小松くんは困っている。
小松くんは困っている。
足元に転がってきた消しゴムを拾って持ち主に返してあげた日から、なんだかややこしいことに巻き込まれてしまったからだ。
というのもその消しゴムの持ち主である木村くんはいじめられていて、木村くんの消しゴムを投げたのはいじめっこグループのリーダーである城戸くんだったからだ。
城戸くんたちは投げられた消しゴムを拾いに向かう木村くんを、指差して大笑いしていた。
ころころと、小松くんが座っていたイスの足元に転がっていった消しゴムを、木村くんは奇妙な笑顔で追いかけて、拾い上げようとしたのか床にかがみ込んだ。
「はい」
小松くんはその前に木村くんの消しゴムを拾い上げて、木村くんに返してあげた。
「え? あ、ありがとう、小松くん……」
木村くんは奇妙な笑顔をさらに奇妙にして、半ば引っくり返った声で小松くんにお礼を言った。
以来、小松くんは城戸くんを筆頭としたいじめっこグループになんだか敵視されている。
「木村菌が移った」
などと言って、城戸くんたちのグループは、小松くんと廊下ですれ違うとき、とても嫌そうな顔をするようになった。
小松くんはちょっと困ったことになったなと思った。
けれども城戸くんたちのグループはクラス内では浮いた存在で、小松くんの友人たちはそれぞれ城戸くんたちの言動に憤りを見せた。
「なんだあれ。あいつら、いつまで小学生気分なんだよ? 恥ずかしーやつら」
「小松くん、先生に相談しておこうよ」
小松くんはちょっと困ったことになったなと思った。
小松くんは怒れる友人たちをやんわりとなだめた。
「もともと仲良かったわけじゃないし。もうすぐ受験だし。放っておこう」
「でも……」
「問題にする時間のほうが無駄だと思うんだ。どうせ高校は別々になるんだし」
「小松くんはA高を受験するんだもんね」
A高校は名の知れた難関校で、この中学から受験をするのは小松くんだけだった。
小松くんはA高校に合格するのは確実と言われていた。
それでも受験前のナイーブな時期を静かに過ごしたいと小松くんが暗に言えば、友人たちは渋々矛を収めた。
けれども、それで小松くんにこれまで通りの時間が戻ってきたわけではなかった。
「あ、あの小松くん……」
木村くんの消しゴムを拾って返してあげたあの日以来、小松くんは城戸くんたちのグループから敵視されていたが、かといって木村くんが城戸くんたちのいじめのターゲットから外れたわけではなかった。
木村くんは相変わらず城戸くんたちからいじめられていた。
「あの……グループ学習のさ……メンバー……」
「ごめんね。もう坂本くんたちと組んじゃったんだ」
「あ、そ、そう……」
落胆した顔を隠そうともせず、肩を落として去る木村くんから、小松くんは早々に視線を外した。
小松くんはちょっと困ったことになったなと思った。
「木村ってさー、距離感おかしいよな」
「なんか小松くんに馴れ馴れしくなったよね」
「木村がイジメられる理由、ちょっとわかるかも」
「そういうこと言っちゃ駄目だよ。どんな理由があろうとイジメはよくないことなんだから」
お調子者の坂本くんの言葉を、小松くんが軽くたしなめれば、坂本くんは「そうだよな、悪い」と素直に謝る。
とはいえども、小松くんはちょっと困ったことになったなと思っていた。
あの日以来、木村くんはことあるごとに小松くんに声をかけるようになった。
ときおり、木村くんの手は馴れ馴れしく小松くんの肩を触った。
小松くんはちょっと困ったことになったなと思った。
「先生に相談しておこうよ」と提案されたときに小松くんがうんと言わなかったのは、担任の教師は事なかれ主義的で、城戸くんたちのグループを放置している態度を見ていれば、とうてい信頼に値する大人だとは思えなかったからだ。
小松くんはちょっと困ったことになったなと思った。
「――小松くん!」
ひたひたと夜が迫る夕暮れの寒空の下、小松くんはエコバッグを片手にスーパーマーケットを出た。
今夜の献立はカレーライスなのだが、小松くんのお母さんが「あらっ、ジャガイモがないわ」と言ったので、小松くんが買い出しに行くことになったのだった。
「別にジャガイモなくてもよくない?」
という小松くんの弟の言葉は、「カレーにはジャガイモ!」と言う小松くんのお母さんのひと声で却下された。
「小松くん! 小松くん!」
スーパーマーケットを出て帰路に就いた小松くんだったが、自分の苗字を繰り返し引っくり返った声で叫ばれて、振り返った。
すぐに白い鮮烈な光が目に飛び込んできて、小松くんはエコバッグを持っているのとは反対の手をあげ、顔に影を作った。
「小松くん! 小松くん!」
引っくり返った声は今にも泣き出しそうに聞こえて、それを追うように嘲笑う声が近づいてきた。
「おいキモ村~逃げんなよ~!」
やにわに木村くんに抱きつかれた小松くんは、近づいてくる城戸くんたちのグループを見て、困ったことになったなと思った。
白い光の正体は城戸くんが体の前に掲げているスマートフォンから照射されるライトだった。
スマートフォンの画面を見やる城戸くんの視線からして、動画を撮っているのだろうと推察できる。
「こ、小松くん……あの、あの……あいつら……ボクに万引きしろって……」
震える声で、木村くんはそう小松くんにそう訴え出る。
木村くんは小松くんが着ているダウンジャケットを強く握りしめて、抱きついたまま小松くんの顔を見上げた。
木村くんの荒れた呼吸が、小松くんの顔にかかる。
小松くんは、困ったことになったなと思った。
「お前ら、なんなの?」
木村くんが素っ頓狂な声で「え?」と言った。
次いで、小松くんの横に立っている、小松くんよりも背が高くて、がっしりとした体つきの――小松くんの弟を見た。
「お前、なんなの? いつもベタベタベタ、馴れ馴れしくしてさあ」
小松くんの弟は、冬の夜よりも凍てついた声で言い放つ。
木村くんがもう一度「え?」と言えば、小松くんの弟は大きな舌打ちをした。
「いつまで兄さんに抱きついてんの?」
「え……」
「マジキモい。ストーカー?」
学校の門も施錠されている時間帯だったが、木村くんは制服に指定されているブレザー姿のままだった。
そんな木村くんのブレザーの襟ぐりを、小松くんの弟が乱暴につかんだ。
そのまま小松くんの弟は木村くんの腹を、長い脚で蹴った。
「キモいキモいキモい。兄さんに触んな」
したたかに蹴られた木村くんは、その場にうずくまる。
木村くんはうつむいたまま、「なんで?」と引っくり返った声で繰り返しながら、すすり泣きを始める。
そんな木村くんにスマートフォンのカメラレンズを向け続けていた城戸くんが、至極うれしそうな声を上げた。
「――ちょ、暴行の証拠ゲット?! 小松、A高の受験控えてんのにこれヤバくね?!」
喜色満面の笑みを見せる城戸くんとは対照的に、取り巻きの少年少女たちはためらいなく木村くんに暴力を振るった小松くんの弟に対し、わずかながらも恐怖を覚えた様子だった。
「――お前もさあ……いい加減にしろよな」
「は? お前こそ今の状況わかってる? お前小松の弟なんだろ? こんな動画流出したら小松の受験も――」
城戸くんが言い終える前に、小松くんの弟の蹴りが飛んだ。
吹っ飛ばされた城戸くんの体は、取り巻きたちには当たらず、黒いアスファルトの道に転がる。
同時に、城戸くんの手からスマートフォンがすっぽ抜けて、地面に落ちた。
「……は? なんなん、お前……」
蹴り飛ばされ、尻もちをつく形となった城戸くんの口元には、まだ奇妙な笑みが残っていた。
それでも城戸くんが動揺し――恐怖していることは、だれの目にも明らかだった。
この時点ではまだ虚勢を張る元気が城戸くんの中にはあったが、それも小松くんの弟の拳が飛んでくると、いっしょにどこかへ吹き飛んでしまった。
「え? え?」「なになになに」「ヤバいってこいつ!」――城戸くんの取り巻きたちはただそうやって、動揺した言葉を垂れ流すことしかせず、小松くんの弟から暴行を受ける城戸くんを助けるでもなく、見ているだけに終始する。
小松くんは、道に落ちた城戸くんのスマートフォンを拾い上げる。
城戸くんのスマートフォンの画面は、落ちたときの衝撃のためか、クモの巣状の白いヒビが走っていた。
小松くんは動画の録画を止めてから、フラッシュライトをオフにして、ローカルとクラウド、双方のストレージから弟が木村くんを蹴って、城戸くんにも向かっていく一連の動画を削除する。
その間、城戸くんはずっと小松くんの弟に殴られたり、蹴られたりして、涙と鼻水とよだれと血を垂れ流して泣いていた。
小松くんは、城戸くんのスマートフォンにインストールされたチャットアプリを起動し、いくつかスクリーンショットを撮ってから、自分のスマートフォンに転送する。
「クラスメイトをイジメてる動画とかチャットのやり取りとか、ネットに流出したらマズいってわかるよね?」
城戸くんたちの取り巻きは、化け物を見るような目で小松くんを見た。
「わかるよね?」
小松くんが念押しするように再度言えば、取り巻きの少年少女らは意味ありげに視線を交わしあったあと、小松くんに向かって凍りついた顔のまま、何度かうなずいた。
小松くんは自分のスマートフォンに転送した、城戸くんたちのいじめの証拠をインターネット上に流出させる気は毛頭なかったが、自分たちの未来のために仕方なく釘を刺しておく。
「木村くんも」
小松くんは次いでアスファルトの道に座り込んだままの木村くんを見た。
「そういうわけだから。学校でも外でも、俺にもう係わらないでね」
小松くんがそう言うまで、どこか希望に満ちた目をしていた木村くんは、ショックを受けたような顔になる。
小松くんはそんな木村くんの表情の変化を見ても意に介した様子もなく、今しがた城戸くんの腹を蹴り上げた弟を呼ぶ。
「お腹空いたから、帰ろう」
小松くんは弟が持っていた日用品の入ったエコバッグを地面から拾い上げて、差し出す。
小松くんの弟は、兄が差し出したエコバッグを手に取ってから、地面に転がる城戸くんの体をまたいで、小松くんのそばに戻る。
小松くんと小松くんの弟は、木村くんと城戸くんたちをその場に残して、再び帰路に就いた。
「兄さん……さっきのやつらさあ」
「ああ、釘を刺しておいたし、脅せる材料もあるから――」
「そうじゃなくてさあ」
小松くんはそっと弟の名を呼んでから、エコバッグを持っているのとは反対の手で、弟の手を握ってやった。
いつの間にか小松くんよりも大きく、角ばってきた手だが、小松くんからすれば可愛い弟の手である。
小松くんの狙い通りに、小松くんの弟は言いたかった言葉を呑み込んだらしく、しかしそれでもしばらくもごもごしていた。
「わかってるよ。でも学校では兄弟だって秘密」
「でも、あいつら」
「そんな根性ないだろうから大丈夫」
「でも――」
「お前は俺にベタベタしすぎ。昔っから引っつき虫なんだから。だから学校では駄目」
小松くんがきっぱりと言えば、小松くんの弟は目に見えてしぼんだ。
小松くんの弟は、小松くんよりも背が高くて、ずっと体も分厚いのだが、小松くんからすればいつまでも可愛い弟である。
小松くんが「ふふ」と笑い声を漏らせば、小松くんの弟からは不満げなため息が漏れ出た。
「『学校では』だから、家ではいいよ。外では駄目」
小松くんがそう言うと、小松くんの弟の体が、とん、と小松くんの肩に当たった。
そんな弟の慎ましやかな甘えかたに、小松くんは思わず笑ってしまう。
小松くんが「外では駄目」と言ったから、小松くんの弟はこういう態度を取っているのだ。
――弟って、いつまでも可愛くて困っちゃうな。
小松くんは弟にはなんにも言っていなかった。
けれども同じ学校に通ってはいるから、きっとどこかで木村くんや、城戸くんたちとのあれこれを偶然、見てしまったのだろう。
あるいは、いつだって兄の姿をその目で捜していたか――。
小松くんはまた「ふふ」と笑った。




