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黒の貴公子  作者: 健康
6/22

6話 失われた温もりと、黒の貴公子の覚醒

 あの雨の夜に助けた少女が白髪の老婆となって俺を見つけてから既に数年が過ぎていた。彼女が最期に呼んでくれた「黒の貴公子」という名前が、今も胸に残っている。

 きっと彼女は安らかな最期を迎えただろう。

 その孫たちも、きっと無事に育っているはずだ。


 そう信じながら、俺は再び放浪の旅を続けていた。

 ミレイは生きているはず――その想いだけを支えに、地の利を活かして東マハハイム地方を調べ尽くす覚悟で、帝都バルドラアを中心に数百年の間、人族の冒険者に成り済まして街を転々としていた。

 西に向かうにも地上も地下も迷うことも多かったからだ。

 勿論、地上にもモンスターは多い。吸血鬼ハンターの追跡もある。

 方位が確実となる魔道具目当ての金稼ぎを主力に日々を過ごす。

 だが、金貨に銀貨も人族の都市では、宿や酒場を利用すれば、すぐになくなってしまう。

 〝血魂の琵琶〟を使用した吟遊詩人の弾き語りも、行うが、目立つことは避けていた。 そして、旅商人たちの護衛も冒険者ではない俺では断られることも多い。

 しかし情報は引き続き商人たちから得られた。シジマという名の街が南東の端にあり、ローデリア海沿いにあると聞いた。


 サルジンが語っていた南マハハイム地方のオッペーハイマンまでは、かなり遠いが、そこなら、俺がいる現在地から比較的近いはず……とはいえ、そこは吸血鬼ハンターが多い。地下道も迷宮で氣が遠くなる。


 独立都市ヴァグレル、独立都市メーデリウス、独立地下都市ファーザン・ドウムの名は何度も出たが、独立都市サイファルや独立都市ヘルキオスなどの地下都市の道なりを知る者とは、酒場に何度通っても出会うことはなかった。


 ――空を飛べたら、この旅も楽だと思うが、空もモンスターは多いからな。


 そして、この地方を長く支配しているグルドン帝国は、破壊の王ラシーンズ・レビオダの眷族と関わりの深い血筋の者が皇帝の地位に就くと隣国のフジク連邦の獣人国家を次々に侵略していくようになった。


 その侵略のたび、虎獣人(ラゼール)豹獣人(セバーカ)鼬獣人(グリリ)小柄獣人(ノイルランナー)の民が西へ西へと移動していく。


 西の地域、正確には東マハハイム地方の範疇だが、その西の地域では、新しい獣人国家が乱立し群雄割拠の地となった。獣人たちが築き上げた街や村に遺物、宗教などが次々に消えていく。西に向かうほど、その傾向は顕著になった。幸いにも、西の地上の【牙城独立都市レリック】の名は残り続けていた。獣人や人族は繁殖力が旺盛なため、街の活気が完全に失われずに済んでいるのかもしれない。

 そして、古都市バビロンから西へ、マハハイム山脈の麓を迂回するように進み、遠く離れたトジラブラ街の酒場に辿り着いた。山脈の雪化粧が夕日に染まる中、ようやく人里の灯りを見つけたときの安堵は忘れられない

 酒場に入ると、壁に貼られた古地図が目に入った。

 

「おや、旦那。その古い魔地図に興味がおありで?」

 

 女将が話しかけてきた。

 

「ああ、東の方に……ハルゼルマという地名があったような気がしてな」

「ハルゼルマ? 聞いたことないねぇ。その魔力を宿した古い魔地図も百年、いやもっと前のものだから、今はもう無い土地かもしれないよ」

 

 ――百年以上。

 人族にとっては途方もない時間。だが俺にとっては、昨日のことのように鮮明な記憶。

 この時の流れの違いが、俺と人族を永遠に隔てている。


 そこでベファリッツ大帝国が民族蜂起で消えた話を聞いた。

 独立紛争から興した国の一つが、光神ルロディスの大眷属の名を付けた宗教国家ヘスリファートだと。

 人族至上主義を掲げ、他の種族を排斥する。

 その中心には、教皇を頂点とした教皇庁中央神聖教会があり、魔族を専門に追う魔族殲滅機関(ディスオルテ)の名を持つ課があることも聞いた。

 光神ルロディスを信奉する教皇庁の歴史は深い、俺が生まれる前からあると聞く。

 吸血鬼も当然に、その機関に狙われるだろうな。

 幸い、ここは、マハハイム山脈を越えた北マハハイム地方だ。グルドン帝国などがある東マハハイム地方には、そうした組織の人員がやってくることはないだろう。

 

 また、仮にやってきたとしても、破壊の王ラシーンズ・レビオダ、狂気の王シャキダオス、魔界王子ハードソロウの秘密結社が暗躍しているからな、皇族もその関係者ばかりで、非常にきな臭い。すぐに対処されるだろう。

 更に、吸血神ルグナド様の<従者長>ケシィナと吸血神信仰隊も秘密結社にあたるか。

 その教皇庁の連中と宗教国家ヘスリファートの者たちは、魔族を殺す人族たちということだ。さすがに魔界のすべての者と敵対することはないと思うが、極端すぎる政策は、様々に軋轢が生まれるもの、長くは持たないだろうな。だが、冒険者や吸血鬼ハンターはどこにでもいる、その宗教組織と彼らが結託されたら、俺たちには厄介な存在になるだろう。


 そして、その古都市バビロンのケシィナのところに何度も戻り、皆の行方を尋ねるが、誰一人ハルゼルマ家の吸血鬼は見ていないと。

 俺以外、全員が死んだと……ケシィナは厳しく語る。

 ミレイたちを探している俺に同情を覚えたか。会うたびに語りと喋りがきつくなった。

 ハルゼルマ家を襲撃した裏切りの者のパイロン家や、俺たちを襲った張本人のケンダーヴァルの名を出しても、他に仕事があるらしく、同胞としての同情は示してくれるが、惨めな想いを感じるだけとなった。

 いつしか古都市バビロンに向かうのも徐々に避けるようになった。

 理由は、他にもある、ケンダーヴァルの追跡の手が、やはり、この地域には多く存在していた。しかし、ケシィナには、ケンダーヴァルは手出しをしていないようだ。

 魔法ギルドの【魔術総武会】の連中も吸血神ルグナド様とは全面的には争うつもりはないようだな、また、吸血神ルグナド様の軍、魔界騎士ヘルキオスや<従者長>モモルの軍も動いていないようだ。これには非常に落胆した。吸血神ルグナド様……否、これは甘えだ。俺がハルゼルマ家なんだからな……そうして、目まぐるしく変化する西の地上はあまり出歩かず、地下を優先し、独立都市サイファルや吸血神ルグナド様の魔界騎士ヘルキオスが支配する地下都市へと徐々に向かい、西へ西へと少しずつ拠点をズラしていく。


 血さえあれば、食料もわずかで済む。

 

 そして、グルドン帝国の東の辺境地帯は、フジク連邦から逃れてきた獣人たちの避難民で溢れていた。マハハイム山脈の険しい地形が、彼らの最後の砦となっている中での戦いだった。そうした戦乱は高祖吸血鬼には、非常に好都合な面が多かった。

 戦争の小競り合いに巻きこまれ、大柄の虎獣人(ラゼール)たちに襲われた。

 虎獣人の戦士は魔剣を持つ。魔剣の突きと、薙ぎ払いを、数度、避けて躱し、「なぜ、いきなり――」と言って後退、しかし、虎獣人の戦士は嗤いながら「ハハッ! 戦争の世を恨め、クソな人族が!」と、魔剣を突き出してくる。俺を人族と勘違い、説明している暇はなく――覇王のシックルを一瞬にて白焔が包む闇夜剣に変化させ、それで突きを防ぎ、横に移動、戦士は俺に合わせ、相対し、魔剣を振るってきた。

 左手に握る魔刀鬼丸の刃を盾にし、その魔剣の突きを受け流すや否や白焔が包む闇夜剣を袈裟掛けに振るい、虎獣人の肩口を溶かすように斬り、左に回りながら左下段回し蹴りを、その虎獣人の右足に喰らわせ吹き飛ばしたが、次の瞬間、


「「そこだ!」」


 と、他の虎獣人の戦士たちが一斉に槍を突き出してきた。

 それを白焔が包む闇夜剣で弾き、前に出て、身を捻り<血剣・双回し>を繰り出す。

 魔刀鬼丸と白焔が包む闇夜剣で、二人の虎獣人の腹を薙ぎ払うと、周囲の虎獣人はたじろぎ、


「うあぁ」

「つえぇ」

「なんだ、あの武器……雷の白焔に漆黒の剣身……」

「魔剣だ! やべぇ、逃げろ!」

 と発言し、虎獣人たちは蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。

 そして、地下の癖で血を吸おうとしたが、すぐに止めた。

 視線と周囲に魔素の気配を得ていたからだ。その戦いを見ていたグルドン帝国側の小隊長に金を払うから隊に入ってくれと誘われた。一瞬、東マハハイム地方と南マハハイム地方の東の戦乱の世を利用し、生きるのも悪くないのか? と、考えたが、……俺はハルゼルマ家の<筆頭従者>、ケンダーヴァルを倒す復讐者であり、ミレイたちを探す探求者だと考え直し、グルドン帝国側の小隊長の依頼を断って西に向かう。


 そんな移り変わる世界で唯一変わらないのは俺自身と……この覇王のシックル、そして失われた絆への思いだけ。

 孤独が長すぎて、過去のすべてが夢のように思えてくる。

 だが、〝血魂の琵琶〟を爪弾けば――

 

 記憶が戻ってくる。

 血の旋律に乗って、鮮やかに蘇る過去。

 ミレイの笑い声、メイラスの咳払い、母の研究に没頭する姿。

 この琵琶だけが、俺の正氣を保ってくれている。


 マハハイム山脈に阻まれながらも、西へ西へと地下道を進む。時には山脈の地下を抜け、時には迂回しながら、牙城独立都市レリックを目指した。

 ミレイたちは、東マハハイムにはいないと思うしかない。


 あした、あした、そして、あしたと、しみったれた足取りで、日々が進む。


 そうして紆余曲折あり、方位を得ることのできる〝方位魔学針盤〟を得ることができた。

 それを頼りに、長い旅路の後……ようやく独立都市サイファルに辿り着いた。


 だが、そこは廃墟だった。

 愕然とした、崩れた石壁、散乱した骨……。

 しかも、地底神の印があちこちに刻まれている。

 地底神トロドの勢力に滅ぼされた跡の証明だろう。

 あの印に不用意に触れたら、地底神トロドの勢力の陣地が近くにあれば偵察兵が察知するはずだ。


 しかし、遅かったのか? いつ滅ぼされたのだ。ハルゼルマ家が潰れたことで、東マハハイム地方の勢力図、否、セラにおける吸血神ルグナド様の勢力も劣勢に立たされているということか。……いつも俺は、すべてを失った後に到着する。

 だが、西へ向かうしかない。ミレイたちが南マハハイム地方に移動していたらと、思うと足取りが重くなるが、とりあえずは、西だ。

 エイジハル家のエイジハル血印か、独立都市ヘルキオスを目指そう。西へ西へと向かう。


 地下は地上より厄介な面もある。

 外れドワーフに追われ、オークに狙われ、ダークエルフに警戒される。

 だが、理解のあるドワーフの行商チームと会えたことは幸いした。

 行商の隊長の名はモリモン。

「あんちゃん、ゴルモル肉を使った飯を作るが、おまえさんも食べるかい?」

「あぁ、では頼む」

「ふむ、よーし!」


 地下大動脈三百五十八通路の奥深く、粗削りな岩肌に囲まれた広場で、小柄ながらもがっしりとした体格を活かしたドワーフたちが、モリモンの指示の下、きびきび動く。

 太い薪を片手で割るドワーフはいかつい。

 もう一人のドワーフは、大きい鍋をどこからともなく取り出しては、俺に見せてくる。俺は、「あぁ、鍋だな」と言うしかなかったが、そのドワーフは、「ハッ、当たり前だ、小童!」と怒られてしまう。


 まさか、こんな口を利かれるとは。俺は数千年生きた高祖吸血鬼……とは言えない。


 別のドワーフが巨木の幹のような薪を片腕で軽々と持ち上げ、そのまま焚き火に放り込む。薪が爆ぜる音が響く。


 焚き火の燃え盛るオレンジの炎が、ドワーフたちの屈強な顔を照らし出す。

 火鉢を置いたと思ったら、中身をぶちまけ、そこの上に豪快に鋼鉄の三脚架を地面に組み立てた。


「地の底深く、星々見えずとも、我らは歌う、故郷の星を!」

「♪モリモン、モリモン、モリモーン!」


 モリモンの陽気な声が続き、他のドワーフたちも、それぞれに手に持った酒杯を打ち鳴らしながら、その歌に加わっていく。


「俺たちは♪ モリモン、モリモン、モリモーン♪」


 モリモンが歌い出し、仲間がその歌に加わっていく。

 それは、彼らの行商歌だった。


「あぁぁ、愛しのモリモーン♪ あぁぁ、恋い焦がれるぅぅ、故郷の天蓋星ぃ~♪ あぁぁ♪」


 彼らの歌声を聞きながら、腰に下げた〝血魂の琵琶〟が共鳴するように微かに震えた。百年間、俺の唯一の話し相手だった楽器。孤独な洞窟で幾千回も爪弾いた弦。

 

 ――今、こうして誰かと共に在ることの温もりが、琵琶を通して俺の血に響いてくる。


 ドワーフたちの歌声を聞きながら、思わず〝血魂の琵琶〟に手が伸びそうになった。

この賑やかな宴に、俺の孤独な旋律を重ねたい衝動。

 だが、今は聞き手に回ろう。彼らの歌こそが、俺の凍りついた心を溶かしてくれる薬なのだから、


「岩砕く、その槌の音は、我らの誇り、鋼鉄の調べ! 闇に光を、故郷に道を、モリモン、モリモン、モリモーン!」

「おう、おうよ~♪」

 と酒杯を突き上げる者。

「おう、おおう~♪」

 と雄叫びを上げる者。

「壁王も寄せ付けず♪ 地底に築く、我らの王国、壁王の牙も、決して届かず!」

「あぁぁ、愛しのモリモーン♪ あぁぁ、我が身に刻むぅ、故郷の天蓋星ぃ~♪ あぁぁ♪」


 歌声は再び高らかに響き渡り、彼らの故郷への熱い想いを繰り返した。

 

 歌いながら、横に大きい石材を置いて、巨大な斧のような包丁も用意。

 石材のまな板に、岩のような硬さの野菜を斧のような包丁でリズムよく叩き割っていた。カツン、カツンと響く音は、まるで鍛冶の音のようだ。


 三つ編みにした女ドワーフが、鉄製のずっしりした鍋を、鋼鉄の三脚架に載せる。焚き火の煙たい匂いとは別の野菜の甘い匂いが漂ってきた。


 スパイスが大量に入った麻袋を俺に見せては、「これは秘密の調味料だ」と笑いながら鍋に豪快にぶちこんでいた。「あぁ」と無難に返事をしたが、茶色の粉と舞い上がって、「ぐほぁぁッ、ゴホゴホッ」と咳をする赤髪の髭が目立つドワーフ。

 三つ編みにした女ドワーフが、「マイセン、咳き込んでないで、そこの良網草(ヨイモイ)と金鋼大根を鍋にぶちこみな!」と指示を出す。

「へい!」と赤髪ドワーフは部下なのか、その赤髪ドワーフは、色とりどりの食材を鍋にぶち込んで行く。魔酒の匂いも漂った。

 フライパンに肉を入れて調味料を捲きながら炒めていく。

 肉の焼ける香ばしい匂いと、得体の知れない香草の甘い香りが混じり合い、食欲をそそる。


 分厚い鉄製の柄杓が鍋の底をガツンと叩くたび、ゴルモル肉と地下魔珍筍が豪快に跳ねる。彼の鼻歌は、焚き火の爆ぜる音と、鍋から上がるグツグツという煮込み音に、心地よく溶け込んでいた。


 歌声は、彼らの心意気を、彼らの故郷への想いを、そして、彼らがこの過酷な地下世界で生き抜く強さを、雄弁に語っていた。

 その歌声に耳を傾けていると、ふと、失われたハルゼルマの記憶と、遠い故郷の星に思いを馳せていた。


「大鍋から立ち上る湯気を豪快に吸い込み、モリモンは『笑味』と呟きながら、指先で煮汁を掬って舐めた。『うむ、良し!』と唸り、ごっそりと握りしめた香草を躊躇なく鍋に投げ入れる。ジュワッという音と共に、一気に香りが弾けた。


 モリモンは満足げに頷くと、ウタジに目を向けた。


「大丈夫とは思うが……随分と豪快な料理なのだな……硬そうな野菜は食えるのか?」

「ガハハ! そう言わず、ご笑味、食べてみてくださいよ。地下魔珍筍と良網草(ヨイモイ)香草(ペーリ)と大蜂の蜜をふんだんに利用した、〝ゴルモル肉の野菜甘煮鍋〟。非常に栄養価が高く魔力回復力も上昇しますし、力強さも増す。みたところ戦士のようですから、是非是非、一緒に」

 

 と快活に語るモリモン。

 彼に勧められるまま焚火を囲いながら、キャンプの地で〝ゴルモル肉の野菜甘煮鍋〟を食べさせてもらった。思わず、舌を鳴らす、これは美味しい。

 ハルゼルマ家の調理番になることが多かった<従者長>コトリサの料理よりも正直、この〝ゴルモル肉の野菜甘煮鍋〟ほうが美味しかった。

 ほど良い甘み、香ばしい調味料、そして口内を心地よく刺激する僅かな辛み、そのすべてが完璧に調和していた。

 彼らの所属は【モルモルモ大商会】という名で通っているらしい。


 彼らの足元には、空になった革袋がゴロゴロ転がっている。きっと、この『ゴルモル肉の野菜甘煮鍋』は、彼らの豪快な酒宴の最高の締めくくりなのだろう。彼らの間で交わされるジョークは、まるで地下の響きのように深く、そして力強かった。


 しかし、百年間、一人で食事をしてきた。血だけを啜り、獣の肉を裂いて生き延びてきた。だが今、こうして仲間と囲む食卓の豊かさを思い出す。

 ハルゼルマ家での賑やかな食事の時間。メイラスが作ってくれた温かなスープ。

 失ったものの大きさを、改めて痛感した


 こうして、古代ドワーフの血を引くという彼らの護衛として、西へ続く地下大動脈三百五十八通路を進むことになった。

 

 正直、この地下大動脈の地下道すべてを覚えることは不可能に思えたが、モリモンたちは、針鼠神への信仰を忘れず、魔道具を巧みに使う。多少、迷うことはあっても徐々に西に進むことはできた。

 

 そうした彼ら行商チームから、【地底湖都市ハロウボイス】と【地下都市サウザンドマウンテン】の名を聞くことができた。

 地下で暮らすドワーフのラングール帝国もオークと似た支族による支配構造があるようだ。

 

 その行商チームとは、ドワーフやノームが支配する地下道の先で別れた。

 別れ際、モリモンが俺の肩に手を置いた。


『あんちゃん、一人旅は辛かろうが、また会えるといいな』


 その言葉に、思わず喉が詰まった。

 百年間、誰からも気遣われることのなかった俺に、この老ドワーフは何の見返りも求めず優しさを向けてくれた。


 そうした地下道は比較的に平和だったが、どこに行っても異邦人扱い。

 そのおかげで、地下での旅は快適なものになることもあれば、悪夢と化すこともあった。特に後者は、支族間の内戦や同盟の繰り返しに巻き込まれる場合であり、そこでは異邦人への差別も根強かった。


 更に、悪夢の女神ヴァーミナの信奉者たちの悪夢教団ベラホズマ・ヴァーミナの集会に出くわした、勿論、人肉を喰らう連中は根絶やしだ、血を吸うのと、無垢な者たちを容赦なく生贄に捧げるのは、まったく異なる。

 すべて、刈り取ったが……。

 

 また、ダークエルフの分隊、魔導貴族の名は知らない連中にも追われた。

 比較的にモンスターの湧きが少ない洞窟の場合は得てして、そうした勢力が支配していることが多い。

 もっとも、こうした地下道の支配構造は、ハルゼルマ要塞が健在だった頃を思えば当然のことだった。あの頃は、溢れるほどの<従者>たちが要塞の周囲に広がる地下道を縄張りとし、一つの街さえ形成していたのだ。

 ひたすら西に移動を続けた。

 ゴルディクス大砂漠の地下を抜け、エイハーン国やエイジハル家のエイジハル血印の勢力圏でもあるはずのサーディア荒野と地下のエイジハル血印に地下から近づいたが、闇神リヴォグラフ側の勢力に邪魔をされたが、なんとか、大迷路と呼べる地下の大動脈層を抜け、魔界騎士ヘルキオスが支配する地下深くにある独立都市ヘルキオスに到着できた。


 そこで懐かしい顔に出会った。

 モモル――吸血神ルグナド様の<従者長>。

 数百年ぶりの、血を分けた仲間との再会。

 だが喜びも束の間、彼女の知識は限られていた。


「ハルゼルマ家はパイロン家に潰された」


 彼女はハルゼルマ家はパイロン家に潰されたとしか知らなかった。

 ケンダーヴァルの名も知らない。

 他の生き残りは聞いたことがないと……。

 そして、吸血神ルグナド様の魔界側の直の<従者長>なだけあるモモルは忙しい。


 俺のパイロン家への訴えも聞いてはくれた。

 だが、それも最初だけ。

 すぐに部下が駆け込んできて、吸血神信仰隊の長老たちとの緊急会議に呼ばれていく。


 俺の復讐なんて、今の戦況では些細な問題なのだろう。


 だが、理由はすぐに分かった。

 サーディア荒野の地下にある要塞ごとヒミィレイス家が滅んでいた。闇神リヴォグラフ側に討たれていたのだ。

 魔界側の<筆頭従者長(選ばれし眷属)>ラライセ・エイジハルが率いる血の守護騎士団が魔界側からドムラピエトー家が守る傷場を利用し、セラに出動し、各地を転戦しては闇神リヴォグラフを一時撃退、事なきを得たようだが……その戦いでラライセの妹、ヒミィレイスは命を落としたらしい。


 また一つ、血の一族が消えた。

 俺たちだけではなかったのだ。

 だからか、エイジハル血印の地下道に闇神リヴォグラフの勢力が多かった理由。

 そして、エイジハル血印が落とされる前に、闇神リヴォグラフにより、南マハハイム地方の傷場も奪われていた。

 

 これもショックだった。

 俺が放浪している間にそのようなことが……。


 南マハハイム地方の十二樹海地下の吸血神ルグナド様が所有していた傷場の魔界側はヴァルマスク大街があった。

 そこも闇神リヴォグラフ側に奪われたということだろう。

 南マハハイム地方十二樹海の傷場は、東マハハイム地方の地下にあった俺たちハルゼルマ要塞への援軍を魔界側からセラに送るうえでもっとも近いルート。

 その重要な傷場が闇神リヴォグラフの手に落ちた。


 俺たちハルゼルマ要塞が潰れたことで東西南北の吸血神ルグナド様の<筆頭従者長(選ばれし眷属)>たちの支配が揺らぐことが、立て続けに出ているということか。


 セラから魔素と魂を大量に得られる傷場は、他の神々や諸侯と争いとなるからな。

 そうした理由から、皆、闇神リヴォグラフとの争いで手一杯だった。

 パイロン家への復讐? 内輪揉め? そんな余裕はないという顔をされる。

 俺の痛みは、誰にとっても優先事項ではない。

 ハルゼルマ要塞の日々は……否、だからこそか、皆、必死だ。

 十二支族は本来一枚岩のはずだった。だが現実は違う。皆、自分たちの領域を守るのに精一杯で、ハルゼルマ家の復讐なんて二の次。孤立無援とはこのことか。


 そんな時、懐かしい顔ぶれと再会した。

 あの夜、ハルゼルマ要塞に援軍として駆けつけてくれた戦士たち。

 会話に花が咲く。


「生きていたのか、ウタジ」


 その言葉だけで、胸が熱くなった。

 だが、彼らもまた、その傷場を巡る争いの最中であり、この独立都市ヘルキオスをも戦場になりかねない話を聞く。

 明日は我が身かもしれない。

 南マハハイム地方十二樹海の地下にあった傷場を失い、ヴァルマスク家は敗れ散り、そこから闇神リヴォグラフ側の戦力は、マハハイム山脈やゴルディクス大砂漠を西北に抜け、サーディア荒野地下のヒミィレイス家の要塞を陥落させた。


 次は、エイハブラ平原地下、吸血神ルグナド様の直の魔界騎士ヘルキオスが支配する独立都市ヘルキオスであることは明白。

 その魔界騎士ヘルキオスや<従者長>モモルに吸血神信仰隊が敗れたらエイハブラ北の、ドムラピエトー要塞のドムラピエトーの傷場が、危うくなる……。


 吸血鬼の存亡に関わる事態だ、俺の復讐なんて、自分たちの命、種としての危うさを考えたら、どうでもいいはずだ。歯がゆいが、それは当然、文句を言える立場でもない。


 吸血神ルグナド様の傷場とサーディア荒野地下のヒミィレイス家を攻め落とした闇神リヴォグラフ側の【闇神異形軍】、【異形のヴォッファン】、【暗夜十三の執行者】などの諸勢力の軍は地上の人族の都市も襲っていた。

 更に、名の知らぬ光神教徒、教皇庁中央神聖教会、人族側の冒険者が活躍し、闇神リヴォグラフの大眷属を屠った話も聞いた。

 

 結局、独立都市ヘルキオスに腰を据えることにした。

 ハルゼルマ家再興とケンダーヴァルへの復讐に、ミレイたちを探す目的はあるが、吸血神ルグナド様に少しでも貢献したい想いもある。吸血神ルグナド様が魔界で追われる立場になれば、俺たち|吸血鬼ごと、すべてが狩られる立場になってしまう。ここが俺の新しい拠点。

 家と呼べる場所ではないが、少なくとも毎晩違う洞窟で眠る必要はない。

 小さな安心だが、大切な一歩だ。

 そうした理由で、エイハブラ平原の地下大動脈を利用することが増え、地上にもよく出るようにした。

 近くの【ドンレッド蛮王国】、【ゼルビア皇国】、【エイハーン国】、サーディア荒野など

 サーディア荒野の地下にも当然、近いから移動し、ヒミィレイス家の要塞を占領している闇神リヴォグラフの勢力とも衝突を繰り返した。

 

 人族の教会の軒下、ドワーフの鉱山の入り口、そして魔族の酒場の片隅――身分を隠し、情報を集める日々。今日は行商人、明日は傭兵、時には吟遊詩人。嘘の積み重ねで築いた偽りの人生。本当の自分を語れる相手は、当然ながら吸血鬼以外にはいない。


 時には耳を傾けるだけ、時には<従者>の真似事をして小さな仕事を請け負い、<血魔力>を最小限に抑えて存在を隠しながら。


「ケンダーヴァルめ……」


 白い呼氣と共に名を呟く。

 そいつの足取りを追うたび、破壊と狂氣の痕跡だけが残され、本人の姿は掴めない。


 【魔術総武会】の闇の一派、【闇の枢軸会議】の糸、そして【テーバロンテの償い】という邪教との繋がり――断片的な情報を繋ぎ合わせても、全体像はぼやけたままだった。

 

 最も恐ろしいのは孤独そのものではない。孤独に慣れてしまうことだ。

 一年、十年、百年と時が過ぎるうちに、あの同胞たち、決死隊の者たちの絆を知るだけに本当の意味での他者との絆を求めることが少なくなったような氣がする。ま、当たり前、吸血鬼の宿命だ。


 夢の中で父が現れる。『力は人を繋ぐためにある』

 ようやく分かった。父が本当に伝えたかったのは、力の使い方じゃない。心の持ち方だったんだ。


 孤独に負けるな、絆を諦めるな――そういう意味もあるんだろう。

 だからこそ、時々意図的に人里に降り、市場の喧騒や祭りの賑わいを遠くから眺める。渇きが喉を焼く夜は数えきれない。


 遠くの村から漂う人族の匂い、脈打つ鮮血の誘惑……。

 高祖吸血鬼としての本能が全身を支配しようとする刹那、魔刀鬼丸の柄を強く握り、父の言葉を想起する。


「力は守るためにあるべき」


 獣を狩り、その血で喉の渇きを癒やす。

 それは本能に抗う意志の勝利であり、同時に高祖吸血鬼としては屈辱でもあった。

 だが、その屈辱を選ぶことが、今の俺の戦いだった。

 無辜の命を奪わず、己の尊厳を守る戦い。

 それこそが、いつかケンダーヴァルに向き合うための資格を得る道だと信じて。


 そして〝血魂の琵琶〟の奏で、失われつつある感情を呼び覚ます。


 だからこそ、時折あえて人里へ降り、市場の喧騒や祭りの賑わいを遠くから眺め、人と触れ合うために酒場へも入った。勿論、吸血鬼ハンター対策は絶対だ。

 

 更に、女将に〝血魂の琵琶〟による腕前を見せる。


『……今宵、遠き故郷の星を想い、失われたる友の魂に捧ぐ歌を』


 深々と頭を下げた俺は、ゆっくりと弦を爪弾いた。


 乾いた旅の風を模したような、寂しげな前奏。

 やがて、低く、しかし力強い歌声が酒場に響き渡る。

 それは、故郷を追われた民の悲哀を歌い、失われた絆への切ない願いを綴った歌。酒場の喧騒が、嘘のように静まり返った。

 グラスを持つ手が止まり、皆が俺の歌に耳を傾ける。

 中には、故郷を思い出し、目元を拭う者もいた。

 歌声は、彼らの心にそっと寄り添い、そして俺自身の失われつつあった感情も、血の旋律に乗って鮮やかに蘇ってくるのを感じた。


 酒場の片隅では、数名の冒険者がこちらに警戒の視線を向けた。

 彼らは、俺の歌声に含まれる『血の旋律』、あるいは『古き魂の響き』のようなものに無意識に反応しているのかもしれない。だが、彼らの仲間が『おい、あんまり凝視すんなよ、歌の邪魔だろ』と嗜める声が聞こえ、俺は内心、安堵の息を吐いた。


 『月』と『魂』の弦を爪弾き、歌が最高潮に達した時――。

 琵琶の弦がわずかに赤く脈打つのを感じた。

 それは俺の<血魔力>が、歌を通して過去の記憶と共鳴している証拠だった。


 歌い終えると、酒場は一瞬の静寂に包まれ、やがて万雷の拍手が起こった。女将が満面の笑みで新しい酒を持ってきてくれた。


『あんたの歌は、あたしらの魂に染み入るねぇ! もっと色んな話を聞かせな、吟遊詩人さんよ』。


 その言葉を合図に、客たちが次々と話しかけてくる。

 中には、闇社会の裏情報や、危険な仕事の話を匂わせる者もいたが、俺は巧みにそれを捌き、必要な情報だけを拾い集めた。


 人族たちは俺を「腕の良い吟遊詩人」として歓迎してくれる。

 古都市バビロンで学んだ知識が役に立つ。皮肉なものだ。

 正体を隠している時の方が、素直に受け入れてもらえる。

 同時に、古都市バビロンの知見を活かし、人族たちの闇社会を利用し、陰として人々の闇に融け込んでいく。

 教皇庁中央神聖教会の連中にだけは氣を付ける、人族の多くは、皆、喜び、楽しみ、悲しみ、怒り、絶望を味わいながら、毎日の生活の中で必死に生き抜いている。短い命を、精一杯燃やしている。

 悲喜交々の感情は、俺の失われつつある感情を強く呼び覚ます……。


 ある晩、エイハブラ平原の南端、エイハーン王国との境界近くにある小さな村の外れで琵琶を奏でていた時のことだ。この辺りは三つの国の境界が曖昧で、無法者や人攫いが跋扈しやすい土地として知られていた

 小さな足音が近づいてくるのを聞いて弦を押さえた。

 人里では目立たぬよう、常に警戒を怠らない。

 

 しかし、その足音には慌ただしさがあった。それは逃げる者の足音。


 暗闇から現れたのは、小さな影。

 子供だ。七つか八つの少女だった。

 七つか八つだろうか。擦り傷だらけの細い腕、恐怖に見開かれた瞳。

 なぜ夜中のこんな場所に。

 彼女は立ち止まると、驚きに固まった。暗闇の中、見知らぬ男が琵琶を抱えて座っている光景が、あまりにも場違いだったのだろう。


「お、お兄さん……助けて」


 かすれた声に、後方からの粗暴な叫び声が重なる。


「どこだ、小娘! 逃げても無駄だ!」


 複数の松明の光が遠くに見え、獣のような笑い声が夜の闇に混じる。

 奴隷商人か、はたまた単なる人攫いか。少女の恐怖が、冷たい夜風のように肌を撫でた。


「隠れなさい」


 少女を茂みに導きながら――守るべきものがある、百年間忘れていた、この温かな感覚。かつてハルゼルマ家で感じていた、家族への愛情。

 父がミレイを、母が俺を守ろうとした、あの想い。

 それが今、この小さな命の前で蘇ってくる

 

 『力は守るためにある』

 

 父の言葉が、今ようやく血肉となって俺の中で脈動した。

 百年間、ただ生き延びるためだけに振るってきた剣。復讐のためだけに磨いてきた技。

 だが今、この瞬間――

 

「どんなことがあっても、出てくるな」

 

 この言葉に込めた想いは、かつてメイラスが俺に向けた想いと同じものかもしれない。

 男たちが近づいてくる。

 五人……いや、七人。皮鎧を身につけ、刃物を持った、ただの村の狩人ではない。

 魔力の匂いもする。恐らく魔界との繋がりを持つ組織だ。


「おい、そこの男! 小さな女を見なかったか?」


 先頭の男が松明を掲げながら叫ぶ。彼らの顔には獲物を追い詰めた獣の表情が浮かんでいた。


「さぁな。俺は旅の吟遊詩人だ。夜の演奏に耽っていたところだよ」


 にやりと笑った男は、横目で仲間に合図を送った。


「そうか、ならばちょっとそこをどいてもらおうか。その茂みを……」


 彼が一歩踏み出した瞬間、すべてが変わった。

 俺は<影刻加速>を発動した——しかし、全力ではない。否、まったく異なる使い方を試みた。時間を引き延ばすように感覚を研ぎ澄まし、自らの動きを人間の目には認識し難い速度に調整する。半透明の残像を残して、静かに移動した。


「な、何だ!?」


 男たちが混乱する中、俺は静かに彼らの背後に立っていた。

 魔刀鬼丸を抜くこともせず、ただ両腕を広げ、指先に<血文王電>の力を僅かに宿らせる。


「この山には、〝黒の貴公子〟という幽霊が出ると聞いたことがないか?」


 ――口から出た言葉に、自分でも驚いた。

 百年前、あの老婆が震え声で呼んでくれた名前。

 俺を化け物ではなく、守護者として見てくれた最初で最後の人族。

 あの時は否定した。だが今、この小さな命を守るために、俺は自らその名を名乗っている。

 これが、あなたの残してくれた贈り物の使い道ですか、ばあさん――。

 心の中で、とうに土に還った老婆に語りかけた。

 男たちは凍りついた。

 彼らの背中から冷や汗が噴き出すのが見える。


「黒の……黒髪……そんな、まさか……」


 振り返った男の顔が青ざめる。

 月光の下、俺の姿はかつての<筆頭従者>の威厳を取り戻していた。

 目から淡く灯る<血魔力>の光。指先から蠢く血雷の文字。


「『血の一族』に属する子供を追う者には、死の裁きを与える……それが『黒の貴公子』の掟だ」


「ち、違う! あの娘は普通の……」

「黙れ」


 冷たく言い放つと、指先から一筋の血雷が男の足元を貫いた。

 地面が爆ぜ、塵が舞う。男たちは叫び声をあげて逃げ出した。松明が落ち、闇に消えていく。


 完全に静寂が戻ってから、茂みに向き直る。


「もう大丈夫だよ」


 マントの下から恐る恐る顔を出す少女。怯えた表情は残っているが、その瞳には不思議な光があった。驚きと好奇心に満ち満ちた、純粋で無垢な、子供の眼差し。

 人族と違い、吸血鬼が自然に子をなすのは極めて稀だ。血を分ければ眷属は増やせるが、それは血族が増えるだけであり、新たな命が生まれる可能性は限りなく低い。だからこそ、子供という存在は我々にとって宝石のように貴重な存在となる。


「お兄さん、本当に幽霊なの? でも、触れるね」

 

 震える小さな手が俺の指先に触れる。温かい。生きている。

 何百年ぶりだろう、恐怖ではなく好奇心で俺を見つめる瞳は。

 この子は俺を化け物だと思っていない。


 ただの「不思議なお兄さん」として見てくれている。

 思わず苦笑した。


「いいや、幽霊じゃない。ただの旅人だ」

「嘘。普通の人じゃないよ。だって、あんなに速く動いて、指から光が出たもの」


 少女の素直な観察に言葉が詰まる。

 この子の村に送り届けるべきか。だが、吸血鬼の正体を知られれば、村人たちから忌避されるだろう。

 エイハブラ平原は、ドンレッド蛮王国、ゼルビア皇国、エイハーン王国の緩衝地帯として機能していた。そのため、各国の法が及ばない無法地帯となることも多く、弱い者が犠牲になりやすい土地でもある。この娘のような孤児が人攫いに狙われるのも、この地の宿命か。


 だが、この子を一人にするわけにはいかない。


「それより、あなたの家はどこ? 送っていこうか」


 少女は俯いた。


「わたし……家はないの。おばあちゃんと住んでたけど、死んじゃって。それであの人たちに……」


 胸が締め付けられた。孤児、人族の孤児は時に奴隷として売られることがある。

 世界の残酷な現実だ。


「あなたは……ウタジって言うの?」


 少女の言葉に息を呑んだ。


「どうして俺の名を?」

「だって、さっきから指から出る光の中に、そう書いてあるもの」


 見れば確かに、無意識に指先から漏れ出した<血文王電>の文字が、空氣中に「ウタジ」の名を浮かび上がらせていた。「ハッ、ハハ」と自分で自分を笑う。


 俺の感情に反応する力……。

 父から受け継いだ、能力の新たな一面、それを垣間見た氣がした。


「そうだよ。俺はウタジ。君は?」

「エレイザ」


 小さく答える声に、何か懐かしさを感じた。

 過去、ハルゼルマ家ではエルフや人間の孤児を引き取り、従者として育てることもあった。母がそうした孤児たちを研究対象にすることもあったが、父は彼らを実の子のように慈しんでいた。


「エレイザ、地上ではなく地下都市となるが、付いてくるか? そこには、俺の知り合いがいる。そこなら安全だ」


 エイハブラ平原の地下深くにある独立都市ヘルキオスには、魔界騎士ヘルキオスが管理する孤児院がある。地上からは見えないが、この平原の各所に隠された入り口から、巨大な地下都市へと続いている

 そこなら、種族を問わず保護してくれるだろう。


 少女はしばらく考え、頷いた。


「うん。地下……太陽がなくても平氣?」

「地上への地下道も比較的安全だから、地上にはいつでも出られる」

「分かった。でも、その前に……」


 彼女はマントに包まれたまま、俺の<血魂の琵琶>を見つめる。


「さっきの音、もう一度聴かせて。おばあちゃんも琵琶を弾いてくれたの」


 思わず胸が熱くなった。


「ああ、いいとも」


 アイテムボックスから〝血魂の琵琶〟を取り出した。

 再び膝に乗せる。優しく調弦し、『月』と『魂』の弦を押さえる。


 エレイザが安心して眠りにつくまで、静かに琵琶を奏で続けた。

 月明かりの下、小さな命を守る旋律が、夜の闇を優しく包み込んでいく。


 この弱き者を守る感覚こそ、父が俺に伝えたかったものかもしれない――。

 力の真の使い道。

 サルジンやスゥン、そしてミレイとの再会を願いながら、弦を爪弾き続けた。


 翌朝、エイハブラ平原の隠された入り口から地下への道を辿り、エレイザを独立都市ヘルキオスまで送り届けた。地上の荒涼とした平原からは想像もできない、温かな光に満ちた地下都市の光景に、エレイザは目を輝かせていた、孤児院に託した。

 別れ際、エレイザが小さなものを押し付けてきた。

 エレイザが木の笛を差し出してきた時、百年間の放浪が、すべてこの瞬間のためにあったような錯覚を覚えた。

 

「おばあちゃんの形見なの」

 

 その言葉に、あの雨の夜を思い出す。

 俺が助けた少女も、きっと誰かの大切な孫になり、そして今は沙羅双樹の葉の下、土に還っている。


 森羅万象の命は巡る。

 俺のような永遠を生きる者には理解し難い、儚くも美しい連鎖。

 

「大切なものじゃないのか」

「だから、あげるの。大切な人にあげるものでしょ?」

 

 子供の純粋さに、胸が詰まった。

 エレイザの純粋な言葉が、百年間凍りついていた何かを溶かしていく。

 あぁ、そうか、これが俺の見つけた答えなのか。

 この子は、たった一晩の出会いで、俺を「大切な人」と呼んでくれた。


 百年間、誰からも必要とされず、愛されることもなかった俺を。

 木の笛を受け取る手が、わずかに震えた。

 これほど小さな贈り物が、これほど重く、温かく感じるとは。


 復讐ではなく、守ること。

 破壊ではなく、繋ぐこと。

 この小さな命との出会いが、新しい物語の始まりなのかもしれない。


「またね、ウタジお兄さん。必ず会いに来てね」

「ああ、約束だ」

 

 その言葉に、嘘はなかった。

 この子の笑顔を守るためなら、俺はどこまでも強くなれる。

 復讐だけが俺の生きる理由ではない、そう確信できた瞬間だった。

 小さな手を振る姿。屈託のない笑顔。

 数百年ぶりに心に小さな光がともる。この約束だけは、必ず守ろう。

 エレイザを見守りながら、また<血魂の琵琶>を奏で、失われつつあった感情を思い出していた。

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