第2話「甘い毒」
運ばれてきた食事は、見たこともない食材を使っているにもかかわらず、驚くほど美味だった。
とろりと煮込まれた乳白色のスープに、柔らかく焼き上げられた白身魚。付け合わせの野菜は宝石のように鮮やかで、口に入れると濃厚な甘みが広がる。
老執事のセバスは、私が食事を終えるまで、部屋の隅で彫像のように控えていた。
「……ごちそうさまでした」
スプーンを置くと、セバスは音もなく歩み寄り、手早く食器を片付けていく。その所作は無駄がなく、洗練されていた。
「お口に合いましたでしょうか」
「はい、とても美味しかったです。あの……」
「何なりと」
「リエンさんは、どこに?」
恐る恐る尋ねると、セバスは目を細めて微笑んだ。その表情は好々爺のようだが、どこか底知れない深みを感じさせる。
「旦那様は公務で少し席を外しておられます。ですがご安心ください。すぐに戻られます」
公務、という言葉に違和感を覚える。
ここは絶海の孤島だ。統治すべき領民がいるようには見えない。誰に対しての公務なのだろう。
「ここには、他に誰か住んでいるんですか?」
「いいえ。このお屋敷に住まうのは、旦那様と私、そして彰様のみでございます」
やはり、三人きりなのか。
不安そうな私の顔を見て取ったのか、セバスは言葉を継いだ。
「旦那様は、彰様を心から大切に思っておられます。どうか、あまり反抗なさらぬよう」
「反抗なんて……僕はただ、状況が知りたいだけで」
「知らぬが仏、という言葉もございます。彰様はただ、愛されていればよろしいのです」
まただ。リエンと同じことを言う。
セバスは一礼して部屋を出て行った。再び静寂が戻ってくる。
満たされた胃袋とは裏腹に、心は空虚だった。
しばらくして、私は部屋を出てみることにした。鍵はかかっていない。
廊下に出ると、そこはまるで美術館のようだった。高い天井、磨き上げられた大理石の床、等間隔に並ぶアンティークのランプ。
窓の外はすっかり夜の闇に包まれている。
恐る恐る廊下を進む。人の気配はない。
階段を降り、広いエントランスホールに出た。そこには巨大な両開きの扉がある。
外への出口だ。
鼓動が早くなる。もし外に出られれば、何かわかるかもしれない。
重厚な扉の取っ手に手をかける。ひんやりとした金属の感触。
力を込めて引く。意外なほどあっさりと、扉は開いた。
途端に、潮の香りを孕んだ夜風が吹き込んでくる。
私は裸足のまま、石畳のテラスへと踏み出した。
夜の庭園は、昼間とは違うあやしいまでの美しさを湛えていた。月光を浴びて白く光る花々が、風に揺れている。
庭を抜け、断崖の縁へと近づく。
波の音が轟音となって耳を打つ。
崖の下を覗き込むと、黒い海が白い飛沫を上げて岩肌に砕け散っていた。
その時だった。
海面から、巨大な影がうねるように持ち上がった。
『え……?』
月明かりに照らされたそれは、生物だった。
蛇のように長い胴体に、硬質な鱗。水面から鎌首をもたげたその怪物は、私の存在に気づいたかのように、金色に光る瞳をこちらに向けた。
恐怖で足がすくむ。声も出ない。
怪物が大きく口を開け、咆哮を上げようとしたその瞬間――。
「こら。驚かせてはいけないよ」
凛とした声が響き渡った。
頭上から舞い降りるように、黒い影が現れる。
リエンだった。
彼は私の前に立ち、海中の怪物に向かって片手を軽く振った。ただそれだけの動作で、巨大な怪物は大人しく海中へと沈んでいく。まるで、主人に叱られた犬のように。
「リエン……さん」
腰が抜けて、その場にへたり込む。
リエンは振り返り、呆れたような、それでいてどこか嬉しそうな顔で私を見下ろした。
「悪い子だね、アキラ。勝手に外へ出るなんて」
「あ、あれは、今の……」
「海の番人さ。この島を守っている」
彼は事もなげに言い、膝をついて私を抱き上げた。まるで羽根のように軽々と。
「部屋に戻ろう。夜風は体に毒だ」
私の震えが止まらないことに気づいたのか、リエンは抱きかかえる腕に力を込めた。彼の体温と、あのスパイスのような香りが私を包み込む。
恐怖していたはずなのに、彼に触れられていると、不思議なほど心が落ち着いていくのがわかった。
これが「オメガ」の本能なのだろうか。守ってくれる強大な「アルファ」に依存してしまう、抗いがたい性質。
部屋に戻され、ベッドに降ろされる。
リエンは私の冷え切った足を、大きな手で包み込んで温め始めた。
「こんなに冷たくなって。……罰が必要かな」
「ば、罰?」
身構える私を見て、リエンは妖艶に微笑む。
「冗談だよ。君が怖がる顔もそそるけれど、今はやめておこう」
彼は私の足首に口づけを落とした。
ぞわり、と背筋に電流が走る。
ただのスキンシップではない。そこには明確な所有の意思が込められていた。
「アキラ。君は無力だ。あの海を越えることも、この島で一人で生きることもできない」
リエンは私の瞳を真っすぐに見つめる。その瞳の奥には、狂気にも似た深い愛着が渦巻いている。
「だから、私に委ねればいい。私の庇護下にある限り、君は世界のあらゆる脅威から守られる」
それは悪魔のささやきのようで、同時に聖なる誓いのようでもあった。
否定したくても、言葉が出てこない。
現に私は、彼に守られて安堵している。あの怪物から救い出してくれた彼に、感謝すらしているのだ。
その事実が、たまらなく怖かった。
リエンが私の首筋に鼻先を埋める。深く息を吸い込み、私の匂いを確かめるように。
「いい匂いだ。甘くて、脆くて、壊れそうな……私のオメガ」
彼の熱い吐息が皮膚にかかる。
体の芯が熱を持ち始め、甘くうずきだす。
これは毒だ。
リエンという名の、甘美な毒。
私はシーツを握りしめ、この快楽に飲まれまいと必死に理性を保とうとした。
けれど、抵抗すればするほど、彼のフェロモンは容赦なく私の内側を侵食していくのだった。




