No.15「告白」
〇
「うつ病、なんだよね。私」
平衡感覚が失われたような気がした。何とか踏みとどまり、倒れるのを防ぐ。
この薬を見た時点で、そうだろうとは思っていた。それでも本人の口からうつ病という単語が出てくると、どうしても動揺してしまう。
「詳しく、聞かせてもらってもいいかな」
僕の言葉に、ガンコは大きく頷いた。もう一度深く息を吸い込むと、覚悟を決めたのか表情が引き締まる。
「最初にうつ病が発症したのは、私がアメリカにいた頃だったの。仕事が無茶苦茶忙しかったうえに、成績を上げていっても上司たちからはもっと良いものをって更なる結果を求められてさ。時にはすごくねちっこい嫌みまで言われた。これだから日本人はバカなんだとか、何も考えていないとかね。そしていつの間にか、眠れない日が続いた。会社に行くのが――日々を生きるのが、何だか怖くなった。あぁ、これはやばいってカウンセリングを受けたら、うつ病だって診断されたんだよね」
「そんな――」
ガンコの話を聞きながら、僕は動揺を隠すことができなかった。
「それがわかって、三か月間休職した。うつ病のことは報告した上司以外、誰も知らない。もちろんリオンも。で、アメリカにいる間に結構回復はしたんだけどね。日本に戻ってきて、この店を持つようになってから、またプレッシャーを感じるようになった。いつか潰れてしまうんじゃないか、何かの拍子に悪い評判が流れるんじゃないか、それらの問題から、達希くんたちを困らせることになるんじゃないかって、不安の種は絶えなかった。バカみたいでしょ。そんなの一々気にしたって、キリがないのはわかっているのに――で、その結果、また眠れない日が続くようになった。あぁまたか、これはヤバいかなって早めに気付いたつもりだったんだけどね。病院に行ったら案の定、既にうつ病だって」
そこでガンコは天井を見上げる。かと思うと意味深な笑みを浮かべ、僕を見た。
「達希くん、原田メンタルクリニックって知っているでしょ」
「え?」
あまりに予想外な言葉に、僕はその一言しか口にすることができなかった。
なぜガンコが原田先生のクリニックを知っているのか。通院していることは話しても、病院名は告げていなかったはずだ。
「私もさ、あそこに通っているんだよね。でさ、一回待合室で達希くんと会っているんだ」
「嘘でしょ」
「本当だよ。まぁ知り合いに見られたくないからさ、帽子を被ってマスクをして、メガネをかけていたから顔は全然見えなかったんだけどね。我ながら不審者の風貌だわ」
そう言われて僕は思い出した。確かにこの店で働き始めてすぐの診察で、こちらを妙に見つめてくる女性がいた。まさかあれがガンコだったというのか。
「全然気付かなかった」
「気付かれないようにしていたんだから当然だよ。というより、そうじゃないと私が困っちゃう」
ガンコが悪戯がバレた子供のように舌を出す。しかし表情は引きつっていた。
何を思ったのか、ガンコが立ち上がった。そしてスライドドアにはめ込まれたガラス越しに、外を見る。人通りは少なく、目に映るのは街灯に照らされた街並みばかりだ。
「私はさ、前の職場の上司たちのように、下手に圧をかけたり、怒鳴り散らしたり厭味ったらしい言い方をしたくない、絶対しないぞって、そう決めているんだよね。まぁこの前、達希くんとはちょっとケンカしちゃったけど。でもそしたらさ、いつの間にか臆病で、正しく叱ることができない人間になっちゃったんだ」
「それは――」
何か声をかけたかったが、それ以上の言葉が出てこなかったし、そもそも思い浮かばない。僕に構わず、ガンコは言葉を続けた。
「高圧的な人を見ると冷めた目で見ちゃうし、怒りっぽい人がいるとつまらない人間だなって軽蔑する。とても傲慢でしょ? それが関係しているのか、心のどこかが欠けているような感覚がずっとある。人と関わることが好きなはずなのに、一方で他人がすごく怖いと感じている。だから私、信じたい人を前にしても、無理に明るく振る舞っちゃうんだ。心がどんな状態であったとしても」
ガンコがドアから一歩下がり、振り向いた。瞳から光るものが滴り落ちる。それが涙だと気付くのに、僕は数秒遅れた。
「ねぇ達希くん。すっごく面倒くさいこと聞くね」
ガンコの声は震えていた。浮かべる笑みは弱々しく、今にも消えてしまいそうだ。
「私って、やっぱりどこかおかしいのかな?」
彼女の問いかけに、僕はすぐに答えることができなかった。
違うというのは簡単だ。しかしその一言で済まされるようなものではないのもまた事実だ。
ガンコは答えを求めているのではない。ただ苦しんでいる。胸が締め付けられるくらいつらいだろうに、助けてと言うことができない。助けの求め方がわからないのだ。
妄想と言われればそうかもしれない。しかし僕にはそう思えてならない。
彼女が吐露した思いは、僕が普段からずっと感じていたことなのだから。
「ごめんね、何か変に自分を語っちゃって。もう帰ろう。あっ、リオン達には引き続き秘密にしておいてよ。変に心配をされたり、気を遣わせたりしたくないし」
この沈黙をどう捉えたのか、ガンコは涙を拭うと、またいつものように笑顔の仮面を身につけた。そしてキッチンに向かって歩き出す。荷物を取ろうとしているのだろう。
気付けば僕は、彼女の腕をつかんでいた。
ガンコが目を大きく見開いて振り向く。そんな彼女を真っ直ぐ見つめた。
体内の血液から熱が奪われるのを感じた。それなのに心臓はいつもより激しく動いている。そんな矛盾を覚えながらも、僕はゆっくりと口を動かした。
「僕に、君を助けさせてほしい」
ガンコが口を半開きにした。僕自身、何を言い出すんだと思った。思考が上手く整理できていない。それをわかっていながらも、言葉を止めることができなかった。
「この前さ、藤本さん――前の職場の上司が店に来た時のこと、覚えている?」
「うん、あのキレイな人だよね」
「あぁ。ガンコは藤本さんだけじゃなくて、僕にもコーヒーを出してくれた」
話が見えてこないのか、ガンコはキョトンとした顔で首を傾げている。
「その時、ガンコは僕の好きな、モカフレンチのコーヒーを淹れてくれただろ」
ガンコは呆けた表情のまま、首を縦に振る。
あの時、コーヒーを一口啜って、僕は驚いた。てっきり藤本さんと同じコスタリカコーヒーだと思っていたのだが、それにしては苦味が濃かった。そしてすぐに、モカフレンチのコーヒー豆を使ったのだと気が付いた。
「あの時、僕は嬉しかった。そしてすごいと思ったんだ。相手のことを気にかけて、一歩先に進んだサービスをする。それは誰にだってできることじゃないし、接客をしていた僕だって、情けない話だけど思いつくことができなかった」
「達希くん――」
「そんなガンコだからこそ、僕は君の力になりたい。ガンコが苦しんでいるなら、それを僕にも話して、分けてほしい。巻き込んでほしいんだ」
「でも、達希くんにまで迷惑をかけるような真似、できないよ」
ガンコが目を伏せる。自分の苦しみを他人にも与えることに、抵抗を覚えているのだろう。
やはり、ガンコは優しい。しかし、それではガンコはどうなるのだ?
ガンコがつらい時、誰が力になってくれるのだろう。何が彼女に活力を与えてくれるのだろう。
だから、僕はガンコの力になりたいのだ。例えそれが、僕自身の傲慢さによる想いだとしても。
「ガンコがさっき言ったことが間違っているかどうかなんて、僕にはわからない。全体的に正しい、なんてことはないのかもしれない。でも、共感を覚えたのは確かだ。今後、もし誰かが君を否定してくるようなら、その分僕が肯定する。傷つく言葉を投げかけられたなら、それを覆えせるぐらい僕がガンコのことを褒める」
次第に声に熱がこもっていくのが、僕自身わかってきた。ただ、今はこの衝動を抑えることができない。
だって僕は――
「僕は、ガンコのことが好きだ。再会した時から、いや、子供の頃からずっと」
店内には時が停まってしまったのではないだろうかと疑いたくなるほどの静寂が訪れた。その静かさが、ようやく僕を大人しくさせる。それと同時に、体温が急上昇していくのがわかった。
告白してしまった。ロマンなんてあったものではない。ガンコの心が弱っているというのに、自分のことを優先し、気持ちを伝えてしまうなんて。
「あの、ガンコ、ごめ――」
咄嗟に謝ろうとしたが、僕はそれ以上言葉を続けることができなかった。
目の前にいるガンコの瞳から、滴がこぼれ落ちた。涙はどんどん流れ、彼女の頬を濡らす。
僕はどうすればいいのかわからなかった。ハンカチを差し出せばよいのだろうか。それとも抱きしめれば良いのだろうか。ただそのどちらも選ぶことができず、立ち尽くすしかない。
急に、胸に軽い衝撃を受けた。下を向くと、ガンコが僕の胸に顔を埋めている。
「ごめん、今は、このままでいさせて――」
ガンコの弱々しい声が僕の耳に届いた。驚いたし心臓の鼓動はさらに激しくなるが、それでも僕は「うん」と静かに頷く。
それからすぐに、ガンコの泣き声が店内にこだました。
(続)




