4話 滅びの夜
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暗闇の中、不穏な気配が蠢いていた。それは、通常ではありえない光景だった。ハルゼルマ要塞から少し離れた五十六番地下通路に、普段は見られない集団が集結していた。魔術師、吸血鬼、そして古代狼族――本来相容れぬ者たちが、ハルゼルマ要塞への総攻撃準備を進めていた。
その中心から幻獣に乗った見知らぬ男が現れた。
周囲の空気が腐敗したような臭いを帯び、温度が急激に下がる。
「見つけたぞ……」
声には、幾星霜と生きた者、特有の重みと狂気が滲んでいた。
その幻獣に乗った魔術師は、
「時は満ちた……すべては我の手に……」
と呟く。
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研究室の空氣が急変する。ガラス槽内の生命体が強く脈動し、マゼンタ色の光が漏れ出す。
「……母上、実験は次の段階へ?」
と、聞いた。
「ええ。〝血妙魔〟の力が安定してきたわ。覇王のシックルと、あなたの<血道第三・開門>の<血文王電>、そして付与した力との同調も最終段階よ。もう少しで、東郷が夢見た、いえ、それを超える存在が完成する」
母は狂氣を帯びた熱意で語る。
父の研究について問うと、母は、
「東郷は理想主義者だった。だからこそ、彼は死んだのよ。あなたには彼の轍を踏んでほしくない。力こそがすべて、この宇宙、惑星セラでは、力なくして生き残ることはできない」
と感情を滲ませた。
その時、轟音と共に要塞が揺れ、襲撃を告げる悲鳴が響き渡った。内壁に掛けられた血の結界が揺らぐ。
「……襲撃!?」
驚きだったが、母も皆も目を見張る。
ハルゼルマ要塞の警邏は万全のはずだった。俺たちが戻ってきて、警邏が増えたという話も聞いていたのに、どうして……?
血の結界が急激に縮むと、ハルゼルマ要塞の一部の壁が溶けて、禍々しい魔力が研究室に満ちていく。
中心から見知らぬ男が現れた。その魔力の質を感じ、息を呑んだ。
「見つけたぞ……」
「……結界を破った?」
母の声は震えた。
母を見つめる怪しい男の瞳に底知れぬ古代の魔力を感じた。
胸の奥で血が逆流するように沸き立ち、喉まで這い上がってくる。
舌が痺れ、<血文王電>が勝手に活性化し始める。
これが恐怖か? 怒りか? 判断する暇もなく、体が独自の意志を持つかのように震えた。
防御態勢のハルゼルマ流『撞木の型』を構えたが、魔刀鬼丸を構えたまま、まるでそれごと溶解していくかのような圧倒的な魔術波動に圧力を全身に感じていた。
宙空に浮かぶ男の魔術波動が、俺の<血魔力>のコントロールを狂わせる。 衣服の隙間から黒い文様が浮かぶ肌が覗いている。
その男が、
「ソーニャ・ラヴァレ・ハルゼルマ・ルグナド……」
と、ゆっくりと名を噛みしめるように言った。
俺を見つめてきた。なんだこいつは……その男が、
「そして、東郷とお前の『最高傑作』。噂通りの力を持っているようだな」
男の手には研究データらしき魔法の書類が握られていた。
母の目に恐怖が宿る。母を守るように前に出たが、あいつは母と俺を知る? 母の研究への強い興味があるようだ。衣服の隙間から覗く肌には、魔術の痕跡を示す黒い文様が浮かび上がっている。
「東郷を知る? 貴様、何者だ! ルグナド様が許すとでも!?」
母が絶叫する。
その声には、未知の敵への怒りと、研究を奪われることへの恐怖が混じっていた。
母の手が震え、魔法陣が不安定に明滅する。
「ルグナド? 許すも許さないもない」
男は嘲笑うように言った。
「そもそも、あの古き神がこの研究の真価を理解できているのかどうか。そして、その息子と〝血妙魔・十二指血始祖剛臓〟は重要だ。古き神々の軛から世界を解き放つための力となる……神の魔法力、式識の息吹を超えてみせよう……」
「……戯れ言を! あなたなら、ゴルディクス大砂漠が、どのようにして起きたのか、知らないはずがない!」
「それがどうした……あの失敗した支配層エンティラマがいたからこそ……ハッ、今の我があるのだからな……フハハハ、だからこそ、お前たちの研究の異界技術、否、異世界の未知の技術と、魔法と魔方……<血魔術>、アロトシュの……そのすべてを我が頂く……」
男は、口元に嘲りの笑みが浮かぶ。
「許しません、吸血神ルグナド様も貴方と、パイロン家たちも許さないはず!」
「吸血神ルグナドが許さないのは当然だろう、だが、所詮は、狭間の向こうの魔神にすぎん。我の動きに氣付いたとしても遅い……そして、神々には神々の敵が多すぎる。まぁ、この惑星セラも混沌としているがな、フハハッ」
語り嗤う、男の背後から相次いでパイロン家の兵士たちが現れ、ハルゼルマの同胞たちと戦いが始まった。その中には、明らかに術式で操られている者と自らの意志で動いている者が混在していた。古代狼族の姿も見えた。
十二樹海のどこかに棲まう、獰猛な獣人種族共がわざわざ、ここに。
「そのような侮蔑許されません――」
母は左腕から膨大な<血魔力>を放ち、右腕から無数の魔刃を放つ。<血魔力>は要塞の内部で戦う同胞に降りかかると、動きが加速速度も増して、パイロン家と古代狼族族たちを魔剣と魔槍と魔法と<血魔力>の魔刃で、撃破していく。
男の魔術師にも母の魔刃が向かうが、宙空で消えていた。
母の顔が蒼白になる。
血の氣が引き、唇が震えていた。
男はただの魔術師ではない。
奇怪な能力者、どのようなスキル、魔法で、母の魔刃を消したのか、分からない……。
背筋に冷たいものが走るのを感じた。
途端に、母の研究室内の術式が一斉に激しく明滅し、ガラス槽の中の生命体が狂ったように脈動し始める。
母は男を睨み、
「貴方、大魔術師……名乗りなさい」
「我は、ケンダーヴァル。嘗ては大魔術師の一人、しかし、もう大魔術師とは呼べないか……」
男の名はケンダーヴァルか。
大魔術師といえば、人族側、魔法ギルドの【魔術総武会】たち。
その者たちが、吸血神ルグナド様に喧嘩を売るか……。
母の両手が震え、指先から血が滴り落ちた。
その滴りが床に落ち、奇妙な文様を描き始める。
ケンダーヴァルはパイロン家の兵士に合図を送ると同時に、自らも詠唱を開始した。
母は、
「させません――」
体から血の<血魔力>を放出させる。その血は滂沱の勢いで加速上昇し、血の魔刃と血の鴉たちに変化。それらがケンダーヴァルに向かって転移し、消えた。
ケンダーヴァルの前に空間がブレる。
すると、母の繰り出した血の魔刃と血の鴉は、宙空で次々に掻き消えていく。
そのケンダーヴァルの横に転移し、現れた母が、右手に持つ魔槍を振るい抜いた。
<血魔力>の一閃、<血槍・弦犀強閃>だろう。
ケンダーヴァルは指先から生み出した異空間のような物で、母の一閃を防ぐ。
ケンダーヴァルは、母に「吸血神ルグナドの<筆頭従者長>の一人なだけはある――」と発言しながら、その懐から無数の魔剣と魔槍が召喚し、それが母に突き出された。
させるか――と、跳んでケンダーヴァルに向かったが、衝撃波をまともに喰らう――。
床にたたき付けられた。
身を転がし、床を蹴ってケンダーヴァルに向かうが、途端に、ケンダーヴァルの手が紫がかった光に包まれ、空氣中に複雑な文様が浮かび上がる。
「<魔法陣・覇黙デアガメスス>!」
研究室全体を潰すような強大な圧力を伴った魔力の奔流。
なんだこれは、壁が砕け、天井が崩落する。それはまるで見えない巨大な、あたかも巨人たちが地ならしを行うが如く――。
空間そのものが歪み、増幅した圧力が研究室内の術式と共鳴するように、すべてを破壊していく。
すぐに立ち上がり――。
「ぐっ……!」
全身の血が逆流するような殺気を感じた瞬間、体は既に動いていた。
魔刀鬼丸が闇を裂く。刃が古代狼族の男の胸を袈裟懸けに断ち、返す刃でパイロン系吸血鬼の首筋を薙いだ。血飛沫が宙を舞い、二つの体が崩れ落ちる音が、戦場の喧騒に呑まれていく。続けて、母を守るため「退けがッ」と叫び魔刀鬼丸を乱暴に突き出し、刃で古代狼族の胸を貫き倒す。飛来した魔矢と短剣を体に喰らうが、次の古代狼族へと間合いを詰め、魔刀鬼丸で<血剣・一穿>を繰り出し右回し蹴りで、古代狼族を吹き飛ばす。前にいるパイロン系の吸血鬼に近づいて魔刀鬼丸を突き出し、腹をぶち抜く。だが、衝撃波を、浴びて、後退――。
今の衝撃波は、ケンダーヴァルの魔法かスキルか?
いずれにせよ、圧倒的な圧力を感じた――自らの<血文王電>を使って防壁を張る――。
が、闇の雷撃で弾け、左腕が散る。
魔刀鬼丸が宙空に回転し、すぐにアイテムボックスにしまう。
が、ケンダーヴァルは再び衝撃波を寄越した。
こんな時に、覇王のシックルは母の研究で――。
その上、衝撃波に加えて、奇怪な爆弾が召喚され――。
立て続けに同胞の<従者>が砕け散る。
「きゃぁ」
母の悲鳴に、吹き飛ばされた母が、壁に激突している――。
前に出て、跳び、ケンダーヴァルに斬り掛かった。
「ハッ」
と、ケンダーヴァルは嗤いながら上昇し、避けてくる。
ケンダーヴァルの視線がミレイに向けられた。
そのケンダーヴァルに「よくも、ソーニャ様を――」と斬り掛かったのは、ミレイ――。
ミレイの〝血ノ旭影〟の一撃を、宙空に生み出した魔剣で防いだケンダーヴァルは、
「――お? 元聖痕騎士がここにいるとは。教皇庁の失敗作が、吸血鬼の<筆頭従者>に身を落としたか」
ミレイの表情が凍りつく。
そのミレイの前に出て、ケンダーヴァルに覇王のシックルの白焔が包む闇夜剣を突き出したが、ケンダーヴァルは後退し、避け、
「――ソーニャよ、お前は〝肝血脈力〟だけでなく、教皇庁の実験体まで手に入れていたのか」
と発言しながら、立ち上がっていた母に突進していく。
そこにパイロン家の猛攻も激しさを増した、次々に同胞の<従者>たちが――。
数千年の間に築き上げたはずのハルゼルマ家の力が、脆くも崩れ去って、くそが――。
あぁぁ――。
忠誠を誓った部下たちが一人、また一人と倒れていく。
「若様!」
「ウタジ様――」
「ウタジ、ここから!」
「ウタジ様、左はお任せを!」
「ウタジ隊長、いつもの、バリバリ伝説を見せてくださいよ!」
決死隊の面々だ――。
その側近たちと懸命に戦った。
<筆頭従者>のミレイは華麗な剣技と血の盾でパイロン家の兵士を相次いで退けていた。
しかし、ケンダーヴァルの放った闇の魔術に盾ごと吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
ミレイを助けようと、前に出ながら古代狼族の爪を魔刀鬼丸の刃で払い、魔刀鬼丸を突き出し、古代狼族の腹を刺し蹴り跳ばす。
右にいた古代狼族に、右腕の手に持つ魔刀鬼丸の切っ先を見せながら、<血剣・斜鳴突>を繰り出し、古代狼族の上半身を魔刀鬼丸の刃で裂くように吹き飛ばして倒した。
そして、三人の古代狼族の爪剣と三人のパイロン家の吸血鬼に押されていた赤髪の獣人サルジンは一人、壁際で、仲間を守っている。
そのサルジンたちと戦う側面に飛び込む――。
古代狼族と吸血鬼を<血文王電>で吹き飛ばし、サルジンを救った。
サルジンは、
「隊長、ナイスだ、ここは俺に任せ、女帝を頼みます!」
と、叫び、右前に出て、三人のパイロン家の吸血鬼と大魔術師の配下と思われる蒼髪の女の魔剣を、己の太い血爪で、押さえ込んでいた。
サルジンは、ハルゼルマ家随一の力持ちだ。
持ち前の膂力で加速しては、その両手の血爪を伸ばし、吸血鬼を吹き飛ばし、古代狼族を串刺しに倒す。青髪の女は退いた。俺も前に出て、相対した吸血鬼の心臓を魔刀鬼丸で一突き、返す刃で首を刎ねる。サルジンは、腕を払い血爪で、次の敵の首を刎ねる。
また敵を掴むと豪快に投げ飛ばす。古代狼族の自慢げな鋭い爪を己の爪でへし折るように倒すと、発狂したように吼えながらハルゼルマ要塞の中央通路を直進していく。
豪快なサルジンを倒そうと古代狼族の名のある強者が突撃していくが、暴走した戦車に突撃するごとく、次から次へと返り討ちとなっていた。
ケンダーヴァルの眷族が、「お前は我が――」とケムトーが叫び、蒼い魔剣の<メデェンの鳴剣>の三回斬りを繰り出す。サルジンは両手の剣のような爪を振るい、その蒼い魔剣の斬撃をすべて弾くと、下段蹴りからの<血豪爪剣>を繰り出し、ケムトーの胸元を貫き倒していた。
サルジンの無双となったが――数の差はいかんともしがたく、無数の刃を体に受けると、咆哮を発して壁のほうに転がり込む。と、そこに降ってきた瓦礫が積まれてサルジンの姿は見えなくなった。
相対した、古代狼族と吸血鬼を倒す。
ケンダーヴァルと戦う母の姿を見ながら、近くの吸血鬼を戦う。
そして、ミレイが遠くで、古代狼族と戦っているのを視界に捉え、フォローにいけないもどかしさを感じながら、吸血鬼を袈裟掛けに倒し、前に出る。
俺たちを守ろうと、参謀役の禿頭のスゥンは魔法障壁を展開し、後方の従者たちを守ろうとした。
しかしパイロン家の精鋭による連携攻撃の前に障壁は砕け散り、窮地に陥った。
その他の忠臣たち、<従者長>ラガメイジ、ペドガラ、ジェームスも奮戦していくが虚しく命を落とした。
くそがっ。
大切な血の家族が、仲間たちが次々と倒れていく。
心が引き裂かれそうだ。だが――今は母を守ることだけを考えろ。感傷に浸る余裕などない。
そして生き延びることしか考えられない。
廊下から聞こえる悲鳴と叫び。
瓦礫の下から見える血の色――そのすべてが、混沌に飲み込まれていた。
ハルゼルマ家の結界が破られ、要塞と化していたはずの屋敷が刻一刻と陥落していく様子が術式の残響を通じて感じられた。
「行きなさい――」
母の叫び声が響く。
瓦礫の下から這い出し、その手には、異様な光を放つ覇王のシックルが握られていた。白銀の筋が俺の<血魔力>に反応し、シックルの形状が少し揺らぐ。
その刃には、ソレグレン星の技術を思わせる微細な回路のような模様が浮かび上がっていた。白と黒の光が交錯し新たな刃の形を模っては消えていく。
「母上!?」
「ウタジ、あなたの覇王のシックル、東郷の研究の最後の欠片ですっ。これはあなたのの力の制御鍵にもなり得る武器。〝覇王のシックル〟が白焔が包む闇夜剣になるは知っていると思いますが、それだけが覇王のシックルの実力ではありません。まだまだ秘奥があるのです。そして、吸血王サリナスの吸血王の剣のようなカリスマ性はないですが、それに似合う、否、それ以上の強さがある! さぁ、わたしはいいから、行くのです」
母上は、覇王のシックルと俺を見て、微笑む。
「え、覇王のシックル……いつもと違う?」
母上、否、母さん……。
母は、唇が、かすかに動いた。
『……地下都市ゴレムの泉……そこで……東郷と……』
父のことを……そこで、覇王のシックルが振動し、持っていた腕が痺れて、覇王のシックルを落としてしまった。
刹那、母は、ハッとして、その覇王のシックルを拾い上げ、
「……ふふ、大事なウタジ。貴方までケンダーヴァルに、奪われるわけにはいきません、メイラスたち、こちらに!」
「「「ハッ」」」
メイラスに眷族を呼ぶ母、ハルゼルマ家を率いる女帝としての顔だ。同時に、数千年の研究の果てに至った悟りのようなものが垣間見えた。そして、
「東郷……あなたの遺志を……私は結局、理解出来なかったのかもしれない……」
と、小さな声で呟く。
ガラス槽の中の生命体が激しく脈動し光が溢れ出す。
母はその光を見つめ、覚悟を決めたような表情を浮かべ、皆を見ては、
「メイラスたち、私たちは吸血神ルグナド様の眷族です」
「「はい!」」
「ここを攻撃したパイロン家は同胞ですが、私を攻撃したということは吸血神ルグナドへの攻撃となる。そして、あの大魔術師の背後には【魔術総武会】の大魔術師たちがいる。しかし、すべてではなく一派だけのはず、その一派を、決して許してはいけませんよ、ここで皆殺しにするのです」
「「「はい!!」」」
母はメイラスに覇王のシックルを渡していた。
「メイラス、息子を頼みます」
「分かりました!」
<筆頭従者>メイラスは、俺の腕を掴む。
老練なメイラスの、白髪の顔には深い悲しみと決意が刻まれていた。
「若様、こちらへ!」
「しかし、母上が! メイラス、皆は!?」
そこに闇の刃の群れが飛来。
俄に、メイラスの腕を振り払い、<影刻加速>を使用し、母とメイラスとコトハたちを守るために前に出て、魔刀鬼丸を振るい、光と闇の刃を切断した。
「ハッ、ムダダ、神々の軛から世界を解き放つ……そのためには、〝血妙魔〟と元聖痕騎士の力、そして『最高傑作』の血。三つ揃えば、この世界の支配構造を根底から覆せる――」
ケンダーヴァルの魔刃が無数に飛来した。
その魔刃を俺も喰らい、左腕と左足が弾け飛ぶ、再生するが――。
パイロン家と古代狼族に捕まって両手を失っていたコトハに、ケンダーヴァルの放った闇の刃が――。
「――ウタジ様!」
最期の瞬間、俺の名を呼び、その穏やかな瞳には悲しみではなく、憂いが浮かんでいた。
嘘だろ……コトハの体が光の粒子となって消えていく。時が止まったような錯覚に陥った。戦場の音が遠のき、視界がコトハだけに収束していく。彼女の最期の微笑みが、まるで「大丈夫」と言っているようで――それが余計に胸を抉った。
守れなかった。また、守れなかった。
吐き気が込み上げる。胃の中身を全て吐き出しても、この虚無感は消えないだろう。膝が震え、立っているのがやっとだった。
メイラスは、パイロン家の<従者長>コザムを魔杖から伸ばした魔刃で突き刺し倒すと、
「コトハ!? くっ、若様、退きましょう、ハルゼルマの、否、東郷様の血を絶やすわけにはまいりません! このシックルがあれば、若様は!」
「あぁ、だが――」
ケンダーヴァルが用意したであろう怪物兵を<血魔力>を込めた<血刀・襲>で一刀両断にして倒す。メイラスは<従者>マムラシを救うように、前に出て、魔杖を突き出し、怪物兵の頭部を真っ二つにした。そして、
「<従者長>エクスとモヒィトコも……ラガメイジとコトハ様も皆、若様を逃がすために……! あ、ミレイに、サルジン、スゥンたちは別の通路から脱出していきました! 彼らと合流し、再起を図るのです!」
メイラスの声には単なる忠誠以上の真実を知る者としての切迫感があった。
コトハの名を聞き胸が締め付けられる。
ミレイたちが生きている……?
その事実に、絶望の中にわずかな光が差す。
ミレイ……共に何度も地上に出た。
ルグナド様の成果である、双月神ウラニリの崩壊した月の残骸と、小さい月の下で誓いを交わした元恋人、否恋人であり続けていたと思う。
そして、百の戦場を共に駆け抜けた戦友。
コトハとの間で自分を挟み複雑な感情の三角関係を形成したが、その強さと忠誠に、互いの愛は揺るがなかった。
メイラスに引きずられるように崩壊する研究室を後にする時、頭の中は混沌としていた。
記憶の中に数千年分の光景が走馬灯のように駆け巡る。
父の面影、母の笑顔、メイラスの教え、ミレイとの戦い、コトハとの静かな時間、サルジンの豪快な笑い声、スゥンの冷静な助言。そのすべてが今この瞬間に失われようとしている。
数千年という吸血鬼としての生を通じて『終わり』を幾度となく目にしてきた。
しかし、それらはすべて他者の『終わり』だった。
今、初めて彼自身の世界が終わろうとしている。
それは恐怖であり、同時に奇妙な解放感でもあった。
……自分自身の意志だけで生きていく。
という、これまで考えもしなかった未来が、暗闇の向こうに広がっていた。
母は最後の力を振り絞って、ガラス槽を守るように立ちはだかっていた。
ケンダーヴァルへの最後の抵抗として。あるいは、神への最後の反逆として。
地下通路へ続く隠し扉の前で、怪物兵とパイロン家の<従者長>と<従者>の複数人をメイラスと二人で、なんとか倒しきると、メイラスは母から預かっていた覇王のシックルを手渡してきた。
「若様、これを――」
シックルは手にすると<血文王電>と共鳴するようにわずかに振動――。
刃の模様が一瞬強く輝いた。
奇妙な冷たさと熱が同時に掌を走り、脳裏に父の姿が一瞬よぎった。
父がこの武器を通して、俺に残した想いは、この覇王のシックルを使うたび毎回感じていたが、今回は強い想いを感じた。
シックルの刃に刻まれた模様が、俺の血に反応するかのように赤く脈打ち、意志とは無関係にシックルが白い雷状の魔力を纏い、その形状をシンプルな直剣の闇夜を彷彿とさせる魔剣へと変貌させた。
中心はダークブレード、ダークソードと呼べる色合いだが白い雷状の魔力が、外を覆う。かすかに響かせる大氣を焼くような音は父の日記にもあったソレグレン星の未知な高度文明を思わせる。
これは父の遺産と母の研究の結晶でもあり、自分自身の血の謎を解く鍵でもあるはずだ。
父上……。
これが貴方の遺した力、そして、俺が進むべき道を示すものなのか?
「……若様……これを……『覇王のシックル』と、ソーニャ様は……これこそが若様の力の真髄を解き放つ鍵だと……」
メイラスの言葉は途切れがちだった。彼もまた深手を負っている。
腹部からは赤い血が滲み、顔は蒼白だった。だが、その瞳には強い決意が宿っていた。
「若様……その『覇王のシックル』と、ソーニャ様はこれこそが若様の力の真髄を解き放つ鍵だと……この武器には、東郷様が最後に遺した……あなたの血に秘められた力を完全に制御し、真なる可能性を開くための……ソレグレンの秘儀が宿っています……!」
メイラスは言葉を継げず、咳き込んだ。
血が口から溢れる。
彼の脇腹には、パイロン家の兵士の光属性を有した聖槍によるものだろう……光に高い耐性を持つ<筆頭従者>といえど弱点は弱点。<血魔力>の消費が嵩めば体力も落ちる。
更に、深い傷のまま傷の回復が遅い……。
吸血鬼用の毒も染み込んでいる。
「若様、この剣は単なる武器ではない。あなたの父が最後に遺した……希望の欠片でもあるのです」
メイラスの手が震え、力が抜けていく。
涙を流しているメイラス、
「……若様、わたしは、あなたを息子と……」
「メイラス……」
息子のように思う深い愛情と信頼は、ありありと表情に浮かぶ、涙で、メイラスの顔が揺れていた。
そのメイラスの目が見開き、
「生き延びよ! 東郷様の忘れ形見、ソーニャ様の最高傑作……」
血が口元からこぼれる。
手を伸ばし、指が弱々しく俺の手を掴む。
「ケンダーヴァルに奪われたものを取り戻せ、汝の血の根源を掴め……」
声が弱まるが、メイラスの瞳に光が戻る。
「ミレイたちは生きている。汝自身の旗を……」
その言葉には、長年の忠誠と、父、東郷への約束が込められていた。ハルゼルマ家に仕えつつも東郷醍三朗が持っていた理想を忘れていなかったのだろう。
あるいは、ハルゼルマ家の者でありながら東郷、父と母の秘密を守り通す役目を密かに担っていたのかもしれない。
その顔には、千年を超える忠誠と信頼が浮かんでいた。
メイラスは俺を凝視し、
「若様が見出す未来は……必ずや……」
それが最期の言葉だった。
メイラスは追っ手を引き受けるかのように通路の入り口を塞ぐ。俺は暗闇の中へと逃れた。
メイラスの姿が見えなくなる直前――。
体が青い光に包まれるのが見えた。
最後の術式を発動したのだろう。
通路の向こうで、爆発音と閃光が幾度となく連発した。
そして、静寂……メイラスは最後の力を振り絞って追っ手を食い止め、自らの命を犠牲にしたのだ。
メイラス――。
「ウガァァァァァァァァ」
自分が自分でなくなった氣がしながら絶叫した。
暗闇の通路を駆けながら咆哮し、泣いた。
頭の中で無数の疑問が渦を巻く。
己の存在意義とは何なのか。父の遺志、母の研究の真の目的、そして自分はただの実験体なのか、それとも――答えのない問いが脳髄を掻き毟るように痛む。
謎多いが、すべて繋がっているように思えた。
俺の<影刻加速>と<血文王電>は、父の遺産と母の研究がなければ得られなかった力。
この『特別な血』を持つ俺は、戦うために作られたのだろうか?
幼い頃、母上が血まみれの俺を抱き上げ……。
『成功したわ……』と呟いた声が耳朶を打つ。
あの研究者の顔は、俺のすべてだったのか?
それとも……。父さんの言葉が頭をよぎる。
『力は、守るためにこそある』
その言葉に俺は今、応えられて……いない。
失われた仲間たち――。
そしてコトハの面影が心を締め付ける。だが、ミレイ、サルジン、スゥンは生きている。
メイラスの言葉を信じる、必ず生きているはずだ!
まだ、すべてが終わったわけではない。
〝覇王のシックル〟がわずかに脈動し、血と呼応するように光を放つ。これは失われた過去と解き明かすべき未来への手掛かりだ。
自分自身の存在の真実を解き明かす鍵。
そして、数千年の時を生きた<筆頭従者>、家の誇り、そして母の最高傑作。
地下通路を抜け、森の中に出る。
星明りが差す夜の森で、初めて自分が完全な孤独の中にいることを実感した。
ハッ、数千年もの間、母の庇護の下、<筆頭従者>としての地位と力が、これほどの孤独を生むとはな。今やすべてを失った逃亡者だ。
この夜の森で、初めて俺は完全に一人になったことを悟った。
――遠くから聞こえる雷鳴のような音響。
ハルゼルマ家の危機に駆けつけてくれた魔界騎士ヘルキオスと<従者長>モモルが率いた軍か?
それともパイロン家の追撃か、ケンダーヴァルの刺客たちか……立ち止まり、振り返った。
ハルゼルマ家の要塞、その幾星霜の歴史を誇った外壁が蝋のように溶け落ち、赤と紫の妖しい炎に包まれていた。石と魔法で築かれた誇りある砦は今や崩壊の象徴となっていた。
――母もケンダーヴァルも見えない。
――ルグナド様の救援は、すぐには無理だ。
ここは吸血神ルグナド様が支配する傷場はないのだからな。
しかし、地下のハルゼルマ要塞の東には、魔神帝国が所有する黒き環があり、地底神勢力が犇めいている……その防波堤の一つがハルゼルマ要塞。そこが崩れた以上は、他の十一人の<筆頭従者長>、通称女帝が率いる一家と吸血神信仰隊の仕事が増えることになるので、何かしらの対処はされるはずだ。
しかし、ケンダーヴァルめ……。
夜風が冷たく頬を撫で、長い黒髪が風に揺れる。
その瞳に星の光が反射して深紅に輝いた。
「母と父……<筆頭従者>のメイラス、<従者長>のラガメイジ、ペドガラ、ジェームス、そしてコトハ……」
失った者たちの顔が次々と浮かび、胸が締め付けられる。
ミレイ、サルジン、スゥン……。
「必ず、必ず見つけ出す。そして……」
皆と合流し、ハルゼルマ家を再興しなければ。
〝覇王のシックル〟の柄巻を強く握りしめた。
その湾曲した刃が、俺の血と反応するように赤く輝き、<血魔力>を吸収し、黒いブレードが伸び長剣へと変化し、白い雷状の魔力がぼうっとその黒いブレードを覆う。白焔が包む闇夜剣に姿を変えた。
闇夜剣を持ち上げ、剣身の中心の漆黒の核を凝視。
覇王のシックルは、俺の思念と<血魔力>に同調する。
祖先の血の謎を解く鍵でもあるのかも知れないな。そして、この覇王のシックルこと、白焔が包む闇夜剣を天に掲げ、
「必ず……ハルゼルマ家を取り戻す。そして、母たちを殺したケンダーヴァル……必ずこの手で裁きを下す!」
と、言い、己の<血魔力>を解放した。
深紅の光が夜空を切り裂き、吸血神ルグナド様に誓いを立てるかのような意思表示――。
自分自身の手で運命を切り開く、最初の行動。
単なる復讐心だけではない。
自分自身の存在理由を求める強い決意を込めていた。
両親を失い、家を失い、地位を失い、仲間と愛する者をも失った。だが、自分自身の価値を失ったわけではない。
むしろ、初めて自分自身の道を選び取る自由を手に入れたのかもしれない。
その白焔が包む闇夜剣を振るってから、駆けて、洞穴に突入した。