第4話「甘やかな檻」
深いまどろみから意識が戻った時、最初に感じたのは温かな重みだった。
ぼんやりと目を開けると、視界いっぱいに夜空のような漆黒が広がっていた。それはカーテンでも壁でもなく、人の髪だった。
リエンが私のベッドの縁に腰掛け、覆いかぶさるようにして眠っている。彼の長い髪がカーテンのように垂れ下がり、私を外界から遮断していたのだ。
彼の手は私の手をしっかりと握りしめていた。その指先から伝わってくる体温が、熱に浮かされていた体に心地よい。
『ずっと、そばにいてくれたのか』
記憶がゆっくりと戻ってくる。庭の石碑に触れた瞬間の激しい熱、本能が暴走しそうになった恐怖、そしてリエンが与えてくれた鎮静剤の苦味。
身じろぎすると、リエンの睫毛が震え、その氷青色の瞳がゆっくりと開かれた。
寝起きとは思えないほど澄んだ瞳が、私を捉える。
「……目が覚めたか、アキラ」
彼の声は少し嗄れていて、それがかえって胸に響いた。
「リエンさん……」
「熱は下がったようだが、まだ顔色が悪い」
彼は大きな手で私の額に触れた。ひんやりとした掌の感触に、思わず目を細める。その仕草を見て、リエンの表情がふっと和らいだ。
「よかった。あのまま君が壊れてしまうのではないかと、気が気じゃなかった」
そう言って、彼は私の頬を愛おしそうに撫でる。
壊れる。その言葉の響きに、ぞくりとした。
オメガという存在は、それほどまでに脆いものなのだろうか。それとも、この島にある何かが私を脅かしているのだろうか。
「喉が渇いたろう」
リエンはサイドテーブルから水の入ったグラスを取り、自分の口に含んだ。
え、と思う間もなく、彼の顔が近づいてくる。
唇が重ねられ、冷たい水が口内へと流し込まれた。
驚きで目を見開くが、リエンは当然のように振る舞い、こぼれた雫を親指でぬぐい取る。
「……っ、何するんですか」
慌てて身を引こうとするが、背中を支えられていて逃げられない。
「君が弱っているときは、こうするのが一番効率的だ」
彼は悪びれる様子もなく、あでやかに微笑んだ。その唇が濡れて光っているのを見て、心臓が跳ねる。
これは看病だ。そう自分に言い聞かせるが、頬が熱くなるのを止められない。
「お腹も空いているはずだ。セバスに粥を用意させた」
リエンがベルを鳴らすと、すぐにセバスがワゴンを押して入ってきた。湯気の立つ白い粥からは、鶏肉と生姜のような良い香りが漂っている。
自分で食べようとしたが、スプーンを持つ手が震えて力が入らない。
「無理をするな。私が食べさせてあげる」
リエンは私を抱き起こし、クッションを背に当てて座らせると、自らスプーンを手に取った。
フーフーと息を吹きかけ、適温になったのを確かめてから、私の口元へと運んでくる。
恥ずかしさに顔を背けたくなるが、彼の真剣な眼差しに射抜かれ、大人しく口を開けるしかなかった。
優しい味が口いっぱいに広がる。体の中に温かいものが染み渡っていく感覚。
「いい子だ」
リエンは満足そうに目を細め、一口ごとに私を褒める。まるで幼児に対するような扱いだが不思議と嫌ではなかった。むしろ、その過保護な優しさに包まれていると、心のトゲが一本ずつ抜かれていくような安堵感を覚える。
食事が終わり、再びベッドに横たわると、リエンはずっと私の手を握っていた。
「リエンさん、僕は……一体どうなってしまったんでしょうか」
天井を見上げながら、ポツリとつぶやく。
「記憶もなくて、体もおかしくて……自分が自分じゃなくなっていくみたいで怖いんです」
リエンは私の手を両手で包み込み、自分の頬に押し当てた。
「君は君だ。何も変わらない。ただ、魂の形が本来あるべき場所に戻っただけだ」
「本来あるべき場所……?」
「そう。君は私の番だ。その運命だけが、唯一の真実だよ」
番。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが共鳴した。鐘の音のような、あるいは遠い記憶の残響のような感覚。
オメガバースという特殊な性別において、番とは運命の相手を指す言葉だと聞いたことがある。魂レベルで惹かれ合い、一度結ばれれば生涯離れることのできない唯一無二のパートナー。
「でも、僕はあなたのことを何も知りません。あなたが誰なのか、ここがどこなのかも」
「知る必要はない。感じるだけでいい」
リエンは私の指先に口づけを落とし、低い声でささやいた。
「私の匂い、私の声、私の体温。君の本能はすでに私を選んでいる。理性でどれほど拒もうとしても、魂は知っているんだ」
彼の言葉は呪いのようであり、救いのようでもあった。
確かに、彼に触れられていると安心する。彼のフェロモンに包まれていると、世界から隔絶されたこの部屋が、一番安全な場所のように思えてくる。
それが「ほだされる」ということなのだろうか。
「教えてください。僕の過去を……僕がここに来る前、どんな人間だったのか」
すがるように尋ねると、リエンの瞳が一瞬だけ曇った。
「過去など重要ではない。君が外の世界でどれほど傷つき、孤独だったか……思い出す必要はないんだ」
彼は強く言い切った。それは私を守るための言葉のように聞こえたが、同時に何かを隠しているようにも感じられた。
「私が新しい記憶を刻んであげる。幸せな記憶だけで君を満たしてあげるから」
リエンが覆いかぶさってくる。
逃げ場のないベッドの上で、私は彼の腕の中に閉じ込められた。
彼の甘い香りが、思考を麻痺させていく。
外の世界なんてどうでもいい。過去なんて忘れてしまえばいい。ここで彼に愛され、守られて生きていくほうが幸せなのではないか。
そんな甘美な誘惑が、頭をもたげる。
檻の中にいることは不自由だ。けれど、外の世界には怪物がいて、嵐が吹き荒れている。
この暖かく美しい檻の中で、私はただ愛されるための人形になればいいのだろうか。
リエンの唇が私のまぶたに触れる。
その優しさに、私はそっと目を閉じた。
抗う気力が、砂のように崩れていくのを感じながら。




