No.4「スカウト」
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何を言われたのか、僕は理解することができなかった。ただ呆然と「えっ?」とまた間の抜けた声を上げるしかない。その後に「急に何を言い出すんだ」という男性の声が聞こえてきた。おそらくリオンさんだろう。しかしガンコの言葉を理解することに僕の意識は向いていたため、そちらを振り向くことはなかった。
「今の話を聞いて、達希くんが接客業にあまり乗り気じゃないっていうのはわかっているつもり。従業員のみんなのことは信じているけど、うつ病が悪化しないなんて言い切ることはできない。でも、私は達希くんと働きたいって、そう思ったの」
話している間、ガンコは瞬きすらせずに、ずっと僕を見つめ続けていた。その様子から、決して軽はずみでないことが伝わってくる。
「でも、色々と迷惑をかけるかもしれないんだよ? 心の病気を理由に、ガンコに甘えたり、負担をかけたりするわけにもいかないし」
「それも含めて、私は達希くんを雇いたいの」
ガンコの目は揺るがない。彼女の真剣さがひしひしと伝わってくる。
「一体、どうしてそこまで――」
訳が分からなかった僕は、戸惑いながら訊ねた。
ガンコのスカウトは、ただ僕が小学校の同級生だからという理由だけでは済まない。同情してくれるのはありがたいが、だからと言って一緒に働こうと言い出すのはまた違うはずだ。
ここに来てようやく、ガンコは視線を僕から床に逸らした。そして蚊が泣くような小さな声で「昔、助けてもらったから」と呟くように言った。
ただ、僕には何のことだかわからなかった。
「助けた? 誰が?」
「もちろん、達希くんだよ」
「僕が? ガンコを?」
僕は驚きながら自分自身を指さした。全くと言っていいほど覚えがない。
「ほら、私が転校してきたばかりの頃のこと、覚えている?」
「あぁ。友達になってからはすごく明るかったけど、最初はとても大人しかったよね」
僕の脳内で、十六年前の光景が蘇る。
大人しかったと表現したが、実際はそんなものじゃない。ガンコは暗い顔をしたままずっと一人で席に座っていた。クラスメイトの誰かと話した姿を、あの時はまだ見たことがなかった。クラスに馴染めずにいたのだ。
一日中俯いたままの彼女に、声をかけようとする子供は誰もいなかった。僕も含めてだ。最初こそ何人かの女子が話しかけてはいたが、素っ気なく答えるガンコに近づくものは次第に減っていった。それだけならまだしも、彼女のことを裏で「人形」などと揶揄する声まで上がったのだ。僕はガンコのことを不憫に思いながらも、何も行動を起こすことができなかった。
「あの時の私はさ、ちょっと嫌気がさしてたっていうか、荒れていたんだよね」
「荒れていた?」
「そう。まぁよくある話だけど、親の都合で何回も転校してさ。どうせまた別れることになるのなら誰かと仲良くなるなんて意味ないじゃんって。だから皆と壁を作って、会話もろくにしていなかったってわけ」
「でも最初だけで、気付けばガンコは笑うようになって、クラスの皆とも打ち解けていたよね」
僕の記憶の中にいるガンコは、今日みたいに明るく笑う可愛らしい女の子だった。暗かったのは本当に転校してきて間もない頃だ。
しかしガンコは少し頬を膨らませ「やっぱり忘れている」と不満そうに言った。
「そうなれたのが、達希くんが助けてくれたからだって言っているの」
「そうだっけ?」
僕は首を傾げ、記憶を探ってみる。しかしどうにも思い出すことができない。痺れを切らしたのか、ガンコが僕の肩を小突いた。
「転校して二週間か一か月ぐらい経った頃かな。クラスの男の子――山上くんだっけ――と、その取り巻きに私が絡まれたことがあるの」
「あぁ、山上か」
僕は顔を引きつらせてクラスメイトの顔を思い出していた。
山上は僕らのクラスの中で最も態度の大きい生徒だった。小学生でありながら百七十センチメートルという高身長を誇り、常に取り巻きが二人いた。悪ガキで好奇心が強く、安全ピンの針を耳に刺してピアス代わりにしようとして、担任の先生にひどく叱られていた。
「放課後、クラスの皆が帰って、私一人だけが残ったことがあったんだ。親への反抗心というか、とにかく不満が溜まりに溜まって、何となく家に帰りたくなかったっていうだけなんだけど。で、一人でボーッと席に座りながら窓の外を眺めている時に、山上くんが絡んできたわけ。お前、いつも俺らを見下すような態度をしやがって、ムカつくんだよってね」
僕は苦笑する。いかにも山上が言いそうなことだった。高圧的な態度をする人間は、子供にも大人にもいるというわけだ。
「私はそんなつもりはないって言い返したの。でも何が気に入らなかったのかな、山上くん、私の胸倉をつかんできてね、女だからって殴られないと思うなよって言って拳を振りかざしてきたの」
「あっ!」
そこまで話を聞いて、ようやく僕は思い出した。
確かにそんなことがあった。あの時、僕は渡されたプリントを机の中に入れたままにしていたことを思い出し、教室に取りに戻ってきたのだ。その時、山上とガンコが揉めている現場に遭遇した。
考えるよりも先に、体が動いていた。僕はガンコと山上の間に立ち、両手を広げて「やめろ!」と大声を上げた。山上はそんな僕を見下ろし「邪魔すんな」と小学生ながらドスの利いた声で僕の肩を押してきた。
ハッキリ言って、かなり怖かった。手が、足が、体のあらゆる部分が震えていた。しかしここで逃げるわけにはいかない、逃げたくないという思いが、僕を何とかその場に踏みとどまらせた。
ついに山上が腕を振り上げた。殴られると思い、反射的に目をつぶった、その瞬間だった。
「そこで何をしている!」
偶然通りがかった担任の先生が慌てて教室に入ってきた。僕らは呆然とした表情で先生を見つめていた。
その場にいた全員が席に座らされ、顔を真っ赤にしている先生に事情を説明した。暴力沙汰に発展しかねない事態だったので、両親にも先生から報告が入った。心配性な僕の母親はその話を聞くなり真っ先に「何て危ないことをするの!」と怒り、僕は家に帰ってから何時間も説教を受けるはめとなった。
次の日、げんなりしながら僕は小学校に登校した。しかし席に座るなり、ガンコがソワソワとしながら僕に近づいてきた。
どうしたのだろうと首を傾げていると、ガンコは僕から目を逸らしながらも手を差し出してきた。よく見ると透明な袋が握られており、中には色んな形のチョコレートが入っていた。
「国島くん、甘いもの好き?」
相変わらず僕と視線を合わせないながらも、ガンコは質問してきた。僕は何度も瞬きしながら頷いた。それを視界の端で確認したのか、ガンコは初めて安堵の表情を浮かべると、改めて僕に袋を差し出してきた。
「これ、昨日のお礼。良かったら食べて」
「えっ、いいの?」
驚きのあまり、思わず僕は訊き返した。
僕としてはガンコを助けたという自覚はない。割って入ったのも成り行きに近かったし、何より最終的に解決に持って行ったのは先生だった。
「もちろん」
しかしそんな僕の戸惑う気持ちなど露知らず、ガンコは笑顔を浮かべていた。
転校してきてから初めて見る笑顔だった。その表情になぜか僕の心臓は高鳴りを覚えるも、それを顔に出すことは何となく恥ずかしいように思えたので、慌てて下を向いて「ありがとう」と袋を受け取る。
「でもこれ、溶けちゃわないかな」
「え?」
「ほら、学校でお菓子を食べるのは禁止だし、家に持って帰ってからだとドロドロになるかも」
今にして思えば、本当にずれていたと思う。そこで変に真面目さを出すものではないだろうに。
しかしガンコは怒るどころか吹き出し、次の瞬間には腹を抱えて笑った。何がそんなにおかしいのだろうと、僕はポカンと口を開けて彼女を見つめるしかなかった。
それ以降、山上は僕やガンコに接触してこなくなった。親にこっぴどく叱られたのか、それとも先生の目が光っているからなのか。あるいはその両方かもしれない。
逆に僕らの方は一緒にいる時間が増えていった。先ほどまでは忘れていたが、これがきっかけだったのだ。
「だからさ、あの時の恩返しがしたいっていうか、何だかほっとけないんだよね」
隣でガンコが照れ臭そうに髪を触る。
「そんな、恩だなんて大げさだよ」
「まぁ、雇いたいっていうのは、あくまで私のわがまま。何より達希くんが私と――コーヒーショップで働きたいと思うかどうかだし、それにリオンや千尋の意見も聞いたほうがいいだろうから――ちなみに、二人はどう思う?」
ガンコは振り向き、二人の従業員に声をかけた。キッチンにいた千尋さんとリオンさんは互いに顔を見合わせた後、静かに頷く。
「俺は頑奈が採用したいと思うなら、そうすればいいと思う」
「私も同じかな。それに真面目で良い人そうだし、ありだと思う」
二人の言葉に、ガンコは満足そうに頷いた。
ガンコとこれから働ける。その予期していなかった事態に、自然と僕の胸は高鳴った。子供の頃と同じように。
(続)




