No.3「うつ」
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一度口にしてしまうと、後は湯水のように次々と言葉というものは流れ出てくるものだ。
それからは淡々とした調子で、ガンコに僕の経歴を話し始めた。その間、彼女の顔は見ず、ずっとカウンターテーブルの上に置いた手を見つめる。
大阪の大学を出た後、僕は全国でリゾートホテルをチェーン展開している大手の会社に就職した。そして最初に配属されたのが、北海道の山中にあるホテルだった。
働き始めた当初は慣れないことも多くて、毎日のように仕事で失敗する夢を見るほど憂鬱な気分だった。しかし来てくれたお客さんには可愛がってもらえることが多く、それなりに充実はしていたのかもしれない。
しかしホテルに来てくれる客が全員、優しいというわけでもない。
名前を間違えてしまったということで、宿泊客を不快にさせてしまうパターンもあった。他には「部屋が気に入らない」「レストランで案内された席が不満だ」などと言った理由でクレームをつけに来るお客さんもいる。
それだけならいい。従業員とお客さんの関係は、悪かったとしてもその場限りで済むこともある。だが、職場内の人間関係はそうはいかない。
上司からは事あるごとに叱られた。どれも僕の失敗ばかりだ。作業効率が悪いことや、言葉遣いが間違っていることなど。僕自身のミスなのだから、反省して引きずらないようにすればいい。しかし「今まで苦労から逃げてきたからそんな性格になるんだ」と人生すら否定してくる言葉は、耐えるにはあまりにも大きすぎた。
現代の若者は我慢が足りない、面倒くさがりだなどと否定されがちだ。それはいつの時代もそうなのだろうが、それでも言われる側からしたら悔しくてならない。
だから僕は耐えようとした。見返してやりたいと思った。「現代の若者」という一つの括りでしか見てこようとしない年長者たちに、全ての若者がそうではないのだと。だからどれだけ心にダメージを負っても、我慢をし続けようと覚悟を決めていた。
そのはずだった。
おかしいと気付いたのは、働き始めてから一年と半年を過ぎたあたりだった。
夜に眠れないことが増えた。一度眠りに落ちたとしても、二時間に一回ぐらいの頻度で起きてしまうのだ。それが毎日のように続いた。
さらには仕事中も、お客さんや従業員と接する時、常に恐怖を感じるようになった。それだけなら単に失敗を恐れてのことだと自分でも納得できるのだが、手が震え、動悸が激しくなることがある。他にも上司に叱られている時、足に力が入らなくなり、急に立てなくなったことも二度あった。
さすがにこれはまずい。そう思った僕は、精神科に行ってみた。最初は人と接することに恐怖を覚えるから、対人恐怖症かと思った。だが実際に診断を受け、うつ病だと言われた。
最初は絶望した。まさかうつ病だとは――心の病気だとは、思いも寄らなかったからだ。今後どうすればわからないながらも、僕は次の出勤日に上司にこのことを報告した。
「だからなんだ」
それが上司の第一声だった。
「大丈夫だ。俺の周りにもうつ病持ちは多いし。どの程度なら圧力をかけても悪化しないかわかっている。だから今まで通りいくぞ」
なぜか誇らしげな上司の顔を、僕は今でも覚えている。
あぁ、この人には何を言っても通じない。そんな失望が、僕の中で大きく広がった。
この人は気付いているのだろうか。僕のうつ病の原因が、あなたにあることに。もしかしたらその周りの人が、あなたのせいでうつ病を発症したのかもしれないという可能性を、一度でも考えたことはあるのだろうか。
もしないのなら、まさにめでたいという他ない。
僕の中での悪態は日を追うごとにひどくなっていった。そしてそんな自分が、心底嫌だった。
だから僕はホテルを辞め、大阪に戻って転職活動を行った。もちろん精神科に通い、うつ病が悪化しないよう医者と相談しながらだ。
次に入社したのは、医療機器をメンテナンスする会社だった。特にやりたいと思える仕事もなく、かと言って接客業は前職のこともあるので避けた。
入社と言っても、契約社員からのスタートだった。病院に常駐し、患者に使用した医療機器を清掃するのが主な仕事だった。本格的なメンテナンスはメーカーの研修を受けた正社員か病院の臨床工学技士が行った。
契約社員として一年働けば、正社員になるための性格診断と面接を受けられる。そして一年経ち、僕はそれらにのぞんだ。
性格診断、人事面接を得て、最後の役員面接へと進んだ。東京の本社に行き、緊張しながら会議室に入った。しかし始まってすぐ、会社の社長に帰れと言われてしまう。
「文系出身の人間が、こういう技術職に就くのには疑問を覚えるんでね」
それが社長の意見だった。
僕は目の前が真っ暗になったような気分だった。その場で叫び出したい衝動を、必死で抑えた。
なぜ今さらそんなことを言うのか。どうして入社する際の面接の段階で落としてくれなかったのか。一体、僕のこの一年間は何だったのか。
それから先の記憶は曖昧だった。気付けば僕は大阪に戻り、適当な居酒屋で一人で何杯も酒を呑んでいた。
自分を責めずにはいられなかった。大学まで行ったのに、どうして僕はこんなにもポンコツなのか。なぜ欠陥ばかりなのか。
次の日も出勤日だったが、僕は体調不良を理由に休んだ。実際には二日酔いだったのだが、いずれにせよとても出勤できる精神状態ではなかった。現場を仕切っている課長も「わかった、ゆっくり休むんだよ」と言ってくれた。その電話越しの口調からも、面接でのことをある程度聞き及んでいることがうかがえる。
一日休み、面接から二日後。僕は勤務先の病院に出勤した。職場の皆は僕を気遣ってくれたし、ありがたいことではあったのだが、同時に申し訳ない気持ちにもなってしまう。
その日、会社のエリアマネージャーである藤本舞さんが病院を訪れた。
藤本さんは三十歳という若い年齢で部長職に就いている優秀な女性だ。関西エリアの管理を任されており、それぞれのエリアの常駐先の病院に行っては職員の様子を確認したり、病院との話し合いも行ったりしているとのことだ。実際にはやることはさらにあるのだろうが、詳しく聞いたことはない。
そんな彼女が僕のところに来たのは、今後の動き方について話し合うことが目的だった。藤本さんは苦しそうな表情で転職を薦めてきた。
「二十代だし、やっぱり正社員としてどこかの会社で働いた方がいいと思うの。次の仕事先が見つかるまで、うちで働いていいから」
急に無職にするよりも良いだろうという、藤本さんなりの配慮だろう。
契約社員として入社する面接の際、面接官を担当したのが藤本さんだった。採用したのにこのような結果になってしまって申し訳ないと、彼女は何度も僕に謝ってきた。
僕は別に、藤本さんを責めるつもりはなかった。
彼女のことは恨んでもいないし、このような結果になったとしても嫌うことはない。
藤本さんには色々と面倒を見てもらったし、何度も気にかけてくれた。だからこそ、これ以上その好意に甘えるわけにはいかなかった。もしも上が用済みと判断した人間を彼女が庇うなら、迷惑がかかるだろう。そう思ったからだ。
僕はこのまま退職を希望し、職場を去ったのが二か月前、八月の末だった。それからずっと転職活動を続けている。しかしお世辞にもうまく言っていない状況だ。
理由は明白だった。うつ病が再発したのだ。
前職の社長から、役員面接で言い放たれたことがどうしても頭から離れなかったのだ。
――文系出身の人間が、こういう技術職に就くのには疑問を覚えるんでね。
これは価値観の問題だ。社長が一方的に悪いとは思いたくない。それでもふとした瞬間に脳裏に過ぎり、僕の心に暗い影を差す。さらにはうつ病を患った過去を話せば面接官は渋面を浮かべ、ひどい時にはそんな人間はいらないと言われる。今日の面接でも「そんな弱い心じゃ、この先やっていけないぞ」と言い捨てられた。
うつ病を隠せば、もしかしたらまだ可能性はあったのかもしれない。しかしうつ病のことを黙って入社した結果、症状が再発して、それを会社に事前に報告していなかったことが原因で辞めさせられたという話も聞いたことがある。
そうした理由から、うつ病を隠すことが良い手だとはどうしても思えなかった。他人の言うことを気にしなければこんなにも弱ることはなかったのだろうが、僕は器用な性格ではなかったし、そもそもそれができるならうつ病など患うことがないのだ。
「――ってな感じかな。ごめんね、あんまり面白い話じゃなくて」
そう言って僕は一呼吸の間を置き、インフューズドコーヒーを一口啜った。冷めたせいなのか、先ほどよりも酸味が強くなっている。最初に頼んだマンデリンは、話をしている間に飲み干してしまった。
隣からガンコの声は一切飛んでこなかった。
不思議に思った。僕と再会してから先ほどまでは、屈託なく話していたというのに。
あまりにもつまらない話だったのだろうか。僕のことを、ただの甘ったれた大人だと幻滅したのだろうか。
恐怖心が膨らみつつ、恐る恐る僕は隣に目をやった。そして愕然とする。
ガンコが泣いていたのだ。目を充血させ、カウンターテーブルの上に水滴を落としている。
僕は戸惑い、助けを求めて他の店員に目をやった。しかしリオンさんも千尋さんも予想外のことだったようで、キッチン内からポカンと口を開けてこちらを見つめるばかりだった。
「ごめんね、驚かせちゃって」
我に返ったのか、ガンコが目元を拭った。その声音は先ほどよりも高く、裏返っていた。
「でも達希くん、つらかったんだね」
また予想外な言葉に僕はどう返事をすればよいのかわからず「えっ?」と訊き返した。
「だって、今の話を聞いているとそうじゃない? 君の頑張ろうという気持ちと苦しさがすごく伝わってきた。でもきっと達希くんは、今の私の想像よりもずっとつらい思いをしてきたんだろうなって考えると、何だか、ね」
それ以上は上手く言葉が出てこないのか、ガンコは天井を見上げて顔を逸らした。
先ほどまでの驚きは徐々に落ち着きつつあった。代わりに僕の涙腺も緩み始めている。
嬉しかったのだ。僕を想って泣いてくれる人がいることに。僕のことを励まし、慰めの言葉をかけてくれたことに。
都合の良い甘えなのかもしれない。それでも僕は、ガンコの言葉に救われたような気がした。
僕の涙はついに我慢の限界を迎え、瞳の端から流れ落ちた。涙が頬を、鼻筋を伝って下に落ちていく。
「ありがとう、ガンコ」
本当に自分の声なのかと疑いたくなるような、ひどく泣きじゃくった声だった。今の僕には、それしか言うことができない。
ただ嬉しかったという気持ちを短く伝える一言しか。
「なんで達希くんがお礼を言っているのよ」
ガンコが泣きながら笑顔を見せ、軽く僕の肩を叩いた。それがまた励ましてもらっているようで、さらに僕の感情の波は昂る。それを誤魔化すように僕は残りのコーヒーを飲み干した。
「コーヒー、美味しかったよ。ご馳走様」
涙が治まった僕はまるで逃げるように急いで立ち上がり、ジャケットの内ポケットに入れた財布を取りだした。しかしその手首をガンコが掴む。
急なことで僕の心臓は飛び上がった。ガンコに目をやると、真剣な表情で僕を見つめている。
「あのさ、もし達希くんが良かったらなんだけど――」
そこまで言ってガンコが口ごもった。俯いたのでその表情を確認することはできない。
数秒の間を空け、彼女が顔を上げた。その目には、何らかの決意の光が宿ったように僕には見えた。
「ウチで、働きませんか?」
(続)




