それにニット帽をかぶっていた。
基本的にエプロンさえしておけば私服で髪型もある程度自由らしい。みんなラフな服装だったし、髪を染めている人もいる。
「オレは坂本勇馬!みんなのリーダー的存在だ!よろしくな!新人!ちなみに彼女はいない!そこよろしく頼む!」
次に自己紹介したのは声が大きくて体格のいい先輩だ。なんとなく勇介に似ている。だが勇介のようにいじることは出来ないだろうな。黒髪の短髪で服の上から見てもわかるくらい筋肉質だ。まるでスポーツ選手。歳は三十前後か?
「私は園田沙希!何を隠そう君と同じ柳ヶ浦高校出身なのだ!だから遠慮はいらんよ~新人くん!いやー、どうかよろしく頼むよ~」
なんか、お気楽な感じのあいさつだ。
どうやら同じ高校の出身らしい。先輩の先輩だな。後で聞いたら今年で二十三歳。学校で一緒になることはなかったみたいだ。明るめの髪色でショート。身長は百六十ないくらいでなかなかスタイルがよくて元気な先輩だ。
「ど、どうも、神崎留美です!これから、よ、よろしくね!」
うーん、頑張ったんだな。なんとも恥ずかしそうに自己紹介していた。
肩くらいまでの黒髪で目がくりくりっとしていた。小柄でメガネをかけていた。人見知りを結構するらしく、メガネはまともに話すと恥ずかしいからしているという伊達メガネらしい。
「っとまぁ、以上。君を入れてのシフトを組んでやるから、そのつもりで。基本的に仕事は坂本くんに教わってくれ」
花澤店長がそう言ってそれぞれ仕事の準備に取り掛かっていた。
オレの指導は坂本先輩がしてくれるそうなんだが…。
「よーし!じゃあさっそくやるか!まずは新人の登竜門、掃除だ!気合い入れていくぞ!」
「はい」
「声が小さい!気合い入れていくぞー!」
「は、はい!」
い、いきなりの熱血指導か?楽器店だよな、ここ。まだお客さんいないけど恥ずかしいよ。
「まずはフロアだ!モップ掛け!塵ひとつ見逃すなよ?」
しっかりやれってことだよね?ホントにそこまでやらなくていいよね?
オレは気合いを入れてモップを掛ける。
「よーし!そうだ!もっと腰を使うんだ腰をー!」
こ、腰!?腰を使うってどういうことだ?
「………何をやっているんだ?」
「いや、腰を……」
腰を思い切り引いた反動でモップを使っていた。
「気持ちは伝わる。だが何かが間違っているぞ?」
わかってたさ…何かおかしいことくらいは…。
「よし、フロアはこれでいい!次は店先の通路!これもしっかり頼むぞ!今のところは開店前には一応これだけだ」
「はいっ!」
それから通路のモップ掛けをした。これだけなら楽勝だな。
他の人は並べられている楽器をいろいろチェックしたり、レジの準備なんかをしていた。まだオレが手を出す範囲じゃないな。
その後に朝のミーティングだ。
売上の話しや営業方針、注意を花澤店長が話していた。もちろん内容はさっぱりだ。
もうすぐ開店時間。このショッピングモールが開く午前十時から午後七時までの営業なんだ。その中に一時間の休憩時間。他の店はもっと長く開いているところもある。
この店は五階建てのショッピングモールの四階にあり、エレベーターのすぐ近くだ。一番人通りがあるだろう。同じフロアには、雑貨屋、携帯ショップ、本屋があった。本屋が大半のスペースを占めているんだけどね。
だから老若男女問わずに人が集まるフロアなんだ。
開店前にと、それぞれに挨拶周りをさせられた。どこの店でも「よろしくね」と笑いかけてくれた。今のところ人間関係で苦労はなさそうだ。
今頃めぐは何してるんだろう?
・・・・・・
今頃誠二くんは仕事始まったくらいかな?
どうなんだろう?
もう怒られたりしてないかな?泣いてないかな?
今日の夜はいっぱいお話し出来そう…。
今日から誠二くんが仕事だというので、早起きしてお弁当を作ったんだ。栄養のあるもので体力がつくおかず。それとね、浮気防止をかけて。
信用してないわけじゃないんだよ?一応ね、一応。愛妻弁当なんて一緒に住んでますってことだしね。
誠二くんって誰にでも優しいから誤解を招く可能性だってあるでしょ?
さ、私は愛する誠二くんが気持ちよく家でくつろげるようにお掃除しないと。そして帰って来るときにはお風呂と出来たての夕飯を準備しておくんだ。
へへ…私ったら良い奥さん!えへへ…。
フルートの練習も怠らないようにしないと。五月に公演の予定がある。合同練習が二週間前くらいからあるんだ。だからその間は家を留守にしないといけない。会場が近くじゃないから。
誠二くんにとっても寂しい思いをさせていまうんだ。ごめんね、誠二くん。罪な私を許して下さい……っと、変な妄想入るところだった。
掃除が終わったらお買い物行かなきゃ。今日の夕飯は何にしようかなー。
・・・・・・
「い、いらっしゃいませ!」
「ダメだぞ後輩、そんなんじゃ。顔が引きつっておる。どれ、同じ高校のよしみ、私がお手本を見せてしんぜよう」
今は園田先輩から接客指導の受けている。
さっき記念すべき最初のお客さんを接客した時に、緊張でカチコチになってしまったんだ。
あまり人見知りはしない方だとは思うんだけど、やっぱり仕事となるとちがうんだな。失敗しないように、失敗しないように、なんて思っていたら逆に縮こまってしまった。
「いらっしゃいませー!何かお探しですか?」
園田先輩が元気にお客さんに対応している。素晴らしい営業スマイルだ。
「あ、その商品でしたらこちらにございます!他にも何かありましたらお声を掛けて下さいね♪」
すごい、手慣れている。当たり前っちゃ当たり前なんだけど、それが当たり前になるのにどれくらいかかるんだ?
「どうだい!見たかね?元気よく!笑顔で!丁寧に!わかったかい?後輩よ」
「はぁ…」
不安。
早くものしかかる重圧。
簡単だ。基本だ。自分に言い聞かせる。
「そーんなに考えなくてもいいんだよ?笑顔でいれば少しでもミスってもいいってもんさー!」
…この人も最初はオレみたいな感じだったんだろうか?この感じからは想像すら出来ないけどな。いつも笑ってるみたいだから。
「あの、園田先輩も最初はオレみたいだったんですか?」
「私?もっちろんさー!いやー、あの頃は苦労したよー。毎日仕事に行くのがイヤだったねー」
「へー、全然そんなふうには見えないですけど」
「まー、今と同じ仕事じゃなかったけどさ、毎日怒られてばっかりで。ミスしないようにって思うと逆にやっちゃうんだよねー」
あっ…。同じだ。
「でもさ、言われたんだわ。”自信を持て”ってさ。簡単に言うよね?こっちゃーまだまだヒヨッコだっていうのにさ」
「ですね。仕事のことまだわからないのに」
「そう!そうなんだよ!だから必死で覚えたよ。そしたら自然に笑顔になれて自信もついた。ミスっても取り返せる!まずは…」
仕事を覚えろ…か。
「慣れだね」
「慣れ?」
「おうよ!当然だけど、仕事に慣れろ!お客さんに慣れろ!雰囲気に慣れろ!まずはそっからだい!」
「そっからっすか」
「おうよ!そのためには働け働け若人よ!」
結局はやるしかないってことか。でも、元気は出たかな。
「ありがとうございます」
「いやー、もう少しマシなこと言えればいいんだけどねー。ま、頑張ろうよ!」
よし!笑顔だ!少しでも周りから吸収して早く自信つけないと。
それからまだぎこちない笑顔だったけど、とにかく笑顔を続けた。
最初はレジ打ちを教えてもらった。まぁ、数字打つだけなんだけどさ。お金のやり取りだから慎重にならざるをえなかったね。
管楽器やパーカツのことならある程度わかるけど他の楽器はさっぱりだ。勉強しないとな。
一応、研修中の札を胸の名札に貼ってあるから、何かあれば頼りになる先輩たちにすぐ助けを…。
オレはそのままレジに立っているわけだが…。
「すいません、ギターのネックの反りを直して欲しいんですけど」
お客さんっ!!
おおっときたー!何だ?ネック?首か?首だろ?ってオレが考えても仕方ない。
誰か…!
「し、少々お待ちください」
誰か手の空いている人はいないか!?
ん、あれは…!
「か、神崎先輩!」
「えっ!ええっと、な、何かな?」
一人ぶらぶら暇そうにしていた神崎先輩を見つけた。
「あのお客さんがギターのネックを直して欲しいらしいんですけど、オレじゃわからなくて…」
「えっ!お客さん!?う…ううーん…わ、わかったよ」
なんとか神崎先輩を捕まえたんだけど…。
「お、お待たせしました!ネックですね!は、拝見させて、い、いただいてよろしいですか?」
……カッチコチだ。オレ以上なんじゃないのか?
「こ、このくらいならすぐに、ち、調整できますので、て、店内でお待ちくださいぃ!」
神崎先輩がそう言ってお客さんはレジを離れた。その人も心配そうに神崎先輩を見ていたな。
「神崎先輩、すいません」
「い、いいよー。じ、じゃあ私はこれを直すね」
神崎先輩はさっそく作業に取りかかった。オレは少し離れたところから様子をうかがっていたが、作業内容が気になって覗きに行った。
「へー、そうやって直すんですね」
「ひゃっ!う、うん。つ、椿くんもすぐに覚えるよ」
あ、初めて名前で呼ばれた。
「先輩はこういう仕事長いんですか?」
「う、ううん。前にバンドやってたから、が、楽器のことは少しわかってたんだけど…接客業はこ、ここが初めて」
「バンドっすか!?わからないもんだなぁ。何やってたんですか?」
「……ボ、ボーカルと…ギター…」
「ボーカル!?先輩が!?」
「そ、そうだよ」
「うへぇ……」
ホント、わっからないもんだなぁ。こんなに人見知りするのに人前で歌ってたんだ…。
「あ、あと、敬語いらないからね。同い年だから…」
「えっ!?」
た、確かに歳聞いてないし若いとは思ってたけど…。
「新人ー!休憩入れー!」
あっ、もうお昼か。
「じ、じゃあお先に」
「う、うん。ゆっくり休んで」
そして裏のスタッフルームへ。
それにしてもタメだったなんてな。でも先輩は先輩だから、失礼のないように。
スタッフルームにはロッカーが並べられていて、小さなテレビがついていた。五畳くらいの部屋で真ん中に四角いテーブルが置いてあった。
今、そこにめぐが作ってくれた弁当を広げてる。オレが食べきれる範囲の食材で栄養を考え、色合いまでばっちりだ。
「おっ、なんだいなんだい愛妻弁当かい?いやー、羨ましいねぇ」
「あっ、園田先輩も今からですか?」
「おうよ!ご一緒させてもらうよー!」
ホント、この人は元気な人だ。落ち込む姿なんて見れたらレアだろうな。
「彼女?まさかそれを自分で作ったとか?」
「彼女ですよ。一緒に住んでるんです」
「くわぁー!若いのに大人な生活してるねぇ!」
「先輩こそ、彼氏はいないんですか?」
「ぐっ…そ、それを聞くのかい?」
「あっ…いや…」
園田先輩は思い切り顔をしかめて言った。
いないのか?いないんだろうな、結構かわいいのに。
「いやぁ、どうも男女関係ってやつに疎くてねぇ。しばらくいないさねぇ」
「じゃあ、前はいたんですね」
「ぐあぁぁ!そ、そこまで聞くか!聞きたいかい?聞きたいのかい?私のにがーい青春時代ってやつを!覚悟しなぁ…悲しみのどん底に突き落とすぜー…」
「ま、また今度にします」
「うむ、それがいい。とても涙なしには語れないんだぁ…」
おぅ、すでに涙が…。こりゃあ相当な目にあってきたんだろうな。今後も触れないでおこう。
さーて、弁当弁当ー。
「ところで椿くん」
「ふぁい?」
「うむ、飲み込んでからでいいよ。部活は何してたの?」
「んっ…んぐ…。すいません、吹奏楽部に入ってました」
「お?おおぉぉ!こりゃあまた奇遇だねぇ!私もなんだよー!」
マジか!?ええっと…歳が四つ違うから…。
「村田千秋!」
「おおぉ!千秋ちゃんを知ってるのかい!?」
「そりゃあ、部長してましたから」
「へ?うへぇ!そりゃまたビックリ仰天大ニュースだ!あの千秋ちゃんがねぇ…へえぇ…」
な、なんかオレが知らないこともいろいろ知ってそうだな。
「で、椿くんは何やってたの?」
「パーカツです」
「パーカツかぁ。私が三年の時には一年はパーカツ入らなかったからなぁ、誰も知らないや」
そうだな。オレが入った時にも三年はいなかったし。
「先輩は何してたんですか?」
「私はフルート!こう見えても華麗に!優雅に!美しい音色を奏でてたんだぜー?」
「めぐと一緒だ」
「めぐ?それがお前さんの彼女の名前かい?フルートしてたんだね、いい選択だ!」
「小さい時からやってたみたいですよ。両親が有名な人で…」
「へー、名前は?」
「相田恵です」
「ぶっ!?相田っていうとあの相田夫妻!?そりゃ有名だわ」
そ、そんなに驚く程有名なのか?会った時には普通の人だったけどな。
「普通のおじさんおばさんですよ?」
「あ、会ったことあるのかい?くわぁ~、ぜひサインをお願いしたいね」
サ、サイン?どんだけだよ。
「おーい!新人ー!」
ん?坂本先輩が呼んでる?
「おっ、沙希もいたか。今日の夜にお前の歓迎会をやろうって話しなんだが、都合いいか?こっちは三人ともOK。お前ら二人がいいなら作戦決行だ!」
えっ、そんないきなりだな。めぐには何も言ってないし…。
「あたしゃーもちOKです!隊長!」
うっ…じゃあ後はオレだけ?仕方ない…かな…。めぐにはメールしておこう。
「オレも…大丈夫です」
「よっしゃ!じゃあ場所は決めておくからな!たらふく飲んで食えー!」
「うっしゃー!宴会じゃー!」
うわー、すごいハイテンション。ついていけるかな?
それだけ言って坂本先輩は仕事に戻っていった。
めぐにメールを……。
・・・・・・
♪♪~♪♪♪~…。
ん、誠二くんからメールだ。今頃お昼休みかな。
なんだろう?お弁当おいしかったよ!とかかな?うふふ…わざわざそんなメールするなんて私ったら愛され…………えっ!?
そんなぁ…。歓迎会だって…。帰りは遅くなるのかなぁ。
今日はいっぱいお話し出来ると思ってたのに…。残念。
でも、これもお仕事なんだよね。仕方ない、か。
じゃあ今日の夕飯は一人か。せ、せめてお風呂だけでも用意しておかなきゃ!きっと気疲れしてくたくたで帰って来るだろうから。
早く帰って来てね、誠二くん。
・・・・・・
♪♪~♪♪~…。
ん、めぐか。えーと、帰り何時くらいになる?か。
「園田先輩、帰りって何時くらいになりそうです?」
「そりゃわっかんないなー!みんな飲むしねー。なんだい?めぐちゃんにメールかい?」
「はい、風呂の支度とかもあるそうで…」
「くっはぁっ!いいね!いいね!羨ましいねー!」
「あっはは……」
「仕事で遅くなる旦那様を待っている女。健気だね、健気じゃないか!よっしゃあ!今日は帰さーーーん!」
そ、それはホントに困る!
「さすがに帰らないと…」
「むふふ…。果たして現場でも同じ言葉が出て来るか見物だよ、椿くん」
「そ、そんなに盛り上がるんすか?」
「ふっ、それは後のお楽しみさ。君が空気を読めるやつかどうかは今日、決まる…」
目をキラリと光らせて言った。
「ほ、ほどほどに……」
「むふふ…。さぁーて!私は一足先に仕事に戻るから。椿くんはもうちょこっとゆっくりしてなよ。……本当に大変なのは夜だからねぇ」
不気味な捨て台詞を吐いて園田先輩は仕事に戻って行った。
ふぅ…。めぐに心配かけちゃうな。ちょこちょこメールしないと。
そして休憩時間が終わりオレも表に出た。交代で坂本先輩と神埼さんが。花澤店長が最後だった。
その後もたいした仕事はしないまま、就業時刻を迎えた。
花澤店長がレジ締めをして、他の四人は帰りの身支度を始めた。
『今仕事が終わってこれから歓迎会だよ』とメールを送る。それに対しての返事は『お疲れ様。早く帰って来てね』だ。
おそらくめぐの期待に答えられないことに罪悪感を感じながら店を出た。
場所はすぐ近くの居酒屋だった。
「さー、それではぁ、椿誠二くんの歓迎を祝してぇ……かんぱーい!」
「「「かんぱーい!」」」
「か、乾杯…」
今、オレが手にしているのはビールのジョッキ。ノンアルコールではなく、間違いなく本物の酒だ。
居酒屋で席に着くやいなや「生五杯!」の声が。その注文に耳を疑いながらもここにいる人数を確認した。間違いなくオレを含めて五人だ。
そしてオレは未成年だ。そしてもちろん神埼さんも未成年だ。しかし、平然とうまそうにビールを飲んでいる。
「どうした、椿くん。飲まないのか?」
「花澤店長、そう当たり前のように言いますけど、当たり前のようにオレ未成年なんですけど?」
「それがどうした?」
何を言っている?というふうな顔で聞いてくる花澤店長。いや、あなたが何を言っている?
「居酒屋……。それは我々にとって憩いの場でありオアシス。ここでは上司も部下もない、無礼講だ。飲め、椿くん。店長命令だ」
いや、あんた今上司も部下もないって…!
「椿ー!飲めー!気持ちよくなれるぞー?」
うわっ、坂本先輩すでに二杯目!
「そうだー!飲め飲めーい!」
園田先輩もすでにジョッキが空だ。
「椿くん、おいしいよ?」
「あのー、オレら未成年だよ?」
「そうだね」
「そうだねって…未成年はお酒飲んだらいけないんですけど?」
「一緒に飲もうよ!椿くん!ほらっ、飲んで?」
オレは園田先輩と神崎さんの間に座り、向かいに花澤店長と坂本先輩が座っている。で、隣の神崎さんがビールを勧めているわけなんだが…。
「ちょ、ちょっと待って!酒、飲んだことないし」
「なに?留美ちゃんのお酒が飲めないのかー!?」
う…園田先輩…。近い、顔近いっす…。酒臭いっす…。
「ねっ、一緒に飲もうよぉ。ほぅら…」
か、神崎さんも顔近い…。いい匂い…。
「クッ…ククク…顔真っ赤だぞ?」
坂本先輩が笑っている。そうか、これは仕組まれた席順なんだな。そしておそらく、酒癖が悪いのはこの二人…。
「ほらほら飲め飲めーい!」
「うわっ!んっ、んぐ…」
ゴクッ…。
うえぇ…。
「何だこれ…苦ぇ…。みんなこんなのうまいって言って飲んでるの?」
「なぁに言ってるのぉ?まだまだお・こ・ちゃ・ま、だねー」
ちなみにオレの耳元で囁くようにこう言ったのは神崎さんだ。普段とは全然違う。
「も、もう酔ったの?」
「まだまだ全然だよ~。うふっ、椿くん、かっこいい~」
いや、だからさ、顔近いんだって!
普段かけている伊達メガネも外していて顔がはっきりわかる。かわいいんだ、これが!
「うりゃあ!飲め飲め飲めー!」
この人はさっきからこればっかり!
「ククク…、人気者だなー、椿」
「そんなこと言ってないで助けて下さいよー!」
「歓迎されてるじゃねぇか。しっかり味わえよ」
「うーりゃりゃりゃりゃー!」
うわっ!ちょっ…!がほっ!
「っげふっ!…ぅ、うっぷ…!」
「おりゃおりゃー!まだまだリバースには早いぜー!食い物詰め込みなー!」
「はい、あーん…。……あんっ、もうっ、園田先輩ったら乱暴~」
はっ、はががが…!?
「んっ…んぐっ…みっ…水っ…!」
無理矢理詰め込み過ぎだって!
「はい、どうぞ。椿くん」
「あ、あひあと……んっんっ!?ぶへぇ!何だこれ!?」
「んー?しょうちゅー」
こ、これが焼酎というやつか!ビールよりはまぁ、飲めるか?そんなに苦くないし。
だけど…。
「うおぇっ…クラクラする…」
「はっはっはー!椿くんはホントに飲みは初めてかー?どうだ?楽しいだろー?」
楽しくない…気持ち悪くなってきた…。店長もテンション上がってきてるな…。
「今日の主賓は君だぞ?たらふく食ってたらふく飲むんだぞ!なーに、金のことは心配ないぞ。もちろん主賓である君が出す必要はない!だから―――」
おぅ、おしゃべり店長に早変わりだ。
坂本先輩と園田先輩は普段からあんなテンションだしな。神崎さんは、なんか色っぽくなってる。
「うわっはははー!さすが隊長!いい飲みっぷりでー!」
「まだまだ沙希には負けんぞー!」
飲み比べが始まったご様子で…。
「ねぇ、椿くぅ~ん。一緒に飲もうよぉ」
「あ、あの、神崎さん?」
「なんならぁ、口移しで飲ませてあげようかぁ?」
お、おいおい…。
「あーっ!ずりぃ!オレにもオレにも!」
「だめぇ、おじさんはいやぁ」
「ぐあぁ!オレってばまだギリ二十代!」
「オ、オレ、トイレに」
「おっ、椿ー!つれしょん行くかー?」
「え、遠慮しときます」
「うわーっははは!照れてやがる!」
ダ、ダメだ…やっぱりついていけん…。
そしてオレは席を立った。
「うおっ!?」
立った瞬間足元がふらつくのを感じた。周りを見ると世界が歪んで見える。
「椿くん、大丈夫か?」
「へ、平気です。行ってきますね」
花澤店長が気遣ってくれた。酒は入っているものの、まだそんなに酔ってはいないみたいだ。
オレはふらつく足を押さえながら壁伝いにトイレへ向かった。そして個室に座り込んだ。
「気持ちわるっ…」
歩いたら余計に酒が回ったみたいだ。
ふと携帯を手にしてみるとメールが何通か届いていた。全部めぐからだ。今は夜の九時前。
心配してるな、めぐのやつ。
・・・・・・
誠二くんからのメールの返事が来ない…。
気がついてないのかな?き、きっとそうだよね。
でも…。
他の女の人と一緒にいる誠二くんが脳裏に浮かぶ。多分女の人も…いるんだよね…。
たとえお仕事でも…イヤだな。
あっ!メール!
誠二くんだ!
うーん……え!?
お酒、飲んでるんだ…。
なんか…なんかイヤだよ…。想像したくない…。もし…もし何かあったとしてもお酒のせいにされそうで…。
…ううん、ダメだ。私が誠二くんを信じられなくてどうするの。
早く、早く帰って来て。誠二くん。
それからテレビを見たり、本を読んだりして気を紛らわせるけれど…不安でたまらなかった。
誠二くんと付き合いだしてからこんなに不安になったのって初めてかもしれない。離れてた時以上だ…。
一緒に暮らし出してからずっと一緒だったから、余計に不安が募る。
♪♪~♪♪♪~…。
メールだ…誠二くん…?
………!!
「ダメ…ダメだよぉ……。ひっく……私、強くなって…」
大丈夫、大丈夫だから…。
・・・・・・
「うあ~…うぅ~…」
「だーっはっはっ!もうギブアップかぁ?椿?」
「うぅ~…」
「ではでは皆の衆、そろそろ二次会でも行きますかい?」
に、二次会!?ウソだろ!?オレにはもう無理!だいたいめぐが待ってるし…!
「あの~…園田先輩…」
「んん~?何だい何だい?ま・さ・か、とは思うけど、もう帰りますとか言うんじゃないだろうねぇ?」
「あ…いや…」
「主賓なくして宴会ならず。覚えてるかい?私の言葉を」
園田先輩の言葉?
(君が空気を読めるやつかどうかは今日、決まる。むふふ…)
この事か?この事なのか?
「よっしゃー!まだまだ行くぞー!」
「うふっ、これからですね」
「まぁ、明日の仕事に差し支えないように……騒ぐぞ諸君!」
い、言えない…。いや、勇気を出せ!勇気を出すんだ誠二!めぐが帰りを待っているんだ!それに体力の限界も…。
「ゴニョゴニョ……どうだい?椿くん。このテンションの中…言えるかい?君は言えるのかい?」
「うっ…」
「ふふーん…。いやー、君は空気を読めるやつだったんだね!我が輩は安心したぞえ」
こんな中で、はい帰りますってサラッと言えるやつなんていないだろ。
結局はオレの歓迎会だとしても、オレは終始気をつかいっぱなしで気疲れするし、慣れない酒を飲んで具合悪いし…。
大変なんだな、大人って…。
「それじゃ、二次会はお決まりのカラオケじゃーい!全員出撃ぃ!」
「あ、あの、まだ行くっては……」
「やっほーい!」
き、聞いてねぇ。聞こえていたとしても…かな。
めぐ…ごめん。
メール…しとかなきゃ…。
・・・・・・
「―――私、強くなって…!」
大丈夫、大丈夫だから…。
二次会行くったって、お仕事、お仕事なんだよ。
私が理解してあげなきゃ。
今日は本当に一人…か。
前はずっと一人だった。
だけど今は…。
『起きて待ってるね。無理し過ぎないようにね』
これが私のせいいっぱい。
・・・・・・
「いっっえーい!!ごせいちょー、ありがとーう!」
はぁ…。一体いつまで続くんだ…。
「次、椿くん、曲入れた?」
「えっ、ああ…いや、まだ…」
「どうしたんだねー?飲みが足りないんじゃないのかねー?」
「いっ!?つ、次!椿誠二!歌います!」
もう酒は勘弁だ。カラオケに来てからは酒は飲んでいない。さすがに翌日に影響するからと断った。少々ハイになっていたオレもだいぶ冷めてきたんだが…。
それでもテンションが落ちただけで体調は最悪。少しでも体を揺らされるとリバースまっしぐら状態だ。オレの胃袋は常に緊急発進に備えて警戒態勢がとられている。歌っている間はだいぶマシなんだけどな。座っているときは顔を上げれねぇ、動けねぇ。
ついでに言えばオレのテンションと裏腹にみんなのテンションは最高潮。温度差が開き過ぎて温暖化真っ最中と氷河期くらいの差があるな。
エコだぜ、エコ。
「ねぇ椿くぅ~ん。これ、一緒に歌おうよ~」
相変わらずオレは女性二人に挟まれていた。
「いやいや、これにしようぜ~椿くん。盛り上がるぜ~?」
「園田先輩さっき歌ったじゃないですかぁ」
「だからこそ、このままの勢いで突っ走るのだよー、留美ちゃん」
あぁ…やめて、二人とも。僕は逃げませんから仲良く順番に。オレを挟んで喋られると酒の匂いがきちゃうのよ、これまた。
「私が歌いますぅ!」
「いーや、これだね!」
「お前ら仲良くなー」
すでに花澤店長と坂本先輩は傍観者と化している。歌ってるのも両サイドの二人がほとんどだし。
「椿くんに決めてもらえば?」
店長…余計なことを!
「ですね!椿くん、どっちと歌うかい?」
「もちろん私とぉ、このー、しっとりらぶバラードだよね~?」
「何を言う!そんなのあとあとー!ロックンロールで暴れまくるぜぃ!」
「オレはどっちでも……」
出来れば二人で一緒に歌ってくれると助かるんだが…。
「君に決定権があるのだよ。さぁ、選びたまえー」
やっぱ選ばないといけないんだよな。ロックより、バラードかな。体力的にも。
「じゃあ、神崎さんと」
「あはっ!留美うれしっ!」
二重人格だよ、もはや。
「にゃ、にゃにおー!何だい!?何が気に入らなかったというんだい!?生かすから!この次に生かすから教えてくれーーー!!」
し、しまった!神崎さんとじゃなくバラードと言うべきだったか!?
ユッサユッサユッサ…!
「うおっ!うぷっ……ちょ…その…だ先輩、や、やめ……」
げぇぇぇぇぇぇ……。
「「「「あっ…」」」」
…………
やっちまった……。
・・・・・・
「すいません…」
「い、いやー、私がちょっと無理させすぎたね」
「うむ、トドメは沙希だったな」
「う、うう~……」
はぁ…。
やったよオレ。
部屋の中にオレのリバースアタックをぶちまけてやったんだ。今世紀最大の環境汚染だったね。
そのおかげでカラオケもお開きになったんだが、最悪な終わり方だったな。
「椿くん、一人で帰れるか?」
「はい、タクシーで帰りますよ。さっき出したおかげで少し楽になりましたし」
「初日からすまなかったな」
花澤店長はいい人だ!
「いやいや、楽しかったですよ」
「ま、早く帰って休むようにな」
そしてタクシーを拾って帰路についた。
めぐにメールをしたけど返事はなかった。怒ってるんだろうか。無理もないかな…。
タクシーの中ではいつの間にか寝ていて、家の近くで運転手さんに起こされて目が覚めた。
家の電気はまっだついていた。今は午前一時。普通ならとっくに寝てる時間だ。だとしたらやっぱり怒ってるんだろうか。メールの返事はまだ来ていない。
飲み帰りのサラリーマンはこんな感じなんだろうか。玄関のドアを開けるのが少し怖い。いやいや、こんな時間まで待っててくれたんだから。
ガチャッ…。
「ただいまー……」
返事はない…。
「めぐー…?」
オレは恐る恐る明るいリビングへと足を進ませる。リビングのドアの隙間から光が漏れている。
気分はだいぶ良くなったとはいえ、まだまだ酒臭いのが自分でもわかる。
「めぐー…?」
リビングのドアを開けた。
「なんだ……」
めぐはリビングのソファーで横になって寝ていた。その右手には開きっぱなしの携帯が握り締められていた。
そしてテーブルには今日もめぐの作った料理が並べられていた。二人分、きれいに残っていた。食べて来るって言ったのに。
もう一度めぐの寝顔を見る。
……このまま寝かせておくか。
先にシャワーを浴びよう。スッキリしたい。
バスルームのバスタブにはお湯が張っていて、そのお湯はもうぬるかった…。
「んっ……」
私、寝ちゃってたんだ…。今何時…?
一時か。もうそんな時間。
……あれ?
何か音が……シャワーの音!?
誠二くん!?
私はバスルームへ急いだ。
帰って来たんだ!誠二くん!
ガラッ!
「誠二くん!」
「うわっ!めぐ!?」
「誠二くん!」
シャワーを浴びていた誠二くんを背中から思い切り抱き締めた。
「誠二くん…!」
「めぐ…悪い、遅くなった」
「ホントだよ。寂しかったんだから…」
「ごめん。帰ろうにも帰れない雰囲気でさ…」
「うん…」
わかってるんだ。誠二くんは悪くないの。ちゃんと帰ってきてくれたし。
「誠二くん、お酒臭い」
「あー、だいぶ飲まされたからなぁ。めぐも、服びしょびしょだぞ?」
「いい。まだお風呂済ませてないから」
「お湯、温めなおすか」
「うん」
それからシャワーを浴びながらバスタブのお湯を温めなおした。
チャプ…。
「誠二くん、もういいよ」
「うん。よっと…。あーー、癒されるー」
「クスッ、どうだったの?楽しかった?」
「いやー、気をつかってばっかりで、めちゃくちゃ疲れたー。大変だったー」
誠二くんはぐったりしてる。ホントに疲れきってるみたい。
「お仕事は?」
「仕事はまだまだ。掃除とレジ打ちだけ。でも職場の雰囲気は悪くないかな」
「そっか。…女の人も…いるんだよね?」
「ん?うん。…なんだ?めぐ、心配してるのか?」
「えっ!いや…うん…少し…」
「ははっ、大丈夫だって。めぐと付き合ってることは言ったし。一緒に住んでることも。それに、オレはめぐが好きなんだぞ?」
「…うん…えへへ…」
そうだよね。私たちは愛し合ってるんだから。少しでも疑っちゃうなんて、私バカだなぁ。
「ね、誠二くん、ご飯は……って、食べてきたよね」
わかってたけど、いつも通りに作らないとイヤだったんだ。ちゃんと二人分。
「いや、せっかく用意してくれたんだし食べるよ。食べたものはほとんど残ってないしな…」
「え?」
「具合悪くなって……戻した。みんながいる中で」
「誠二くん、汚い…」
「あれは…仕方なかったんだ…」
あ、あれ?本気で落ち込んでる?
「は、初めてお酒飲んだんだから仕方ないよ!」
「うん…。うぁー!でもやっちまったんだー!あんな狭い部屋の中で胃酸の香りが部屋中に……うっ、うぷっ…思い出したらまた吐き気が…」
そ、想像したらイヤだな。
「今日は早く休んで、明日お話し聞かせてね」
「うん。あぁ、明日っていうかもう今日、しんどいだろうなぁ」
「ふふ……頑張ってね、誠二くん」
その後、誠二くんは疲れ果てていたのだろう、夕飯を食べるのも忘れてリビングのソファーで眠ろうとしていた。そんなとこで眠ると疲れが取れないだろうから、無理矢理にでも部屋に向かわせた。
…仕事か。
誠二くんは私より一歩先に大人になったんだな。
私ももう少ししたら仕事が始まる。そうしてそれぞれ別々に仕事をして、今まで通りに二人の生活が出来るのだろうか。
私は少し心配していた。
今日みたいなことが頻繁にあるとすれば、私は普通に過ごせるのかな。これから私たちの間に溝が生まれないだろうか。
仕事という新しいことが始まって、二人とも新しい世界に入り込む。当然、今までと何ら変わらない、なんてことはないはずなんだ。お互いの絆が試される時が来るんじゃないかと私は予感していた。
もっと分かり合っていかないといけないのかもしれない。そんなことをにわかに考えつつ、私は眠りについた。