第9話「崩壊の序曲」
満月の夜が近づくにつれ、島の空気は重苦しくなっていった。
海は荒れ、風が唸りを上げて吹き荒れる。
リエンは結界の維持に全力を注いでおり、顔を合わせる時間も減った。
私は部屋で静かにその時を待っていた。
恐怖がないと言えば嘘になる。記憶を取り戻すことで、今のリエンとの関係が壊れてしまうのではないかという不安もあった。
だが、前に進まなければならない。
運命の夜。
二つの月が完全に重なり、空が不吉な赤紫色に染まった。
リエンが私を迎えに来た。正装に身を包んだ彼は、どこか儀式めいた雰囲気を纏っている。
「行こう。すべての始まりの場所へ」
彼に連れられて向かったのは、屋敷の地下深くにある祭壇だった。
そこには巨大な水晶があり、内部で光が脈打っていた。
リエンは私を水晶の前に立たせた。
「これが君の記憶の欠片だ。私がここに保管していた」
彼は呪文を唱え、水晶に手をかざす。
光が溢れ出し、私を包み込む。
瞬間、頭の中に映像が雪崩れ込んできた。
――神殿での祈りの日々。
――「聖女」として崇められながら、自由を奪われた生活。
――そして、一人の魔術師との出会い。
『君をここから連れ出す』
若い頃のリエンが、私に手を差し伸べている。
その手を取った瞬間の高揚感。初めて知った恋心。
そうだ、私は彼を愛していた。最初から。
逃避行の末、私たちは追っ手に追い詰められた。
海上で魔法がぶつかり合い、船は炎上した。
私はリエンを庇って魔法を受け、瀕死の重傷を負った。
リエンは泣きながら、禁忌とされる時間逆行と記憶封印の魔法を使ったのだ。
私の命を繋ぎ止めるために。
『愛している。たとえ君が私を忘れても』
最後の記憶が蘇った瞬間、私は涙を流して崩れ落ちた。
「思い……出した」
リエンを見上げる。彼は悲しげに微笑んでいた。
「おかえり、アキラ」
私は彼に飛びつき、強く抱きしめた。
「リエン! ごめんなさい、ずっと忘れていて……あなたがこんなに苦しんでいたなんて」
リエンも私を抱きしめ返す。その腕は震えていた。
「よかった……君が戻ってきてくれて」
二人は口づけを交わした。それは今までのどのキスよりも深く、魂が溶け合うような感覚だった。
だが、感動の再会は唐突に破られた。
ズズズ……と地響きが鳴り響く。
祭壇の水晶にひびが入り、黒い煙が立ち上り始めた。
「なっ、結界が!?」
リエンが叫ぶ。
封印を解いた際の魔力の揺らぎを感知され、島の座標を特定されてしまったのだ。
外から侵入してくる邪悪な気配。
それは海龍ではない。もっとタチの悪い、人間の欲望の塊だ。
「見つけたぞ! 聖女の隠し場所を!」
空間が裂け、武装した兵士たちが現れる。
帝国の追っ手だ。彼らは魔法で空間転移してきたのだ。
「リエン・アル・ヴァイザ! 貴様を国家反逆罪で拘束する! 聖女を引き渡せ!」
隊長らしき男が剣を向ける。
リエンは私を背後に隠し、冷徹な眼差しで敵を睨みつけた。
「私の愛し子には指一本触れさせない。ここが貴様らの墓場だ」
彼の全身から、凄まじい魔力が噴き出した。
部屋中の空気が凍りつく。
「アキラ、下がっていなさい。すぐに片付ける」
リエンの声は静かだが、殺気に満ちていた。
戦いが始まる。
私は祈るように両手を組んだ。
もう守られているだけじゃない。私にも何かできるはずだ。
聖女としての力が、体の中で目覚めようとしていた。
愛する人を守るために、私はその力を使う覚悟を決めた。




