第5話「禁じられた書庫」
熱が下がり、体力が戻るにつれて、屋敷の中への好奇心が再び首をもたげてきた。
リエンは昼過ぎから外出していた。島の見回りだと言っていたが、その表情はどこか険しかったのを覚えている。
私はセバスに頼み込んで、屋敷の探索許可をもらった。もちろん、「絶対に外へは出ないこと」「危ない場所には近づかないこと」という条件付きで。
長い廊下を歩く。
この屋敷はあまりにも広大だ。使われていない部屋が無数にあり、そのほとんどが白い布で家具が覆われている。
まるで、時が止まったままの博物館のようだった。
3階の奥まった場所に、重厚なオーク材の扉があった。
ここだけ空気が違う。静寂がより深く、濃密な何かが漂っている。
ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。
軋む音と共に扉が開く。
そこは書庫だった。
壁一面を埋め尽くす巨大な本棚。天井まで届く梯子。埃と古紙、そしてインクの入り混じった独特の匂いが鼻をつく。
窓からの光の中で、無数の塵がダンスを踊っていた。
私は吸い込まれるように中へと足を踏み入れた。
並んでいる本の背表紙を見る。ほとんどが革張りで、金箔でタイトルが刻印されているが、その文字は読めない。
見たことのない言語だった。曲線と点が複雑に絡み合った、魔法陣のような文字。
一冊、厚めの本を手に取ってみる。ずっしりとした重みがある。
ページをめくると、手書きの文字がびっしりと並んでいた。挿絵もいくつかある。
描かれているのは、奇妙な植物や動物、そして地図のようなものだった。
パラパラとめくっていると、一枚の挿絵で手が止まった。
海から現れる巨大な龍と、崖の上に立つ人影。
あの夜、私が見た光景そのものだった。
挿絵の下には文章が書かれている。読めないはずなのに、なぜか意味が頭の中に流れ込んでくるような感覚に襲われた。
――海神の怒りを鎮めるため、生贄を捧げよ。
――守護者の血脈は、番の魂と引き換えに……。
そこまで読み取ったとき、背後でカチャリとドアの閉まる音がした。
びくりとして振り返る。
そこにはセバスが立っていた。いつもの穏やかな笑みはなく、無表情でこちらを見つめている。
「彰様。そこは旦那様の私的な書斎でもあります」
静かな声だが、拒絶の意思がはっきりと込められていた。
「す、すみません。鍵が開いていたので、つい……」
私は慌てて本を戻そうとしたが、手元が狂って床に落としてしまった。
重い音が響く。
セバスはため息をつくこともなく、滑らかに歩み寄って本を拾い上げた。
「興味がおありですか? この島の歴史に」
彼の眼鏡の奥の瞳が光る。
「少し……気になって。あの挿絵の怪物は、僕が見たものと同じだったので」
「あれは海龍です。この島を守護し、同時に閉じ込めている存在」
セバスは本を棚に戻し、私に向き直った。
「かつて、この島には多くの人が住んでおりました。しかし、ある過ちによって島は呪われ、外の世界から切り離されてしまったのです」
「呪い……」
リエンが言っていた言葉だ。
「旦那様はその呪いを一身に背負い、たったお一人でこの結界を維持しておられます。彰様、あなた様が想像する以上に、あのお方は孤独で、そして強大なのです」
セバスの言葉には、リエンへの深い崇拝と、悲しみのような色が滲んでいた。
「リエンさんは、何を犠牲にしているんですか?」
「それは、彰様が知る必要のないことです。あなた様はただ、旦那様の愛を受け入れ、その孤独を癒やしてくださればよいのです」
まただ。
誰も本当のことを教えてくれない。私はただ「愛される対象」としてここに置かれているだけで、意思ある人間としては扱われていない気がした。
「でも、僕は知りたいんです。自分が何に巻き込まれているのか、どうしてここにいるのか」
私の強い視線を受けて、セバスは少しだけ驚いたような顔をした。
「……強い目をお持ちですね。以前の……いいえ、なんでもございません」
彼は言葉を飲み込んだ。
以前の? 以前にも誰かいたということだろうか。
私の他にも、ここに連れてこられたオメガが?
「そろそろお部屋にお戻りください。旦那様がお戻りになられます」
セバスは私の背中を優しく、しかし強制的に出口へと押した。
廊下に出ると、彼は深々と一礼した。
「一つだけご忠告を。あまり深く知りすぎると、戻れなくなりますよ。この『楽園』の本当の姿を知ったとき、あなた様は正気でいられないかもしれません」
その言葉は、冷たい風のように私の心を撫でた。
セバスの背中を見送りながら、私は自分の部屋へと戻った。
心臓が早鐘を打っている。
ただの監禁生活ではない。この島には、もっと根源的な闇が潜んでいる。リエンはそれを一人で抱え込み、私には見せないようにしているのだ。
愛ゆえの隠蔽なのか、それとも私を利用するための策略なのか。
わからない。けれど、一つだけ確かなことがある。
私はもう、この謎から目を逸らすことはできない。
リエンが帰ってくる足音が、廊下の向こうから聞こえてきた。
私は鏡の前で表情を作り、何事もなかったかのように彼を迎える準備をした。
無知で無力な愛し子を演じるために。




