第6話「海からの呼び声」
その夜、夢を見た。
冷たく暗い水の中へと沈んでいく夢だ。
息ができない苦しさはなく、むしろ胎内にいるような安らぎがあった。
水底から、誰かが私を呼んでいる。
――帰っておいで。私の片割れよ。
手を伸ばすが、指先は水流を掴むだけだ。
誰? あなたは誰なの?
――忘れないで。約束を。
その声は懐かしく、そして悲痛だった。
はっとして目を覚ます。
心臓が激しく脈打っていた。全身に汗をかいている。
隣を見ると、ベッドの反対側は空だった。
リエンがいない。
時計を見ると、深夜の2時を回っている。
こんな時間にどこへ行ったのだろう。
私はガウンを羽織り、吸い寄せられるようにバルコニーへと出た。
冷たい夜風が汗ばんだ肌を冷やす。
月は雲に隠れ、海は漆黒の闇に沈んでいた。
だが、その闇の中に、青白い光が揺らめいているのが見えた。
崖の突端。一番海に近い場所に、リエンが立っていた。
彼は両手を海に向け、何かを唱えている。その背中からは、強烈な魔力が立ち上り、周囲の空間を歪ませていた。
氷の結晶のような青い光が、彼の手から放たれ、海面へと降り注いでいく。
すると、荒れ狂っていた波が静まり、海龍の咆哮のような音が遠ざかっていくのがわかった。
彼は島を守っているのだ。あの怪物から、あるいは海そのものから。
だが、その代償は小さくないようだった。
光が消えた瞬間、リエンの体がぐらりと傾いた。
「リエン!」
私は思わず叫んで、庭へと駆け出した。
裸足のまま、冷たい草の上を走る。
崖にたどり着くと、リエンは片膝をつき、荒い息を吐いていた。
その顔色は白紙のように蒼白で、唇からは血の気が失せている。美しかった黒髪も乱れ、汗で額に張り付いていた。
「アキラ……? なぜここに……」
私に気づいた彼は、驚愕の表情を浮かべた。
すぐに立ち上がろうとするが、足元がおぼつかない。
「ダメだ、こんな姿を……見せるつもりじゃ……」
彼は私から顔を背けようとした。
完璧で絶対的なアルファとしての自分しか見せたくないのだ。弱っている姿など、守るべきオメガに見せるわけにはいかないというプライド。
でも、今の彼はあまりにも脆く、痛々しかった。
私はためらわず、彼に駆け寄ってその体を支えた。
「無理しないでください! こんなに冷たくなって……」
彼の体は氷のように冷たかった。魔力を使い果たした反動なのだろうか。
「離れろ、アキラ。私の力が制御できないかもしれない……君を傷つけてしまう」
リエンは震える手で私を突き放そうとする。
だが、私は首を横に振って、逆に強く抱きしめた。
「傷つきません。あなたが僕を守ってくれているのは知っています。だから、今度は僕があなたを温めます」
私の体から、自然とフェロモンが溢れ出した。
それは発情を促すような甘いものではなく、もっと穏やかで、日だまりのような温かさを持った香りだった。
オメガが持つ治癒と安らぎの力。番であるアルファを癒やすための本能的な作用。
私の香りに包まれると、リエンの強張った筋肉が少しずつ緩んでいくのがわかった。
「……ああ、温かい」
彼は観念したように私の肩に額を預けた。
その重みが、愛おしかった。
いつも私を子供扱いし、支配していた彼が、今は私の腕の中で安らいでいる。
この瞬間、私たちの関係が少しだけ変わった気がした。一方的な支配と従属ではなく、互いに必要とし合う対等な番としての形。
「毎晩、こんなことをしていたんですか?」
彼の背中をさすりながら尋ねる。
「……ああ。この島の結界は綻びかけている。私が支えなければ、海龍が島を飲み込んでしまう」
リエンの声は弱々しいが、そこには揺るぎない覚悟があった。
「君を守るためなら、私の命など惜しくはない」
「そんなこと言わないで」
私は彼をさらに強く抱きしめた。
「あなたが死んだら、僕だって生きていけません。僕たちは番なんでしょう?」
その言葉に、リエンは顔を上げた。
月明かりの下、彼の瞳が潤んで光っているように見えた。
「アキラ……君は、私を受け入れてくれるのか? こんな、呪われた運命ごと」
受け入れる。それが正しいのかどうかはわからない。
記憶も戻らず、ここがどこかもわからないまま。
けれど、目の前で傷ついている彼を見捨てることはできなかった。私の魂が、彼を求めて叫んでいる。
「……今は、ただ温めさせてください」
明確な答えは出せなかった。
それでも、リエンにとっては十分だったようだ。彼は微かに微笑み、私の頬に冷たい手を添えた。
「ありがとう。私の愛し子」
その夜、私たちは初めて本当の意味で寄り添い合って眠った。
私の体温が彼を温め、彼の香りが私を安心させる。
共依存と言われればそれまでかもしれない。
けれど、この暗く冷たい世界で、互いの体温だけが確かな真実だった。
夢の中で聞いた呼び声は、波の音にかき消されて、もう聞こえなくなっていた。
今はただ、この甘やかな檻の中で、彼と共に堕ちていくのも悪くないと、心のどこかで思い始めていた。
それが、破滅への第一歩だと気づかないままに。




