第1話「最果てのゆりかご」
登場人物紹介
◆彰
突然、異世界の孤島で目覚めた青年。自分が何者だったのか、日本での記憶が曖昧になっている。この世界では希少かつ脆弱な存在である「オメガ」として覚醒する。色素の薄い髪と瞳を持ち、どこか儚げな雰囲気を漂わせているが、芯は強い。逃げ場のない島で、リエンの庇護を受け入れることに葛藤している。
◆リエン
孤島に聳える屋敷の主であり、圧倒的な支配力を持つ「アルファ」。彫刻のように美しい容姿と、人を平伏させる強烈なフェロモンを持つ。彰を「私の愛し子」と呼び、異常なまでの執着と過保護な愛で包み込む。彰を島から出すつもりはなく、永遠に手元に置いておこうとする謎多き男。
◆セバス
屋敷に仕える老齢の執事。リエンに絶対の忠誠を誓う「ベータ」。彰に対して常に恭しく接するが、リエンの命令には決して逆らわない。島の秘密を何か知っている様子。
波の音が聞こえる。
規則正しく、優しく、そしてどこか恐ろしい響きを持って、絶え間なく繰り返される水の音。
重たいまぶたを持ち上げると、そこは知らない天井だった。いや、天井と呼ぶにはあまりにも高く、そして美しい。幾重にも重ねられた白い天蓋が、開け放たれた窓から吹き込む風に揺れている。
ぼんやりとした頭で体を起こそうとしたが、思うように力が入らない。指先ひとつ動かすのにも、まるで深い水底からもがくような倦怠感がまとわりついていた。
『ここは……どこだ』
声に出そうとした言葉は、掠れた息となって唇からこぼれ落ちる。喉が渇いていた。
視線を巡らせる。そこは、映画やドラマでしか見たことのないような豪華な寝室だった。壁には精緻な刺繍が施されたタペストリーが飾られ、床にはふかふかとした毛足の長い絨毯が敷き詰められている。調度品の一つ一つが、歴史を感じさせる重厚な輝きを放っていた。
ここは病院ではない。自分の部屋でもない。
そもそも、自分は今まで何をしていたのだろう。
記憶の糸を手繰り寄せようとするが、霧がかかったように掴めない。ただ、漠然とした不安だけが胸の奥で渦を巻く。
その時、重厚な扉が音もなく開いた。
入ってきたのは、一人の男だった。
逆光で表情は見えないが、その長身と堂々とした佇まいだけで、空気が一変したのがわかった。彼が一歩足を踏み出すたびに、部屋全体の圧力が変わるような、そんな錯覚を覚える。
「目が覚めたか」
低く、よく響く声だった。チェロの音色のように深く、鼓膜だけでなく、腹の底まで振動させるような声。
男がベッドのそばまで歩み寄ってくる。
窓からの光が彼の顔を照らし出した瞬間、息を呑んだ。
この世のものとは思えない美貌だった。夜空を切り取ったような漆黒の髪に、凍てつく湖のような氷青色の瞳。整いすぎた顔立ちは、冷たさすら感じさせるが、その瞳が自分を捉えた瞬間、とろけるような甘い熱を帯びた。
「……あなたは」
ようやく絞り出した声は、ひどく弱々しかった。
男はベッドの縁に腰を下ろすと、大きな手で私の頬を包み込んだ。その手は温かく、同時に絶対的な安心感を与えてくる。けれど、本能のどこかが警鐘を鳴らしていた。この男は危険だ、と。
「リエンだ。君の守護者だよ、アキラ」
リエン、と名乗った男は、愛おしそうに親指で私の唇をなぞった。
「守護者……? 僕は……」
「何も心配しなくていい。君はここで、ただ私に愛されていればいいんだ」
その言葉には、拒絶を許さない響きが含まれていた。
リエンから漂ってくる香りが、鼻腔をくすぐる。それは香水のような人工的なものではなく、もっと原始的で、脳髄を直接刺激するような匂いだった。
雨上がりの森のような、あるいは上質なスパイスのような、清涼感と重厚感が入り混じった香り。その匂いを吸い込んだ瞬間、体の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。心臓の鼓動が早まり、本能が彼にひれ伏したがっている。
『なんだ、これ』
自分の体の反応に戸惑う。こんな感覚は初めてだった。
リエンは私の反応を見て、満足げに目を細めた。
「いい子だ。君の体も、本能も、すでに私を理解しているようだね」
「なにを……言って」
逃げようとして身じろぎするが、リエンの手が優しく、しかし強引に肩を押さえつける。その力は決して痛くはないが、岩のように動かない。
「君はオメガだ。そして私はアルファ。この世界で、これほど惹かれ合う組み合わせはない」
アルファ? オメガ?
聞き慣れない言葉だが、なぜかその響きには抗いがたい説得力があった。まるで遺伝子に刻まれた真理を告げられたような、不思議な納得感。
リエンはサイドテーブルにあった水差しを手に取ると、銀の杯に水を注いだ。
「さあ、お飲み。喉が渇いているだろう」
杯を口元に運ばれる。断ろうと思ったが、水の誘惑には勝てなかった。冷たい液体が喉を潤すと、ようやく少しだけ思考がクリアになった。
「ここは、どこですか」
改めて問いかけると、リエンは杯を置き、慈しむような目で私を見つめた。
「ここは《揺りかごの庭》。外の世界の汚れから切り離された、君のためだけの楽園だ」
楽園。甘美な響きだが、それは同時に、逃げ場のない檻を意味しているようにも聞こえた。
窓の外に目を向ける。そこには、どこまでも続く青い海が広がっていた。水平線の彼方まで、陸地らしきものは何一つ見当たらない。
絶海の孤島。
その事実に気づいたとき、背筋に冷たいものが走った。
「帰して……僕は、帰らなきゃ」
どこへ? 帰る場所の記憶さえないのに、焦燥感だけが募る。
リエンの表情から笑みが消えた。氷青色の瞳が、すっと細められる。室内の温度が一気に下がったような気がした。
「帰る? どこへ帰るというんだ」
「それは……」
「君に帰る場所などない。君の居場所はここだ。私の腕の中だけだ」
リエンが顔を近づけてくる。彼の香りが濃くなり、思考が甘い霧に包まれていく。怖いのに、離れられない。彼のそばにいることが、この上ない幸福だと体が錯覚し始めている。
「忘れたのか? 君は外の世界で傷つき、ボロボロになってここに流れ着いたんだ。私が拾い、手当てをし、守っている。君は私のものだ」
耳元で囁かれる言葉は、呪文のように心に染み込んでいく。
ああ、そうなのかもしれない。私は守られている。この強大で美しい生き物に。
リエンの手が、私の首筋に触れた。そこに、ひやりとした金属の感触があることに、今さらながら気がついた。
指先で探ると、細い首輪のようなものが巻かれている。継ぎ目のない、滑らかな金属の輪。
「これは……」
「愛の証だよ」
リエンは私の問いを遮るように、首筋に唇を落とした。
「君を二度と失わないための、大切な絆だ」
そのキスは熱く、所有欲に満ちていた。
抵抗する気力は、波に洗われる砂の城のように崩れていく。
リエンの腕の中に閉じ込められながら、私は窓の外に広がる空を見た。
青く澄み渡る空は、あまりにも遠かった。
ここは楽園なのか、それとも地獄なのか。
リエンの放つ圧倒的な存在感に飲み込まれながら、私は再び深い眠りの中へと落ちていった。
***
次に目を覚ましたとき、部屋の中は夕暮れの朱色に染まっていた。
リエンの姿はない。
静寂の中で、波の音だけが響いている。
ベッドから這い出し、ふらつく足取りで窓辺に向かった。足の裏に触れる絨毯の感触が、現実味を帯びている。
窓から下を見下ろすと、そこには手入れの行き届いた美しい庭園が広がっていた。色とりどりの花が咲き乱れ、白い石造りの噴水が涼しげな水音を立てている。
その向こうには、断崖絶壁と、荒々しく打ち寄せる海。
本当に、海しかない。
360度、見渡す限りの水平線。船影ひとつ見えない。
「本当に、閉じ込められているんだ……」
つぶやいた声は、風にさらわれて消えた。
首元の冷たい金属が、現実を突きつけてくる。
リエン。あの美しい男。アルファ。
彼の顔を思い出すだけで、体の奥がうずくような感覚。
それが、この世界で「オメガ」と呼ばれる存在の性なのだろうか。
私は窓枠を強く握りしめた。
記憶がなくとも、本能が告げている。
このまま飼い殺されるわけにはいかない。たとえここが楽園だとしても、私は自由を求めていた。
しかし、今の私にはあまりにも力がなかった。
まずは状況を把握しなければ。
背後でドアが開く音がした。
振り返ると、リエンではなく、銀髪の老人が立っていた。黒い燕尾服を隙なく着こなした執事だ。手には銀のトレイを持っている。
「お目覚めですね、彰様」
老執事は穏やかな笑みを浮かべ、深く一礼した。
「リエン様より、お食事をお持ちするようにと仰せつかりました」
トレイの上からは、食欲をそそる温かいスープの香りが漂ってくる。空腹を自覚した胃が、小さく鳴った。
この島での生活が、静かに始まろうとしていた。




